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第18回コミュニティチェストとポトラッチ祭〜『北米時事』から見るシアトル日系 移民の歴史

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

筆者: 新舛 育雄

第18回コミュニティチェストとポトラッチ祭


前回は日系人社会を支えた日本人会についてお伝えしたが、今回はコミュニティチェストとポトラッチ祭についてお伝えしたい。

コミュニティチェストとは

前回お伝えしたように、北米日本人会は1918年に領事館から証明保障料の分配廃止後の新たな財源確保として、コミュニティチェストというシアトル市内居住者の募金活動に参加した。このコミュニティチェストにより一定額が還元されるものであった。この還元額の多くは小児園、託児所、少女保護、失業者の救済のために使用された。同時にこのコミュニティチェストに参加することで、アメリカ社会に貢献を果たそうとした。

文献によるとコミュニティチェストによる資金募集を始めたのは1921年で、シアトル市の資金本部は同胞社会に対し毎年一定額の資金募集の依頼をし、北米日本人会がその任に当たって募集し、1939年まで18年間、年々多くの米人区域に先んじて予定額を突破し、募集報告会に集まる500名余りの米人募集者の賞讃を博し、かつ報告会の状況はラジオや新聞を通じて全市民に知らされた。

コミュニティチェストについて1934年、1935年、1938年、1939年の記事から紹介したい。尚1934、35年では現存する記事のみ、1938、39年ではすべての記事が存在。

1934年

「チェスト季節来るにシアトルの秋せまる」1934年8月27 日号
「9月に入ると、コミュニティチェスト季節がシアトルに秋気分をそゝる。今年のチェスト募集は9月下旬となって居るが、予定は既に発表された如く、59万7000ドル見当、その内で日本人間で引き受けるのが多分、4000ドル位になるものと予想されて居るが、その割当ては来る30日のミーティングの結果でなければ判然しない。したがって日本人方に来る分け前も決定しないのであるが、今年の一般景況から考へると4000ドルの募集にも相当困難があるから、当事者に於ても余程の覚悟を以ってかゝらねばならないと云って居る。これを昨年度(1933年)の邦人応募者1607名による寄付4146ドル31仙を土台として考へると多少の心細さを覚へるが、この事業は昨年来日本人の社会状態に対して非常なる了解を見て、従来邦人社会が白人社会に対して援助する形であったのが、逆に本部は実際に於て邦人の社会事業に対して援助を目的として募集高以上の配当をなすことゝなり、昨年其の配当は4577ドル。大体に邦人間で集めたものより約500ドルばかりのおつりがついて来ると云ふ訳で、明年度も同様方針で行かれることは勿論である」

1935年

1935年、シアトル市全体の目標総額は41万ドル、日本に割与えられた目標額は4000ドルだった。日本人会が先頭にたち募集委員を作り、懸命に資金募集を行った。

「邦人間で集めたコミュニティ資金昨日で4000ドルを突破す」1935年10月9日号
「昨日コミュニティ基金募集の報告会でレポートされた総額は41万ドル809仙で今年の募集総額の約9割迄達して居る。これに対する邦人間の報告総額は昨日の44ドル75仙を加えて総応募人員で1647名にて金額、4007ドル80仙。立派に割当て額に達し、昨日正午の報告会では例年の如くに満場拍手を以って此の報告を迎へた。(中略)予定の額に達したのは邦人区域だけであったことも同胞コミュニティの一致を意味するものとして白人間にも好評で迎へられて居る。右に対して中曾根委員長は之れ各委員及び一般同胞の協調の結果なりとし、今年の責を全うしたことを欣快として居る由である」

「コミュニティ資金募集段落して猶ほ余慶に潤ふ吾等」1935年10月14 日号
「今年、シアトル邦人のコミュニティ基金募集は先週来の総額4019ドル80仙、その応募人員は1658名で打切りとなった。(中略)長い間の邦人の毎年の努力は最近になって反響を見ていろいろの方面で日本人の心構えの了解が出来、そのために以前の偏狭な対日態度の白人も昨今では余程変わって来て居る。之はコミュニティ資金募集の目的以外の収穫で在留邦人の共に同慶とするところと云はねばならぬ」

1938年

1938年に目標額が4200ドルとなり、10月4日より募集が開始された。

「共催資金を通して日米親善を促進」1938年9月29日号
「日商コミュニティ資金部委員会で三原会長が次のように述べた。『我々は共催資金募集によって日米親善を促進し相互の理解を計って居る。(中略)過去16年間共催資金募集に在留同胞が協力して一般米人に我々の協調の精神を諒解せしめた』」

「共催資金募集、3200ドル突破」1938年10月8日号
「共催資金募集は来週火曜日のキック・オフ・デイナーを皮切りに水曜日早朝から全市一斉に開始されるが市公会堂に於ける、キック・オフ・デイナーには三重苦の聖女ヘレン・ケラ―女史が出場し奇蹟の声をハリあげ気勢を煽る事になってゐる。一方日本人間は既にドライブインを開始し、昨日の募集額527ドル20仙で累計3278ドル45仙となって居る」

「共催資金募集」1938年10月13日号
「 昨朝から全市一斉に開始された共催資金募集の第1回報告会が本日正午からシアトル商議で開始され、スペンサー氏が本日正午に報告があった募集成績を発表した。それによると9万1435ドル94仙で日本人側総委員長早野氏は今日までの募集高2055ドル70仙と報告し大喝采を博した」

「共催資金募集」1938年10月18日号
「共催資金募集、日本人断然トップ、第4次報告会で日本人側は3818ドル15仙でゴールに9割1分弱」

「先陣抜かれたが日本人もゴール突破」1938年 10月21日号
「共催資金募集は昨日までに32万9490ドルに達した。(中略)日本人側は昨日正午の報告で二番目にゴールを突破し、4209ドル80仙となり大喝采を博した。日本人側からは佐藤領事、三原日会長他諸氏が出席したが、米人側300余名の委員はバンザイを三唱して日本人側に感謝と敬意を表した」

1939年

1939年、当初は日本人割当相当額は5000ドルだったが、強硬談判の上4200ドルで決定した。

「今年度の共済資金」1939年8月28 日号
「今年度のコミュニティ資金募集は59万9006ドルをゴールに10月26日から開始される旨行政委員長ダーウイン・マイスネスト氏から発表された。同氏曰く。社会事業を遂行するために、この額が絶対必要である。今年度の予定額が増加された理由は、孤児の保護、出張看護婦のサービス拡張等のためである」

「共催資金募集 、2000ドルへ一息」1939年10月21日号
「共催資金は委員連日の努力で好成績を挙げ昨晩の第2回報告会では550ドル75仙の報告があり、累計1909ドル20仙となった」

「共催資金3000ドルへ一息」1939年10月26日号
「今晩、市公会堂、華大バンドの演奏、劇上演、明朝募集式、ラングリー市長の宣言文にて全市一斉に共催資金募集に着手、昨日まで、日本人側は累計2768ドル50仙」

「コミュニティ資金募集予定額を突破」1939年11月4日号
「昨日、市公会堂、に於けるコミュニティ資金募集報告会に日商三原会長他関係者が出席し、累計4222ドルに達した事を報告し、予定額4200ドルを突破したので、委員諸氏が舞台に整列の後、日本人ボーイスカウトのバンドに続いて場内を一周し、800余名の出席者から大拍手を博し。日米人協力の此事業に責任を果たして大なる好感を与えたと」

このようにいつも日本は目標額を達成した。これに対しシアトル市はこの日本人の達成を高く評価し、シアトル市の多くの未達成団体に日本を模範にせよと、日本のコミュニティチェスト活動を賞讃した。1937年の日中戦争以降日本に対して反日感情がアメリカ国内に出てくる中、シアトル在住日本人は自分達が生き抜くためにアメリカと共存共栄を図ることを第一義に考えた。このコミュニティチェスト活動は、シアトル市においては日本人に対する反日感情を和らげる大きな効果があった。

 

まとめ

『北米時事』に掲載されたシアトル市コミュニティチェストをまとめると以下のような表の通りとなる。

ポトラッチ祭への参加活動

シアトルで毎年7月に7日間行われていたポトラッチ祭は、毎回多くの米国人客で賑わった。日本人コミュニティに住む人々は日本の歴史と日米親善をアピールするため、工夫を凝らした山車を作って祭りに参加し、市内をパレードするなどして米国人に大好評となった。

1934年

「今年再興するシアトルの市祭」1934年7月6日号
「シアトルが最初のポトラッチ祭を催したのは1911年、それから4年間引きつづいて毎年非常に盛大さで催されたことは、之迄古いシアトル在留者でなくともまだ記憶にあることだ。欧州大戦が始まって丁度20年、シアトルがポトラッチ祭を取りやめにしてからそれだけの年月が経て居る。当年 シアトルでは之をゴールデン・ポトラッチ祭と称して居た。ポトラッチとはインディアンの言葉で来訪客に対してエンタテーンする意味でシアトル市は種々の催しをなして近郊の各町をシアトルに招じたのであった。今年再興せんとして居るのはインターナショナル・ポトラッチ祭と呼ぶ筈で、8月23日から26日迄4日間の予定で目下準備中である」

「ポトラッチ祭へ邦人から大鳥居寄付」1934年 7月11日号
「昨夜8時北日商議定期役員会が開かれ、8月下旬催さるるポトラッチ祭に大鳥居を寄付 を決定。この大鳥居は当局でメトロ・ポリタンセンターに約30尺(約9m)位 のものを建てセワード公園に寄付する計画」

「ポトラッチに日本踊り出演」1934年7月14日号
「フォークダンスの催しに少女25名を参加せしめて日本手踊り10分間を上演せしめる」

「明日朝10時の行列からポトラッチの開幕」1934年8月22日号
「日本人の参加する分は左の二種、23日午後2時、9歳から12歳の日本少女25名が日本衣を華かに着飾って盆踊り。同日午後8時に於て男女80名の盆踊り」

「復興気分のポトラッチ祭」1934年8月23日号
「シアトルは今日から3日間のポトラッチ祭。朝の10時からのグランド・パレードに下町は昔ながらのポトラッチ気分。今日の催しは各国少女踊りに、午後8時10分からオープニングイベント」

1938年

「ポトラッチ祭4日間の重な行事」1938年7月25日号
「来る28日から31日までの4日間に行はれるポトラッチ祭の女王は紅毛のフイリス・サベヂ嬢と決定した。(中略)ポトラッチとはインディアンの方言で、インディアンの酋長に贈物し、喜び壽ぐ祭りの事であるからポトラッチ祭は『喜び』を基本精神としてゐる。シアトルでポトラッチ祭が行はれたのは1911年で其後数年間中止の状態にあったが、今回大々的に復活することになったもので、今年は10万人の人出を予想してゐる。29日には花車の大行列、日商から日米親善の花車を出す」

「街頭のお化粧でお祭り気分横溢」1938年7月27日号
「日商から参加せしめる日米親善の花車も明日中には出来上る筈で, 反日空気を除き、親善の空気をあふらせやうとしてゐる。(中略)自由女神像と富士山を背景に日米の服装をした少女が立ち並ぶもので日米の平和関係を象徴ものだと言ふ。装飾に使用する桜花を作るため婦人会やガールズ倶楽部の会員が手伝う事になってゐるが、太陽ガールズ倶楽部のお嬢さん方は連日色々の手伝ひに汗を流してゐる」

「ポトラッチ祭に参加の山車」1938年7月29日号


「日商から参加せしめた山車には、藤中和子、吉田テル子、副島シゲ子の諸嬢が和装、木原幸子、向井満理子、糸井和子の諸嬢が洋装で参加。富士山と赤い鳥居と自由女神像の珍しいコントラストに沿道至る処で大喝采を博し『只今日本人が参加せしめた山車が通過します。美しい着物を着た娘さん達が花火を揚げながら……』とラジオで放送され関係者を喜ばせてゐる。(写真はジャクソン写真館撮影)」

「女神像と富士山、二等に入賞」1938年7月30日号
「ポトラッチ祭の行列は昨朝行はれシアトル市内を歓喜と興奮の渦中に投げ込み、地方から数万の出市者を見た。日商の花車は既報の如く沿道至る処で喝采を博したが、午後8時30分からシビック・スタジアムに於て開かれたレビュー・パレードに参加、ナン・コマーシャルの部で二等に入賞、25ドルの賞金を授与され黒山の如き見物人から拍手を送られ、日米親善に多少の貢献をなす処があった」

1939年

「ポトラッチ祭」1939年5月8日号
「今年は華州50年祭に相当するので、ポトラッチ祭は例年よりも盛大に挙行されるが、7月25日より6日間開催予定」

「ポトラッチ祭参加準備」1939年7月1日号
「昨夜8時日商のポトラッチ祭参加準備委員会が開かれ、出席者31名、三原会長が挨拶して開会。山口氏を委員長他担当委員が決定した」

「ポトラッチ祭多彩なプログラム」 1939年7月17日号
「シアトルのポトラッチ祭は来る25日から30日までの6日間挙行され、米国艦隊及び付近市町の参加があり、行列やら色々のスポーツやら大層な賑はひになる予定。(中略)市内大行進は28日午前10時から始まり、沢山の山車が出るが、日商の城とアンクルサムの山車を出して参加する。25日グリン・レーキで終日水泳会、同夜徒歩競争、29日夜、大花火がある」

「ポトラッチと軍艦週間」1939年7月24日号
「華州50年祭祝賀を兼ねたポトラッチ祭と軍艦週間が今朝幕を切って落とした。今年は目抜きのアベニューは旗を吊し黄色燦然と輝き、行人の表僧も明るくお祭り気分横溢してゐる。エリオット湾には、米国艦隊の主力艦8隻が投錨し水兵さんの上陸で市内は活気を帯びてゐる。(24日、月曜日から30日、日曜日までの詳細プログラム掲載)」

「街頭大行列に日商のフロート」1939年7月25日号
「猛暑と共にポトラッチ祭と軍艦週間の幕あけとあってシアトル市内は未曾有のお祭り気分。ダウンタウンは水兵さんの上陸で押すな押すなの人出である。(中略)午前10時より行はれるが日商からはお城とアンクルサムを向かひ合わせ、真ん中に橋を架けて日本とアメリカの親善振りを表象したフロートを参加せしめ、日本着姿の伊達美恵子、内村カオル、多田久江、山田花子、児島恵美子、日下テル子の諸嬢を乗せる事になって居り、フロートは目下吉本大工のポートハウス製作中であるが七部通り完成してゐる」

「婦人達の奉仕」1939年7月26日号
「日商では、ポトラッチ祭に参加のためフロート製作中であるが,造花の飾り付けの為、昨夜は左の婦人会員の御手伝いを希望すると。(浸礼教会、美似教会、組合教会、長老教会、仏教会、日蓮教会の各婦人会員の氏名掲載)」

「お城と石出さん」1939年7月31日号
「ポトラッチ祭市街大行列に参加した日商のフロート『お城とアンクルサム』は残念乍ら賞に漏れたが石出シアトル領事代理は『入賞しないからと言って、このお城の価値が下がる訳ではない。よくこんなに立派なお城を短時日の間に作ったものだ。記念のためにスナップして呉れ給え』と言ってお城の前に三原日会会長と並んだところ……ニコニコ笑ってゐるのが石出さん、落選して苦虫を嚙み潰した様な顔をしてゐるのが三原会長」

シアトル在住日系人はアメリカ社会で生き抜くために、アメリカと共存共栄を図り、シアトル市の主催するコミュニティチェストやポトラッチ祭に積極的に参加するなど、あらゆる努力をして日米親善に尽くしたことが伺える。

次回はシアトル日系人社会を支えた奥田平次氏と伊東忠三郎氏の功績についてお伝えしたい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。