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二世の二重国籍と結婚問題〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史 第10回

『北米時事』1939年6月10日 「二重国籍問題、問題とならん」

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第10回 二世の二重国籍と結婚問題

前回は国語学校についてお伝えしたが今回は第二世が成人していく中で起こった二重国籍問題と結婚問題についての記事についてお伝えしたい。

二世が誕生した時に、米国へ出生届を提出すると同時に領事館を通して日本へ出生手続きを行い、多くの二世が二重国籍者となった。二世は成人となり、どちらの国の国籍を持つべきか、又どちらの国の人と結婚するかという切実な問題に迫られた。

二世の出生届け 

二世の数が増大していった1919年頃の出生届けについての記事があった。 

「米国出生児童の入籍手続きに就て」1919年1月16日号

「米国に於て出生したる児童にして、日本入籍の手続即ち領事館へ出生手続きをなさざりし者が、 日本に帰朝する時は規定により、一旦日本の戸籍に入籍し、然る後に国籍離脱法に従ひ、離脱の手続きをなすか、或は二重国籍のまゝにて、後に至り手続きをするが、後れにして一旦 は入籍の手続き必要なれば、今後の出生者は必らず領事館に届をなすべし。帰国者は郷里に於て其手続きを為すべしとの事なり」

文献によると当初は、米国出生者は米国と日本の両方へ出生届けを出す必要があり、以後日本国籍を離脱することはできなかった。しかしこの記事にも見られるように1916年から交付された改正国籍法で17歳未満であれば、手続きをすれば、日本国籍を離脱することができた。更に1924年12月より年齢に関係なくいつでも日本国籍を離脱でき又出生後14日以内に領事館へ出生届けを出さなければ、自動的に日本国籍を離脱できた。

「二世の教育と結婚と就職と事業の継承と」1934年8月8日号

「内山領事は本日の日本人会臨時協議会に、日米関係の好転、同胞社会状態の変転、その将来について述べ、時代の変遷を物語るものとして、米国沿岸在留の日本人が日本政府に国籍法改正の急を提案した1915年頃の状態と今日のそれとを比較してみるとその変化は驚くべきものありと云って、当年沿岸協議会の名にてなした国籍法改正建白書中の文字を引用して国籍の改正に至るまでの経過を呼び起こした。(中略)

『北米時事』1934年8月8日「二世の教育と結婚と就職と事業の継承と」

領事は過去及び現在の出生状態とその国籍保留について当地領事館管内に最も同胞の出生率が高かったのは1922年から24年頃、出生5000と云われた頃、日本国籍留保のものの数はその半数に足らず。しかも現在国籍を離脱するものの数頗る多く、更に近年に至っては出生者は当年の一割に減じ、内日本国籍を留保するもの三分の一。更に国籍の離脱をなすものを加へるとそれ等の大半は、やはり米国のみの国籍を保留して居る状態であるに鑑み、諸氏は二世の教育、結婚、就職、事業の継承等々について充分の研究をされんことを望む云々と述べた」

『北米年鑑』1928年によると1924年12月〜1925年11月までのシアトル帝国領事館内で出生者972人の内348人(約36%)がアメリカ国籍と日本国籍を同時に持つ二重国籍者で、残り624人は日本国籍を離脱した米国国籍者だった。

日系米国市民出生者統計(1924年12月1日〜1925年11月30日)(『北米年鑑』1928年、文献等より筆者作成)

領事館名 A,米国官憲受付出生数 B,日本国籍留保者数 日本国籍離脱者数(A-B)
二世合計 二重国籍者 米国国籍者
% %
シアトル 498 474 972 170 178 348 35.8 328 296 624 64.2
サンフランシスコ 2,624 640 24.4 1,984 75.6
ロサンゼルス 1,937 578 29.8 1,359 70.2
ポートランド 393 129 32.8 264 67.2
ニューヨーク 67 53 79.1 14 20.9
全米計 5,993 1,748 29.2 4,245 70.8

二重国籍問題

「日系市民は日本の国籍を離脱せよ」 1938年2月18日号 
『北米時事』1938年2月18日「日系市民は日本の国籍を離脱せよ」

「アメリカンリージョン全米副指揮官のゼームス・アール・マハフイ中佐はアメリカンリージョンハワイ支部の米化委員会が率先して日系市民の日本国籍離脱運動を起す必要があるとて次の如く論じた。

『この運動を効果的たらしめるには、先づ日本人の父兄を教育してかヽらねばならない。それにはアメリカは日系市民を心から歓迎するものであるが、然しそれには日本の国籍を離脱し、アメリカ一国のみに忠誠であると云ふことを示す必要のあることを説いて聴かせねばならぬ』」

「日系市民の日本国籍離脱」 (一)(二)1938年3月28、29日号

マハフイ中佐の提言に対して、有馬純義は、「北米春秋」で次のように語った。 

「第二世の二重国籍問題は今日まで種々論議され、注意され、警告されて来て居るが、これは結局は、はっきり解決されねばならぬ問題である。この二重国籍は日本の国籍法と米国のそれとの根本的相違、即ち属人主義と属地主義の間に生ずる奇形的存在である。国家はその国民に絶対の忠誠を要求する。(中略)我等はマハフイ中佐の日本国籍離脱の意見に反対すべき理由を持たぬ。それは米人としての当然の意見であると思ふ。この意見は寧ろ善意の日本人に対する警告と注意であった。(中略)果して然らば彼等が丁年に達すると同時に自己の意志に従ってその国籍を決定せしむるが最も簡単なこの問題の解決法ではないかと思ふ。だが問題は理論と実際の必らずしも一致せず、或はそこに他の困難なる問題が起り易いことである。その一つは彼等の国籍が法律上明確に決定されたと云ってもその社会的待遇と地位が比較的彼等に冷遇であったとしたなら彼等を待つものは失望にあらずんば自屈であらう。これは米国人のもっと同情と理解をもって日系市民の立場を考へて貰はねばならぬ点である」

「二重国籍問題加州議会で問題とならん」—排日議員一味が策動— 1939年6月10日号
『北米時事』1939年6月10日 「二重国籍問題、問題とならん」

「加州議会の排日諸法案通過阻止運動に全力を尽し好果を挙げつゝある全米日系市民協会長坂本弁護士より、『カリフォルニア州議会の排日一派、並に在郷軍人団中に第二世の二重国籍を問題としようとしてゐる形勢がある』と注意してきた。同氏は更に『同州の州議会で排日漁業法案、並びに排日土地法案の通過を図って悉(ことごと)く失敗に帰した彼等排日一味は、第二世の米国に対する忠誠問題を表面化せんとしてゐる情報あり。各地日系市民協会で父兄側とよく諒解を遂げ、二重国籍者は至急、単一国籍に改めるやうに慫慂(しょうよう)して貰ひたい』と言ってきた」

この記事に対して有馬純義は、「北米春秋」で次のように語った。

「解決を要する第二世の二重国籍」1939年8月2日号

「第二世の二重国籍は何時までもこの儘(まま)に放任さるべきものでない。未定年者のそれは親の意志、便宜のみによって決定さるべきものでないから、暫らく二重国籍の存在も事実上、止むを得ぬのであるが、既に丁年に達せる男女は自分の意志をもってその何れかの国籍を決定すべきである。米人側からのこの忠告が発せられる前に、我が方に於て当然考へて置かねばならぬ問題であり、又その時機は真に到来して居るのである」

有馬純義は、二世がアメリカ市民としての地位を確立し、日系人社会がアメリカの地で生き残っていく為に、二重国籍者は日本国籍を離脱すべきだと主張している。

在米二世への見方 

在米二世が日本やアメリカからどう見られていたか、また反対に在米二世が日本をどのように見ていたかを語った興味深い記事を紹介したい。

日本の女子学生の見た在米二世「彼女の見た二世」—在米邦人の祖国認識それは明治大正物です— 1935年10月4 日号
『北米時事』1935年10月4 日「彼女の見た二世」―在米邦人の祖国認識それは明治大正物です―

「今夏、ポートランドで開かれた日米学生大会へ日本の学生代表として渡米した月本峰子嬢の在米二世に対する感想と云ふのが下のように伝えられて居る。一学生の感想らしいところもあるが彼女は云ふ。

『在米の二世女子はすべて米国婦人に似て居る。しかし意外に日本語は上手なのに感心した。之は満州事変後、俄に日本語が盛になり、日本のことが色々と研究されたりする様になった結果だと思ふ。昨今あちらでも日本舞踊はとても盛ん。又お茶、活け花、皆とても流行して居る。しかしその多くは親達から聞いただけの明治大正時代の日本を思ひ、現在もそのやうなものだと思ってゐるらしい。まだまだ理解が足りない。それから二世女子は日本で教育を受けた殿方が嫌ひだそうだ。そして日本に行って見物したいが、決して永く住む所でないなどと思っているそうだ。それは私達にしても米国には若い時代、二、三年間は楽しく学びたひが決して永く住む所ではないと感じるのと同じだと思ふ。外国人ならうなづけるが、日本の血をうけた人々の考へかと思ふと不思議に感じる。(中略)

二世男子はやり米国の男子と同様一体に、無口でおとなしく女のやうな感じがする。米国の男子は日本の女性がお好きだそうだ。そして日本に良き仕事を見つけて帰りたいと云ふのだが。それは、学校に居る時には白人と同じにすべてなって居るが、いざ社会に出ると、良き位置を得ることが大変困難だからだろう。そこで彼等の多くは日本に籍のないことをくやんで居る』」

在米二世男子から見た日本

「ある二世は日本をかく語る」1934年11月1日号

「彼はこんな事を言った。それは日本に来るからには日本を研究するだけの考へがなくてはいけない。日本に行ってもアメリカ崇拝の観念がぬけない様では一つの衝突が起こる様な悲劇が起ると云ふのだ。で彼はかく語る。

『アメリカ崇拝主義で日本を頭からけなすならば来ない方がよい。日本と云ふ国に来るならば、日本を理解して、自分も日本人らしい日本人になると云ふ気がなければ、却って日本に来て日本の物質的な欠点を、アメリカと比較すると、そうは云へないと思ふ。日本は精神的な国だから、それを判らずに帰って来ると却って結果は悪いと思ふ』

それから彼は結婚の問題についてこう云ふことを考へさせられたと云って居る。それは『もしアメリカから帰って日本で配偶者を得たとする。その場合自分が結婚した相手に対する自分の心持ちは満足そのものであっても、日本の親戚関係と云ふ様なことについては全く自信がない。だから実際に自分の家庭を本当に幸福なものにするには矢張り気心の判ったアメリカ生まれを求めねばならぬ』と云ふのである」

アメリカから見た在米二世

「反日的な米紙が日系二世を賞讃」—米国に忠誠尽くすと— 1939年5月1日号

「不敬漫画や反日記事を掲載する『ケン誌』は5月4日付の同誌に日系市民に関するアーネスト・ペインターの記事を載せ写真入りで大要左の如く日系二世を賞讃している。第一世の心のホールは日本で、頻(しき)りに帰りたがっているが、二世、三世となると心情的に全然違ふ。日系市民は公立学校で一番成績もいい。食物と運動の為、体まで違ってくる。日本人は最も勤勉で努力する。

(中略)日系市民が日本と米国の何れに忠誠を尽くすかといふ問題になると、米国に忠誠を尽くす気持ちであるが、例えば日米戦争の場合、日本人だといふので迫害されたら、折角米国に忠誠を尽くしたい気持ちも無くなるであろう。これに反して正しくこれを待遇したらば、第一世も日系市民も他の人種と同じく或はそれ以上に米国に忠誠を尽くすに違ひない」

この記事は、日米戦争を予言し、擩世、二世のアメリカへの忠誠心について、日本人の気持ちを理解した鋭い視点だと感じる。

二世の結婚問題 

二世の結婚問題は在米同胞社会の最重大問題となり日本人会を中心にこの結婚問題をどうするかという検討会が多く持たれた。

「結婚の座談会」「娘年ごろに取残された移民地哀話」1934年12月8日号、12月12日号
『北米時事』1934年12月8日「結婚の座談会」

「12月7日に日商社会部主催で伊東忠三郎、藤平芳太郎、天野正十九、澤田晋作、星出惣吉、山口正等が出席し第二世結婚問題の座談会が催された。(中略)藤平氏が座長で嘗て国校増築の時に同胞の出生率を調査して統計を作成した際、1919年から20年の出生が最高に達した。以来順次下り坂となって居るが当時の出生者は現在既に16、7歳内外に達し、非常に多数を占めて居る。即ち何れも眼前に婚期を控へてる女子多い。(中略)現在シアトル、タコマの22、3歳の女子の数は約100名あるとの話。一年位前カリフォルニア州で男子の婚期に達した者30名位の集合を催したが、女子は集合を求めたが参加者はなかった。男子の大部分は帰米日系であったが、結婚の相手として米国出生者は余りヤンキー式なる故、配偶者として嫌ふ者が多く、又自己の要求を全部容れて呉れる女子を望む様だった。(中略)

結婚の年齢について普通現代社会では22、3歳の女子と30歳前後の男子との結婚が理想となっている。之を標準として考える時、吾々の社会では同年齢同志が結婚の場合には数字はうまくゆくが、過渡期に生まれた女子には相当の問題が起ることとなる。ここに吾々の社会的な難問題が起る訳である」

『北米年鑑』1936年にシアトル市の年齢別人口表が掲載されている。このデータは1934年実績と推測され、記事内容とほぼ合致する。

結婚適齢期を迎える1940年における女性20〜24歳、男性28〜32歳の年齢別人口を予想すると、圧倒的に女性が男性より多いことがわかる。

米国出生シアトル二世の年齢別人口予想(『北米年鑑』1936年より筆者作成)

1934 1940 未婚 既婚
年齢 出生年 年齢 総計
10 1924 92 118 210 0 0 0 210
11 1923 118 114 232 0 0 0 232
12 1922 134 122 256 0 0 0 256
13 1921 137 121 258 0 0 0 258
14 1920 (女)結婚適齢 20 153 127 280 0 0 0 280
15 1919 21 121 124 245 0 0 0 245
16 1918 22 95 102 197 0 0 0 197
17 1917 23 66 77 143 0 0 0 143
18 1916 24 87 76 163 0 0 0 163
19 1915 89 56 145 0 1 1 146
20 1914 70 55 125 1 8 9 134
21 1913 71 45 116 1 10 11 127
22 1912 (男)結婚適齢 28 72 37 109 1 12 13 122
23 1911 29 46 18 64 1 12 13 77
24 1910 30 28 15 43 1 8 9 52
25 1909 31 28 7 35 1 12 13 48
26 1908 32 13 11 24 4 15 19 43
27 1907 10 5 15 5 13 18 33
28 1906 9 2 11 4 6 10 21
29 1905 12 1 13 2 9 11 24
30 1904 2 0 2 2 6 8 10
「第二世女子の日本における結婚」1939年1月20日号 

第二世女子の結婚について有馬純義は、「北米春秋」で次のように語っている。

「 第二世女子の結婚問題の解決法の一つの方法として子女を日本に送ってはどうかと云ふ意見がある。しかし一般的に賢明と云はずんば実行可能な問題かと云ふと必ずしも左様ではない。日本に於ては米国に於けるが如く簡単ではない。日本では結婚に女子の年齢制限がある。23、4を過ぎると既におくれたものとされるのである。そこに30歳近くの第二世が帰って来ても果して適当な配偶者を得るであろうかと云ふと、中々難しい問題である。その位の年齢に達した女子の結婚の相手はどうしても再婚の相手しかないことになる。(中略)

第二世女子は何と言っても善かれ悪しかれアメリカ娘、日本人男子との心理的、教育的、又因襲的相違は決して双方の幸福をもたらさぬのである。(中略)

生活的には第二世女子にとっては矢張り米国が一番幸福なのではあるまいか。然も現実の問題として年長女子の結婚難の問題がある。これは相手を得ざる以上自分自身がどう考へても解決されぬ問題である。然もこのままに放置すれば社会的にも種々な問題を惹起する危険が予想されるのである。それ等第二世女子自身も自分達の地位と境遇をよく鑑み両親も本現実を直視して適当な所で妥協するのが結局賢明なのではないかと思ふ。女子は結局結婚生活に於てその幸福がもたらされるからである」

二世同志の結婚

『北米時事』には二世同志の婚約や結婚式の記事が1938年以降、大戦中の1942年に至るまで、頻繁に掲載された。1942年の大戦中の緊迫の中での二世同志の結婚の記事を紹介したい。

1942年1月21日号にはシアトル市の二世同志の婚約が決まり、花嫁、花婿の氏名のみならず媒酌人の氏名も記載し、結婚を祝していた。花婿はアメリカ陸軍にめでたく入隊したと記されている。

又同年1月27日号にはシアトル市内の2組の二世同志の婚約記事、2月5日号には1組の結婚の記事が掲載されている。

更に、日系アメリカ人の強制収容の決定される寸前の2月16日号に、元老と言われたオーバーン夏原商会店主の夏原千代吉氏の三女富子嬢がオレゴン州ヒルズボロ在住の豪農家の岩崎安吉氏の長男譲爾(じょうじ)君と結納を取り交わし、近日中にオレゴン仏教会にて結婚式を行うという記事があった。

これ等の記事を見て思うことは、大戦中での二世の結婚は日系アメリカ人として、これからアメリカで生き抜くという強い自信と誇りを持ったものに感じる。

多くの二世達は日本とアメリカの板挟みとなり、二重国籍問題や結婚問題に悩みながらも、一世達の懸命なサポートと二世達自らの努力でこの難問に立ち向かい、その後の日系人社会の発展に尽くしたのだ。

次回は二世達が進学した大学についての記事を紹介したい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①『北米年鑑』北米時事社、1928、1936年②在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年。③坂口満宏『日本人アメリカ移民史』不二出版、2001年。

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。