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国語学校での2世教育〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史 第9回

『北米時事』1920年1月1日号「シアトル国語学校生徒」写真

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

筆者:新舛 育雄

第9回 国語学校での2世教育

前回にお伝えした写真結婚から多くの日系2世が誕生し、アメリカで生まれた子どもたちの日本語教育がシアトル日本人社会での課題となった。今号では、2世の日本語教育のために創立されたシアトル国語学校についてお伝えしたい。

シアトル国語学校創立

シアトル日本人会は1902年に、北米最初の日本語学校として「シアトル日本人会付属小学校」を創立した。創立当時、生徒数は4人、教師1名。1908年に「シアトル国語学校」へ名称変更した。校舎は日本人会の建物内にあり、その後に「シアトル仏教会」地下室に移転。生徒数が増加したために、1912年に新校舎がウェラー・アベニューに新設された。この新校舎の2階の窓からはレニア山の壮大な眺めを見ることができた。この校舎は、現在もワシントン州日本文化会館として現存している。

増築工事

1917年末に、更に4教室の増築が計画された。この増築工事の様子を記載した記事があった。

「増築委員会」1918年1月8日号
『北米時事』1918年1月8日号「増築委員会」

「国語学校増築工事も茲(ここに)十余日にて全く竣成(しゅんせい)すべき運びとなり居れるが、奥田平次会長及び委員宮川万平氏は近々帰朝の筈なるにより、同委員は昨日実業倶楽部に会して種々協議したるが、今日までの寄附金は6789㌦10セントに及び今後寄附あるべきもの1300〜1400㌦あれば合計上には何等差し支へを生ぜざるべしと。尚前記二氏帰朝後は補欠をなさず伊東忠三郎副会長並びに現委員にて新建物の契約を了し、会計報告をなすこと。岩村次郎集金主任及び助手も一月以後は無給にて後始末をなすこと等を決議して散会せりと」

このように、国語学校の増設工事はシアトル日本人の寄附金により実施された。寄附金合計の約8100㌦は現在の価値で約1600万円ほど。会計業務も無給のボランティアが行っていたとあり、1世達がアメリカ生まれの子供たちの教育のために、いかに力を注いでいたかが伺える。

「国語学校学芸会、増築落成式」1918年5月11日号

「国語学校に於ては明日曜日午後一時より五時まで増築落成式を兼ね生徒学芸品展覧会を開催する由。式は正三時校庭に於て挙行。順序は司会者、高畠校長、▲挨拶、司会者、▲君が代、生徒一同、▲学事報告、校長、▲増築収支報告、岩村増築委員、▲祝辞、秋吉学務部長、▲同、松永領事、▲謝辞、伊東会長、▲米国国歌、生徒一同」

このプログラムを見て驚くことは、最初に生徒達が日本国歌「君が代」を歌い、そして最後に米国国歌を歌っていることである。生徒達はみな、平日は米国人と同じように公立小学校へ行き、終了後に国語学校へ通っていた。2世の子供達はアメリカの教育と日本の教育を同時に受けるという過酷な状況にあった。当時の日系人社会では、アメリカ社会にとけこもうと米化主義の気運が高まっており、2つの国家が目指すところを満足する2世を育てようとしていた。

1920年1月1日号に、生徒達が校舎の前で集合した写真が掲載されていた。左後ろに見える建物が、増築された校舎だと推測される。

『北米時事』1920年1月1日号「シアトル国語学校生徒」写真

国語学校維持会

国語学校は日本人会から独立し、国語学校維持会によって維持管理されるようになり、維持会員の会費や寄付金により運営された。維持会総会の様子の記事が掲載されていた。

「維持会総会」1920年2月26日号  

「国語学校維持会臨時商議会は一昨夜実業倶楽部に於て開催。卒業證書印刷、教室掃除人存続及び3月4日総会を開き父兄会費増加の件、並びに補習科を高等科と改名するの件を提出協議するを可決したりと。因(ちなみ)に同校昨年度一人、一ケ月の教育費平均額は2㌦30セントなりと」

教育費の当時、月間2㌦30セントは現在に置き換えると約5000円ほどとなる。文献によると、1919年の生徒数は187名で、国語学校全体の教育費は年間5161㌦、現在に置き換えると約1000万円程度になる。

国語学校卒業式

「国語学校卒業式」1918年3月25日号
『北米時事』1918年3月25日号「国語学校卒業式」

「国語学校第10回卒業式が昨日午後1時日本館で開かれたるが、卒業生は男8名、女6名にて式は高畠校長の挨拶に始まり壮重(そうちょう)に執行せられた。当日出席の各生徒に配布したる菓子は 古屋商店、東洋貿易、シアトル正金銀行、日米仲買、平出商店より寄付された。在校生第1学年から第8学年までの一等賞(4名)、二等賞(15名)、特別賞(30名)の氏名が掲載。12時半に、同校内で記念撮影、古屋夫人より卒業者一同に祝品が寄贈された」

ベルビュー国語学校

「ベルビュー国語学校開校式」1918年4月8日号

新しく創立されたベルビュー国語学校の開校式の様子を伝える記事が掲載された。

「ベルビュー村にては学齢児童既に20有余名を算するに至りたるを以て、今回、岡村夫人を教師に招き、国語学校を開設することとなり、昨日国語学校開校式を挙行した。シアトルより中島日会書記、大北日報社の中村、神部利吉諸氏、及び本社の有馬等参列したり。松沢理事司会、山極啓吉君勅語を奉読し、有馬、中村、中島、龍崎諸氏の祝辞又は演説あり。終わって茶菓の饗宴ありて盛会なり。同村の須田君は特にシアトルよりの来賓を其宅に招きて昼食を供し大に歓待したり。因に岡村夫人は鹿児島県大隅の人にして其郷里に於て長く小学教育に従事したる事ありという」

国語学校についての意見

「随感随筆」1918年4月8日号第一面

ベルビュー国語学校開校式で挨拶した北米時事社社長の有馬純清(すみきよ)が「随感随筆」に自身の演説内容について語っていた。

「我等は純然たる日本人であるけれども、我等の子孫は米国の市民たる者である故に米国的教育を主とし、日本的教育は単に日本語を教えるという位に止めて然るべし。米国に生まれ、米国の市民であり、米国の教育を受ける児童に向い、日本主義を鼓吹し、日本的教育を授けるのはよくない。米国人が之を知るならば必ず日本人の国語学校に反対し、且つ日本人は到底同化し得ざる人種なりとて排斥するであろう。されば国語学校には善良なる人物を造るを目的とし、同時に単に日本語を教えれば事足りる。即ち天を敬し、人を愛し、正義を尊び、社会に貢献すべきを教えれば善いのである。然らば彼等子弟は米国に在りては善良なる米国の市民となり、若し又日本に帰って生活する時には忠実なる日本臣民となるであろう」

アメリカは第一次大戦後、国内にいる外国人すべてに米化主義を徹底させることに最高に高揚した時期だった。有馬純清社長は2世がアメリカ社会に馴染むように、国語学校を運営していく必要があることを力説している。

国語学校長 妹尾萬郎「ポートランド市国語学校に就いて」1919年1月1日号
『北米時事』1919年1月1日号「ポートランド市国語学校」写真

この記事は北米時事社ポートランド支店主任で後の社長となる有馬純義(すみよし)から依頼され寄稿。この記事の中で妹尾校長の国語学校についての意見が述べられている。

「各地国語学校は依然其の地方地方によって立案さるゝ。在来の制度に準じ、更に時代の要求に応ず可く、識者或は父兄の意を斟酌して、一意向上発展を計って居るのである。此の意義により『米主日従』主義は、昔より依然として変わらざる当地国語学校の根本的方針である。大綱においてこうであるから、学校に於ては主に日本の『国語』を教えるという事が本旨でその他に理屈はなし」

教科書問題

「教科書問題」1919年2月13日号

「シアトル国語学校にては兼て教科書編纂の議あり。学務委員会にてしばしば協議の結果当ワシントン州各地国語学校教師並びに維持会役員、学務委員等の意見を徹して最後の決定をなし編纂に決せば協同事に当ることゝなりたるより、一昨日実業倶楽部に於て州内15校当事者会を催したるが、出席者は8校を代表せる。

植村(スポ—ケン)、槇山、山下(ケント)、住吉(ウインスロー)山際(ベルビュー)、木下、及川(ファイフ)、友貞(オロリア)、柿原(ポートブラツレー)、熊谷(グリンレーク)諸氏、

シアトル国語学校側は高畠校長以下教師6名、伊東維持会長、秋吉学務部長、天野、橋口、永井、土屋の学務委員諸氏にて伊東氏を座長に推し懇談会となした。

(中略)秋吉氏は沿岸協議会が本問題に関し昨年来調査を進めつゝある如くあると。サンフランシスコ及びロサンゼルスに於ては既に着々と編纂を行ひつゝある如くなれば、教科書を改訂するか、或は新た編纂するの要あるは各地共之を認め居れるのと見るべきは改訂若しくは編纂の時機到来せりと述べた。

高畠氏は現在使用の文部省国定教科書内容中不適当の個所及び児童に採りて余りに困難なる個所に就て説明。

(中略)来会あらざりし6校の意見を求め当国語学校学務委員会にて多数意見に従ひて決定すること。編纂着手の際には費用は一般寄附に仰ぐことゝし、且つ本年より毎年一回州内国語学校関係者の懇談協議会を開くことを可決した」

この記事は、米化主義を推進するために、それまでの日本と同じ教科書から新しい教科書の編纂の動きが高まっていたことがよく伺える。文献によると、1920年から27年にかけて8巻からなる新しい教科書『日本語読本』が刊行された。高畠氏がこの教科書の編集主任だったと推測されており『高畠版』と呼ばれている。

シアトル国語学校長、高畠虎太郎

「一日一人人いろいろ–高畠虎太郎」1919年2月18日号

シアトル国語学校長、高畠虎太郎が紹介された記事があった。

「福岡県人会長、国語学校校長たる彼は、淡影と号して俳句に長けている丈(だ)け人物は稍(やや)俳味(はいみ)をおびている。嘗て北米時事記者たり。旭新聞にも筆を取り、現在は大北日報記者をしている。斯く新聞界は浮気したが学校の先生だけは10年1日の如く始終している。沈黙寡言(かげん)一向要領は得ぬようだが、実はあれはなかなか要領を得る男である」

高畠虎太郎は1909年から1928年までシアトル国語学校校長を務め、国語学校の運営に多大の貢献をした。

東京校長の米国見学団のシアトル訪問

「東京校長米国見学団」1919年1月10日号
『北米時事』1919年1月10日号 「東京校長米国見学団」

「昨年10月山科実業使節と共に春洋丸にてサンフランシスコに上陸し、東部各地の学校を参観し教育制度を視察研究したる東京高小学校校長米国見学団は守屋団長を除き16名(氏名記載)各校長諸氏がセントポールより昨日シアトルに到着した。(中略)昨日1月9日は高畠シアトル国語学校校長、中島日会書記の案内にて先ずメインスクールを参観。親しく授業の模様を視察し、午後に領事館教育課他知名の公立小学校を参観したり」

一行見聞談

「以前の小学校長見学団は順序を作る時は当西北沿岸を逸したれば、シアトルの事に就ては何等の智識なく、又日本に於てもシアトルを知る人稀なるが、今回此地に来りて同胞の発展状態に接触し、其意外の進歩に驚きたり。見聞悉(ことごと)く新たなるも、就中(なかんくず)米国に在る同胞児童が強壮なる体格にて生気溌剌(はつらつ)たる血色には愉快を禁じ能はず。之を日本児童にして我等に学校に来り居る小学生徒の多くが血色悪しく貧弱たる健康状態に在るに比して感殊に深く在米児童の発育良好なるは欽羡(きんぜん)に堪(こた)へず。而(しこう)して到る所の同胞児童教育の困難なる先達者当局者の苦心せらるゝ所にて我等本邦に在りて其局に当たる者は在外当局者の苦心に同情に堪へず。(中略)在米同胞諸君が在留民の為、我が国家の為に奮闘、努力せらるゝに深く敬意を表す」

当日号の「見たり聞たり」には次のように掲載。

「日本の校長先生が米国の暖房設備に驚いた。日本では火鉢しかなく、先生が口では『寒気に耐えねば大人物になれぬ』と言っているが実は先生もぶるぶる震えている」

このアメリカ訪問について書かれた文献には視察団がシアトル国語学校を訪問し、多くの寄付により校舎が建設され、机、腰掛等も完備していることに驚いた事が記されている。又北米時事社の宮崎徳之助氏は一行が宿泊しているホテルを来訪し『北米年鑑』を視察団全員に手渡し喜ばれたそうだ。

1934年以降のシアトル国語学校

1934年以降、国語学校の盛況の様子を掲載した記事が多く見られた。

「国校の夜学」1934年12月1日号 

「国語学校でハイスクール卒業生を対象に一週一夜、20時から21時迄の夜学を開始する」

「教師懇談会」1935年10月17日号

「11月14日にシアトルで第14回西北部教師懇談会が開催される」

「国校巡査慰労」1938年12月22日号

「寒い冬の夕刻に国語学校へ通うシアトル国語学校の生徒、1200名の交通安全を守る少年巡査達の慰労会を行う」

国語学校卒業式

「国校卒業式」1938年3月26日号

翌27日に国語学校卒業式が日本館で行われた。卒業生は小学科129名、中学科1名だった。卒業生中の優等生の25名(男8名、女17名)の氏名が掲載された。

「国語学校の修業式と卒業式」1939年3月25日号

この年の卒業生は小学科137名、中学科7名だった。十ケ年皆勤賞が中学科の女子生徒2名に授与された。

「第32回卒業式」1940年3月30日号
『北米時事』1940年3月30日号「シアトル国語学校第32回卒業式」

卒業生は小学科118名、中学科、9名、計127名。卒業生の優等生小学科28名(男5名、女23名)中学科5名(男1名、女4名)と皆勤生19名の氏名が掲載。

何れの年も優等生に女子生徒が非常に多いことに驚く。1920年頃の卒業生は10数名だったが、1939年には144名にもなっていた。

シアトル国語学校長、中河頼覚(よりあき)

文献によると中川頼覚氏は1925年にワシントン大学に通いながらシアトル国語学校の教師として加わった。1929年に校長となり1941年12月7日にFBIによって逮捕されるまで国語学校を支え続けた。

「国校行進曲」1938年7月12日号
『北米時事』1938年7月12日号「国校行進曲」中川校長が作詞

「中河頼覚国語学校長は今回『国校行進曲』を作詞したので後援会では松山芳野里氏に作曲を依頼。夏季学校開始と共に練習を重ねレコードに吹き込んだ由である。(中略)行進曲の歌詞は左の如し」

『仰げひらめく星条旗 星ぞ市民の心なる 自由と忠誠(まこと)あらはせる 我等の旗は世界一』

文献によると、作曲家の松山氏が同校を訪れたのを機会に曲をつけてもらい、歌のレッスンも授かったという。この行進曲は生徒に馴染みの曲となり、卒業式や運動会で盛んに唄われた。

1938年10月14日号の「国語学校学芸会」で国校行進曲が勇ましく歌われたと掲載されている。

国語学校運動会

毎年初夏に行われた運動会は、シアトル在留日本人のほとんどの人が参加する一大イベントであった。

「国校の運動会」1938年5月31日号
『北米時事』1938年5月31日号「国校の運動会」写真

「 雨模様の空も、お昼前から晴れて国校運動会は堂々たる喇叭(ラッパ)の音を合図に去る29日午前11時ゼェファーソン公園にて開始された。午前中に5年生までの競技を終わり、昼食後は飛行機落としやオリムピック・リレー又は遊戯、合唱等があり午後5時校長の挨拶で終了を告げた。雨の風で薄ら寒い日和だったが、それでも運動場には多数の父兄が黒山を築いた。(写真は生徒の競技見物の父兄達—カーウイン君撮影)」

二世達はアメリカの公立学校での勉強の傍らに国語学校で日本語の勉強をするという過酷な環境下にありながら努力奮闘し、その後のシアトル日系人社会を支えていったのだ。

シアトル国語学校は戦後「ワシントン州日本文化会館」内のプログラムとして再生した。会館は、日本文化を共有する場として多くの人に利用されている。

シアトル国語学校の歴史(『北米時事』記事、『北米年鑑』、その他文献より筆者作成)

校長 教師人数 生徒人数 卒業生人数 内容 参考文献
1902 柴山義雄 1 4 7月日本人会付属小学校創立 『北米年鑑』1936
1908 坪田義麿 27 国語学校へ名称変更
国語学校維持会結成
『北米年鑑』1936
1909 高畠虎太郎 3 55 ジャクソン街1211番地の建物内へ移転 『北米年鑑』1910
1910 同上 シアトル仏教会地下室へ移転 『シアトル版日本語読本1920-30』
1912 同上 96 12月、ウエラ―街1414番地に新校舎完成 『シアトル版日本語読本1920-30』
1913 同上 4 85 『北米年鑑』1936
1916 同上 125 『米国西北部発展略史』1923
1917 同上 175 11月2階建て4教室増築計画 『北米年鑑』1936
『米国西北部発展略史』1923
1918 同上 179 14 増築校舎完成、卒業式受賞生徒掲載 『北米時事』1918-1-8, 3-25
1919 同上 187 新教科書懇談会、1ヶ年の経費 5,161ドル
卒業式受賞生徒掲載
『北米時事』1919-2-13, 2-26,3-21
1920 同上 242 12 卒業式に維持会員参加 『北米時事』1920-3-27
1925 同上 15 335 10教室増築、中河頼覚が教師に 『シアトル版日本語読本1920-30』
1926 同上 473 中河氏が教頭に 『北米年鑑』1936
1927 同上 15 549 1ヶ年の経費約10,000ドル 『北米年鑑』1928
1929 中河頼覚 3教室を増築。
計23教室,校長室、宿直室完備
『シアトル版日本語読本1920-30』
1931 同上 25 1,195 1ヶ年の経費21,374ドル 『在米日本人史』1940
1933 同上 24 1,278 『シアトル版日本語読本1920-30』
1934 同上 1,297 夜学開始  『北米時事』1934-12-1
『北米年鑑』1936
1935 同上 24 1,344 シアトルで第14回
西北部教師懇談会開催
『北米時事』1935-10-17
『北米年鑑』1936
1938 同上 1,200 130 卒業式優等生氏名掲載 『北米時事』1938-3-26,12-22
1939 同上 144 10ヶ年皆勤生氏名掲載 『北米時事』1939-3-25
1940 同上 127 優等生、皆勤生氏名掲載 『北米時事』1940-3-30

次回は二世の二重国籍問題と結婚問題についての記事をお伝えしたい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①東京市教育会編『小学校校長団の観たる米国の教育』1920年。②『北米年鑑』北米時事社、1928、1936年。③在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年。④奥泉栄三郎監修『シアトル版日本語読本1920-30』文生書院、2012年。

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。