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二世の進学した大学〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史 第11回

『北米時事』1939年3月14日 「華大の教壇に第二世の名誉」

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第11回 二世の進学した大学

前回は二世の二重国籍問題と結婚問題についてお伝えしたが、今回は二世の進学した大学に関する記事を紹介したい。多くの二世達はアメリカの高等教育機関である大学に進学し、最先端の知識や技術を学び、日系人社会への貢献を目指した。

ワシントン大学への入学

 ワシントン大学の歴史についてワシントン大学在学の岡丸正二の1939年1月1日号へ寄稿した「華大(ワシントン大学)と日本人学生」にて次のように掲載されている。

 「華大は1861年、東京帝大設置に先立つこと四分の一世紀の創設に係り、以来拡充に拡充を重ね、現在(1939年)の学生数1万2千人、その敷地面積550英加(約223万㎡)、ゴシック式学館建築費だけでも1500万㌦以上を費した宏莊美麗(こうそうびれい)なもので全米に著名である。華大はハスキーの異名を以て呼ばれベルリンオリンピック(1936年)に於けるボート競技で優勝した事は周知の通りである」

第7回「日本人ホテルの歴史」でお伝えした、1909年に開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会の会場がワシントン大学だった。

1919年頃のワシントン大学へ入学、卒業した日本人の様子を記載した記事があった。

「華大新学期開始」1919年4月2 日号

「華大は今日より新学期開始。昨日までに登録を終えたる学生は1200名以上。今学期より入学した日本人学生2名」

「本年度同胞卒業生」1919年6月4日号

「華州大学の本年度の日本人卒業生は3名、ハイスクール卒業生7名の内、2名は既に工科に入学。3名が本年10月入学の予定」

前掲の岡丸正二の投稿した1939年1月1 日号「華大と日本人学生」でワシントン大学に進学した日本人学生ついても詳しく紹介されている。

『北米時事』1939年1月1日 「華大と日本人学生」

「現在(1939年)、華大に在学して居る日本人学生は男子150余名、女子約100名、合計250人からの日本人学生が通学して居る。(中略)以前は所謂日本から来た溌剌な学生が多く、一般に日本式であり元気があった。最近は二世が殆ど全部で日本語なんか聞くことすら稀である。之も又時世の変化で何も異とするには足らないが、現在の学生は以前の邦人学生が持ってゐた覇気を置き忘れて来た観がある。(中略)然し二世を貶すには当らない。事実二世の知的標準は一般米人学生に比し、遥かに上位に在る。吾々の時代の学生に比ぶれば現代の日本の大学生は賢い。そして遥かに洗練されて居る。然し何処となく暗い影を潜む一世に比すれば二世は一般に明朗で而も健康的である。二世の学業成績は之を大学当局発表の団体成績統計に視れば判然する。日本人男学生のクラブたる『日本人学生倶楽部』は57団体の第3位に存り、女子の『芙蓉会』の如きも37団体中の15位所に居る。(中略)邦人学生の最も多く在する商科は全米ベストテンの一つであり毎年の優等学生に必ず邦人学生を含むを常とする。薬学部亦著名であるが邦人卒業生は十中八九就職不能である。法、政、経、新聞の各学部亦充実して居り各々特徴を有して居る。(中略)社会学部では宮本君が講義して居り、初歩の社会学を担当し邦人学生も最多受講して居る有様である。特異なものに全米唯一の水産学部がある。又東洋学部は恐らく全米一の充実したもの。理科方面は機械、土木、電気等幾多の卒業生を出して居り、殆ど全部が本邦に帰朝就職して居る。大戦当時卒業の人々の中には有名な人が多い。此華大校庭から道一つ隔てた所に建てられた邦人の財団を以って造られた『日本人学生倶楽部』があり、最近は頓に父兄有志の方々同窓会等の尽力で色々設備が改善され面目を新にしたので華大見学の方々は立ち寄って頂き邦人学生の現況を知って頂き度い。(中略)幸にして二世は質において優良である。欠くのは覇気と鍛練である。彼等がスポーツに於て、発揮する丈けの社会的鍛錬と闘士と忍耐を養成しさへすれば、此ソフトなアメリカで一仕事する位の事は何でもない筈である」

文献によると、日本人学生倶楽部は1921年に古屋政次郎、有馬純清、奥田平次等シアトル在住の有力者により三万数千ドルを投じて建設された。この倶楽部は一世達が毎月定額の寄付をし維持、運営され、学生の社交、宿泊に使われた。

芙蓉会は1925年にワシントン大学に通学する女学生のための社交倶楽部として発足した。

「日本協会で卒業祝賀」1938年6月2日号

「来る6日、今年度華大卒業の日本人学生29名の祝賀会を催す。日本協会会員及び婦人部会員多数が出席す筈」

「華大の日本人優秀学生」1939年1月18日号

「華大秋の学期で優秀な成績を挙げた学生の氏名がシーグ総長より発表されたが日本人学生は35名の多数に上ってゐる。(氏名掲載)」

「華大卒業日系学士」1939年1月23日号

「華大秋の学期終了と共に175名の学生に学位、教師免状、看護婦免状が授与された。(中略)日本人学生で学位を授与されたものは5名。(氏名掲載)」

「今春華大卒業の第二世は5名」1939年4月10日号

「華大ウインター・コーター卒業生208名の氏名が発表されたが日本人卒業生は5名(氏名掲載)また優秀生は32名(氏名掲載)」

「華大卒業日系学生」1939年6月7日号

「今年度華大卒業の日系学生は左の諸氏40名(氏名掲載)」

『北米時事』1939年6月7日 「華大卒業の日系学生」

卒業後の進路問題

北米時事社社長の有馬純義が「北米春秋」で卒業生の進路について述べている。

「北米春秋、第二世華大卒業生諸君に寄す」1939年7月19日号

「今年の華大日本人卒業生は40名、中(うち)女学生9名 。目出度く規定の学業を終へ今後もそれぞれの研究を継続するとしても、兎に角(とにかく)これより実社会の生活に入らんとするのである。我等は諸君のこの意義ある出発を衷心より祝し併せてその前途の多幸を祈るものである。諸君は卒業と云ふ関門を無事は否優秀の成績をもって通過したのである。その間の研磨努力は決して小なるものでなかった。然し乍らそれと同時にその学業の継続を可能ならしめ又絶えず鞭撻奨励せる父母の恩を忘れてはならない。又社会の恩も忘れることは出来ない。現に諸君が利用せる学生クラブ・ハウスの如きも同胞社会の献金によって出来たものである。父母の恩、社会の恩、これを忘れず今後益々努力して貰ひたい。(中略)米国に於ては何と云っても未だ人種的偏見が根強く働いて居る。優秀卒業生も日本人なるが故に社会的には不遇と云ふ実例が幾らもある。又それかと云って日本に赴いても言語の不充分、習慣の相違その他で思ふやうな職業や地位も簡単には得られない。勿論、諸君の前途は洋々たるものである。各方面にその才能を伸ばして行くべきであるが、同時に少からざる困難のあることも予め覚悟を要する。殊に学校で修めた学科によってはその方面への就職も困難を感ずるものもあらうと思ふ。が、将来を目指して即ち日本民族の発展を一人一人が胸に刻んで飽くまで努力せんことを求めて止まない」

卒業生の偉業

   ワシントン大学を卒業して大学講師等になる偉業を達成した卒業生の記事が多くあった。

「華大の教壇に第二世の名誉」1939年3月14日

『北米時事』1939年3月14日 「華大の教壇に第二世の名誉」

「ワシントン大学では此の4月から現東洋史学科主任教授バード・ボラード博士の後任に目下我が外務省の招致学生として来朝中のジョン・マックギルバリー氏(33歳)を迎へる事に決定。氏は来る16日横浜出帆の郵船平安丸で帰国する事になった。此のマックギルバリー氏こそは日本名を眞木宏雄と云ふ生来の日本人であり、日本人がアメリカの大学の主任教授になったのは初めてで日米親善の為に誠に喜ばしい事と関係者一同大喜びである。眞木氏は1908年当時タコマ市で働いて居た杉山順一夫妻の長男として生まれたが苦境にあった杉山氏は親切なスコットランド人、ノイ・エム・マックギルバリー氏に僅か二歳だった宏雄君を引き取ってもらって日本に帰った。宏雄君はだんだん成長してワシントン大学を優等で卒業すると共に、助教授に任命されて、1936年11月在シアトル岡本領事の斡旋で外務省招致学生として来朝、東大国文科聴講生となって居たもので、今年10月帰国の予定であったが突然の帰国命令に急遽帰国して教鞭に立つ事になった」

「華大の教壇へ、新進の神部信治君」1939年7月7日号

「二世の神部信治君は昨年、ワシントン大学卒業後、更に解剖学を専攻、助手を務めてき今度解剖学のアソシエイト・プロフェッサーに任命された」

「平林祐一君が京都帝大の助手」1939年11月13日号

「ワシントン大学商科卒業の優等生、平林祐一君が京都帝大の助手になった」

ワシントン大学と日本人社会との繋がり

「華大の女学生が日本人街を見学」1938年8月17日号

「華大夏季講座の女学生35名が華大YMCAの主催で日本人街を見学した。一行は女学生と言っても夏季講義を受けるハイスクールや小学校の先生達も来り、白髪の老嬢さへ見受けられた。一行は先ず国語学校を覗き、窪田氏の日本庭園でワンダフルを連発、日蓮教会で奇異の瞳を輝かせ、日本人聖公会に立ち寄ってから、本社を来訪、工場を一巡して奇問を連発、更に回転中の輪転機を見学、北米時事一部買って引揚、メーン街のさがみやに立ち寄り日本菓子を試食、お隣の三輪堂で日本雑誌をひやかし、東洋魚店を覗き込んだりしてからマネキ亭で日本食に舌鼓を打って満足気に引揚げた」

「華大博物館に平安朝時代の衣装」1938年11月12日号

「宮武氏は今上陛下即位式に参列した大会典儀官が着用した衣装を秘蔵して居るが、多数の日本人学生を教育しつゝある華大に感謝の意味で寄贈する事になった。(中略)華大では宮武氏の好意に感激し大博物館に国際文化振興会から寄贈し床の間に陳列する事になった」

「華大演劇科に歌舞伎の『隅取(くまどり)』」1940年3月20日号

「日本の歌舞伎劇が伝統を誇る独特の化粧術『隅取』」に関す参考書類が『日本演劇研究』の資料として華大へ寄贈される事になった」

日本とアメリカの大学生との比較

 北米時事社社長の有馬純義は日本とアメリカの大学生について次のように語っている。

「米国の大学生と日本の大学生」1938年12月13日、14日号 北米春秋

 「日本の大学生はぶらぶら遊んで居る連中が真に多いのである。それは平素は別に勉強せぬでもどうにかやっていけるやうになって居るからである。と云ふのは試験といふものが学年末に一度ある丈けだから、それをネジ鉢巻の試験勉強でどうにかカバー出来たなら及第と云ふことになるのである。(中略)学校には学生の休憩室とか社交室或は学生クラブの設備はないのだから、学校附近の麻雀ホールや喫茶店が朝から満員の盛況を呈すると云ふ訳である。(中略)米国の大学生だが彼等も随分遊んで居るやうだが、それでも勉強だけは止むを得ずしてやって居るやうである。殊に州立大学の学制は学生にテストの追撃をやって居るから学生もなかなか楽でない。近年の華大などはそれがひど過ぎると思はれる程である。学生の遊びも非常に違ふが、それは男女共学と然らざる組織の下に根本的に相違するのは自然であらうと思ふ。その何れがよいかは一口に断言できぬであらうが、日本の大学生が正しき男女交際の自由と機会を持たぬのは今後もっと真面目に考へられていゝ問題ではないかと思ふ」

日米学生会議

日米学生会議は1934年東京で初めて開催された。翌年はアメリカでと、以後毎年開催地を交替しながら、1940年まで行われた。

第1回「日本と米国の親善は学生から」1934年8月1日号 

   「7月14日から4日間、日比谷公会堂で日米学生会議がアメリカ側77名、日本側60名が出席して開催された。(中略)この式場の模様は無線で中継放送された。数日間の会議は『日米の親善は学生から』を標語として、経済34名、国際問題50名、政治16名、宗教30名の円卓会議が行われた」 

第2回「米国で開く日米学生会議」1934年11月8日号

    「来夏米国にて開催し日本より100名内外学生出席予定」

第6回「日米学生会議の代表正式に決定」1939年7月10日号

   「カリフォルニアの南カリフォルニア大学で8月11日から開催され日本からの男子学生34人,女子学生14人(大学名、氏名記載)」

「日米学生会議に米国側の友情」1939年7月15日号 

『北米時事』1939年7月15日「日米学生会議に米国側の友情」

   「8月11日から一週間ロサンゼルスの南加大学で開催される第6回日米学生会議に派遣の日本代表48名の初顔合わせが国際学友会館で行われた。(中略)目下微妙な国際関係、為替管理の強化などで一時開催不能とさへ伝へられたのを無事開催の運びに漕ぎつけた際には宿泊料はもとより渡米中の費用一切を出すし、事情の許さぬ代表には小遣ひをだすから『是非、われ等の心の友をよこせ』といふアメリカ側の純真な申し出。この麗しいアメリカの友情に動かされた外務省の斡旋があって結実したといふ親善裏話が織り込まれて居る。(中略)アメリカ側からの提示の議題も国際的に不利な立場にある日本の偽らざる言い分を聞き、日本の真の姿を認識しようとの心使いから、従来の同会議の議題の中心であった文学、美術、芸術などは見られず、『今日の世界問題、太平洋に於ける経済問題、同軍備並びに国家安定問題、日米両国に於ける政治情勢並に傾向、同労働状態,同学生問題、同習慣、宗教等』総て実生活に即した問題が取りあげられてゐる」

「学生会議の代表けふ羅府を出発」1939年8月23日号

「学生会議の代表、南加大学学生会議18日終了し23日羅府出発。27日羅府万博見学後、30日桑港出発してポートランド経由で来沙、9月17日平安丸で帰国予定」

「昨晩の学生講演」1939年9月13 日号

9月12日に一行がシアトルを訪れた時の講演会の様子が掲載。

「日米学生会議出席日本代表学生の講演会は昨夕日本館にて開催されたが聴衆400名内外であった。先ず藤平教育部長が司会し学生弁士が交々壇上の人となり日米学生会議の経過や印象、世界と日本米国の印象、時局と女性、我が国の大陸における経済的発展,我が国の戦時経済又は家庭生活の印象などで種々の題下に青年学徒らしい熱のある雄弁を振ひ大喝采を博した」

第7回「今夏東京で第7回学生会議」1940年1月31 日号

「華大から6名を派遣。一週間の会議後、米国代表は日本側学生の招待で日本内地及び満洲国を約三週間旅行する。米国代表は7月1日桑港出帆予定」

日米大戦中のワシントン大学

“The North American Times” (Feb.27, 1942) “U.W. Campus Nisei Still on Job”

1942年日系人収容が始まる直前、ワシントン大学内での二世に関する英文があった。日本文に訳すと次の通り。

「ワシントン大学キャンパス二世はまだ仕事中」

「大学当局は今日、次のように述べた。市民はシアトル市内公立学校で二世の解雇を求めている。しかしワシントン大学に雇用されている22人の二世に対する抗議は今の所ない。二世は、事務職や現場労働者等からなる1700の施設の中の正規職員である。22人のうち6人が教授で1人だけが施設のメンバー。ヘンリー・エフ・タツミ、第一次世界大戦のアメリカの退役軍人で、今は大学の東洋学科の助教授。他の5人は大学院講師。残りは事務員で大学のいろいろな部署でフルタイムまたはパートタイムのいずれかで雇用されている」

「華大在学の二世424名」1942年3月6日号

大戦下のワシントン大学在学生に関する記事があった。

『北米時事』1942年3月6日号 「華大在学の二世424名」

「華大当局の発表によれば今年初頭入学願書を出した日本人学生は435人で内日本国民は僅かに11名。他は皆日系市民である云はれる。(中略)今の所之れ等学生の立退き計画はないと云はれる」

まとめ

1919年頃のワシントン大学の日本人在籍者は少なかったが、以後増加していき、1926年に102名、1939年には250名になり、1942年には435名に達し、その多くがアメリカ生まれの二世だった。また女子学生の在籍率は1908年では0%だったが、1926年には25%、1939年には40%となり、二世女子の進学率が高まっていたことが伺える(2頁添付参考)。アメリカの大学で実力を蓄えた二世達はさまざまな苦難を乗り越え、多方面の分野で卓越した功績を残した。

次回は二世の政治団体として発足した日系市民協会についての記事を採り上げたい。

ワシントン大学日本人学生(『北米時事』、『北米年鑑』1928年、他文献より筆者作成。卒業者は春、秋の合計)

在籍者 留学生 二世 卒業者 優秀学生
1908 11 11 0 11 100 0 0
1919 3
1923 66 57 86 9 14
1925 102 83 81 19 19
1926 102 77 75 25 25
1938 34 35
1939 250 殆ど 150 60 100 40 45 32
1942 435 11 424

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
②北米年鑑』北米時事社、1928年
③竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。