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第14回 二世女子日本見学団 〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

筆者: 新舛 育雄

第14回 二世女子日本見学団   

前回は帰米二世の設立した帰米日系市民協会の活動についてお伝えしたが今回は二世女子日本見学団についてお伝えしたい。

アメリカで生まれた二世女子は、国語学校や両親から日本語や日本の文化、風習を習ったが、よく理解できなかった。彼女達が日本の実情を実際に体験する目的で、1939から1940年頃、いくつかの日本見学団が結成され、日本に長期間滞在し、日本各地を見学した。初めて見た日本をアメリカ生まれの二世女子達がどのように思ったか、興味深い記事をいくつか紹介したい。

母国見学団の隆盛

サンフランシスコ総領事館、ロサンゼルス、ポートランド、シアトル各領事館からなる太平洋沿岸の領事会議で、当時盛んに行われた二世団体の母国見学をどのようにして円滑に実行していくかが議題となり、その具体的指針が出された。

「領事会議の申合せ」1939年11月1日号

『北米時事』1939-11-1「領事会議の申合せ、母国見学団につき」

「母国見学のため在外二世団体が日本を訪問した場合、これまで紹介の鉢合わせや、手違ひで煩雑を来す場合が多かったので、先般サンフランシスコで行はれた沿岸領事会議ではこれ等団体が見学旅行出発前の準備に就いて次の打合せを行った。

二世母国見学団の出発前における準備に関する注意(領事会議申合せ)
一、日本人会主催又は日本人会、又日本人会関係団体の共同主催のものに限り紹介することゝす。
二、日本に於ける統一機関は外務省とす。
三、外務省は派遣地の在京関係者(新聞、雑誌等)並に関係方面と連絡すること。
四、領事館より本省(外務省)への通告は少なくとも一ケ月前に行ふ事」

この領事館の申し合せにつき北米時事社社長の有馬純清が次のように語った。

北米春秋 花園一郎 「母国見学団と外務省」1939年11月3日号

「第二世の見学団が折角日本を訪問して、紹介の鉢合わせや手違ひのため、充分その目的を達し得ぬ場合が多かったというので先般の領事会議で、これに関する打合せが行はれた。その主旨は領事会議の在留同胞に対する親切と厚意に出づるものとして感謝されねばならぬと思ふがその打合せ事項は反って事実に則せぬものであるやうに思ふ。(中略)                                                            日本人会の紹介が必要だとか、日本の統一機関は外務省であるとか、これ等はあまりに形式的で疑問に思う。目下日本へ見学中の太陽女子見学団は日会が主役ではなく実に岡田君の熱心と誠意によってあれ丈けの準備が出来たのではないか。これを若し日会主催でないから、領事館が紹介せぬと云ふことになるのであったら形式を重んじて、事実を無視する結果になるのではないか」

太陽ガールズの日本見学

太陽ガールズは1940年発刊の『在米日本人史』に次のように掲載されている。
「1925年岡田伴三案にて太陽野球倶楽部関係の子女を収容して社交修養を目的とし、度々日本に見学団を送りて、有名である。目下その第5回見学団が日本訪問中である」
1939年9月29日にシアトルを出発した太陽ガールズの第5回見学団の様子を記載した記事が掲載されていた。

シアトルでの送別会(1939年9月27日)

「太陽ガールズを石出さんが招く」(1939年9月28日号)

「太陽ガールズの一行11名は明29日出帆の氷川丸で渡日するので石出領事代理は昨日、領事官邸に一行を招き、送別茶会を開かれた。

『北米時事』1939-9-28-「太陽ガールズ.を石出さんが招く」

(写真中央が森下イシ監督、左が石出領事代理、右が北米時事社、有馬純義社長)」

横浜到着から東京見学(1939年10月13日から20日頃まで)

「太陽ガールズ、ラジオ放送」1939年10月18、19日号

「去る13日、無事に横浜に到着、横須賀、東京方面見学中の太陽ガールズは、18日、午後9時30分、日本放送協会の短波放送により日本の印象を在米の人々に伝えた。聴取状況頗る不良だったが、大体次の意味の放送だった。『私共は皆元気で見学を続けて居る。 東京市長にお目にかかり、靖国神社参拝、平林少将(団員、平林グロリヤさんの叔父)から御招きにあづかった。私共は只今、女子青年会館に止宿して居る』」

「太陽ガールズ歓迎攻めで多忙」1939年10月30 日号

『北米時事』1939-10-30-「歓迎攻めで多忙」

「太陽ガールズ一行の動静に関し東京の鶯谷うぐいすだに精一氏から左の如く伝へてきた。『東京を皮切りに10月16日には郵船会社に招かれ、17日には東宝(宝塚)で観劇。シアトル倶楽部、文部省のお茶会にも出席。19日には、日米協会主催、グルー駐日米国大使歓迎会に陪席。また東京市長、陸海軍省訪問し早慶野球戦をも見物』」
見学団の引率をした前田あきら氏から10月16日から20日頃までの東京見学の様子を詳細に伝える記事が2回に渡り掲載された。特筆すべき記事を抜粋してみた。

「東京見学(一)(二)太陽ガールズ、マネージャー、前田昭」1939年11月13、14日号

[16日]総理大臣官邸のお茶の会にお招きの時、太陽見学団歌、愛国行進曲を歌った。
[17日]高松宮両殿下に拝謁し日本訪問の感想につき御下問があった。
主婦の友社に招かれ、山田わか先生と社の方より歓迎を受けご馳走になった。
[18日]東京高等女子師範学校見学、国際文化振興会のお招きで日本の著名な先生との話ができた。
[19日]文部省訪問し文部政務次官作田隆太郎氏に面談。
グルー駐日米国大使歓迎会では尾崎行雄氏、矢田部三郎氏、福井菊三郎氏などの名士と話す。
北米時事社の有馬さん(有馬純義社長)のお父さん(有馬純清すみきよ前社長)との晩餐を戴き、ミセス有馬も御一緒してくださった。
[20日]東京見学の最後の日20日に靖国神社の臨時大祭で天皇陛下の御参拝を拝観した。(註)太陽ガールズは10月22日東京を出発。日光へ向かった」
当時東京にいた北米時事社前社長の有馬純清氏が1939年11月15日号「東京だより、桜岳生」で太陽ガールズ見学団について次のように語っている。

「太陽女子見学団もよき時機に来朝いたし、日本国民の忠誠心も理解し得、また日本文化の如何に進歩せるかを知り得る所多かる可し。シアトル倶楽部にては、去10月18日太田君の経営する丸二食堂に見学団一行、及び今回拓務参与官に任命されたる笠井重治氏、前外務政務次官清水留三郎氏を招待して晩餐会を開き、多数参加いたし盛会だった。(中略)                                                         清水氏は1903年にワシントン大学にて勉強され夫れより東部に遊学されたる人。太陽見学団は上田豊(元加州に在住し第二世教育に貢献せし人)森下イシ、前田昭氏に引率され、鶯谷精一、松本瀧蔵二氏に世話されて学校の参観、各種の見学等をなし、また各方面の歓迎会等に出席した。(中略)
丁度小生も滞京中なりし故、北米時事社を代表して一夕丸二食堂に見学団一行を招待し言はば水入らずの会合を催し、打ちとけて歓談した。団員たちは今晩は肩の凝らない実に愉快な時を持つを得たりと喜んだ」

鎌倉から日光見学(1939年10月21日から23日頃)

「日光見物、太陽見学団前田昭」1939年12月15日号

「横須賀軍港見学、鎌倉、江ノ島見学、玉川学園から日光へ向かう。ケゴンの滝、中宮祠、東照宮陽明門見学、日光から仙台へ向かう」

松島見学(1939年10月25、26日頃)

「東北見物、太陽見学団前田昭」1939年12月18日号

「松島の陸地見学、豊臣秀吉、大正天皇が訪れた『月見亭』見学、雨の中篠原へ、長野に着くと防空演習の最中で真っ暗」

長野見学(1939年10月27、28日頃)

「雪の長野へ、太陽見学団前田昭」1939年12月19日号

「善光寺でのお経、女工1000名位、男工2000名位働いている板倉製糸工場見学。昼に工場長が久し振りの洋食ご馳走してくれ皆舌鼓を打つ。洋食店主の森下さんは昔シアトルに居て、メーン街の開運堂でお菓子をよく買ったそう。その人が今同じ名前の菓子を作り、沢山な人が働き大した成功している」

大阪見学(1939年11月4、5日頃)

「太陽ガールズ、大毎社で歓迎」1939年11月29日号

「母国日本での花嫁修業とよい婿捜しに来朝したシアトルの二世、18、9歳の娘盛り、16人の来阪第一日は宝塚ホテルにおける大毎社国際課主催のお茶の会を中心に、雨の日ながら心ゆくまでなごやかに日本趣味に浸った印象深い一日だった」

神戸見学(1939年11月7日)

「神戸の一日 太陽見学団前田昭」1940年 2月5日号

『北米時事』1940-2-5-「神戸の一日」

「神戸市内名所見学、特別バスで神戸市内名所古跡見学をした。神戸は古跡の多いのに驚いた。夜は日本料理のご馳走を神戸でも一流と云われる延命亭にて戴いた。夕食後に夜11時30分の神戸発の山水丸に乗り一路徳島へ向かった。出征兵士を送る時の様に太陽見学団万歳の声に送られた」

四国見学(1939年11月8、9日頃)

「徳島と高松 太陽見学団前田昭」1940年2月8日号

「神戸からの船は二等に乗ったが、男子の方が多いのに、其の中で一緒に寝ると云ふ事を非常に心配したらしい。寝られたのは二時間位。徳島へ着いたのは翌朝5時頃。最初に徳島市役所を訪問して工藤市長に面会。又荒木知事を訪問。太陽ガールズ創始者岡田伴三の生れ故郷の牛島を訪問した。汽車に乗り高松へ向かった。高松駅では個人の出迎えとしては記録破りだった。翌日観音寺、屋島へ向かった」

太陽ガールズ一行はこの後、四国から本州に渡り、最後に岡山を見学後解散し、皆両親の故郷へ向かった模様。

日本見学団員の岡田瑠璃子嬢から日本見学の感想が掲載された。

「見学を終えて」、岡田瑠璃子1939年12月29日号

『北米時事』1939-12-29「日本見学を終えて」

「北米時事とシアトルの皆様へ
第5回見学団長の上田豊先生はアメリカで二世に日本語を教へていた御方なので、私たちには非常によい団長さんだった。上田団長さんをお願いできた見学団は本当に運がよかった。そしてあんなよい団長さんを御世話してくれた北米時事の有馬さん(有馬純義社長)にお礼申し上げたい。見学して感じたことを二つ、三つ。先ず第一に日本は私たちの思ったより立派な所だ。まだ見ぬ日本、親たちから聞かされていた日本、それは素晴しいものだった。船が横浜に着いて、船の上から見ると鶴見、川崎方面の工業地帯だ。日本は大したものだと思った。
戦争中の日本が落ち着き、一般に少しも戦時らしくないのに驚いた。アメリカで英字新聞や何かで『日本は困っている』と書いてあったが、本当に見てよい勉強をしたと思ふ。
何処へ行っても人が多いのには驚いた。シアトルなどでは見られない。電車などはシアトルの行列の日の折で、それが毎日だ。
帝国議事堂は想像にまさる立派なものだった。議員控室、大臣室、総理大臣室、貴族院議場などに行った。(中略)                                      東京の小学校の設備には驚いた。エブリルームにラジオがある。理科室に電気とガスの配線、医務室にエキス光線、歯科治療設備、庭にプールがあるなど、アメリカでは見られない立派なものだ。
不快に思ったこと一つ、二つ。ベッドから畳、フトンに急に変わったのは不便だった。食べ物で困ったのは刺身が多いことだった。
東京で兵隊さんの病院を見学した時は泣けた。24、5歳に思われるが、元気そうな若い男子が手足を失ったり、目が見えなくなっているのを見て気の毒でならなかった。私は朝夕にこれらの人達がこれから幸福になれるよう祈っている。(中略)                         日本の人が頭を下げて神様を熱心に拝むのは不思議に感じた。(中略)                                      見学団の黒いスーツは非常によかった。関係者みんながこの黒いスーツをほめてくれた。
私は見学団で日本を見たのは、非常にラッキーだった。そしてお世話してくれた皆様や見学を許してくれた両親に心から感謝している。そして私たちのような二世は必ず一回は日本を訪問することをお勧めする。
私は女学校聴講の許可を受けるので、一月から現在父母の生まれた田舎から徳島市まで、毎日5里(約20km)を汽車で通学する。註、岡田瑠璃子さんは目下徳島に滞在中」
この記事を読むと、岡田瑠璃子嬢は、日本語は充分会得していると感じるが、日本の実情、文化、風習はこの日本見学により認識を新にしたようだ。
また太陽見学団が成功したのは、受け入れ側の日本で有馬純清氏始め、かつてアメリカにいた人達の絶大なる協力、支援によるものだということがよくわかる。

「新春を迎えて 岡崎美代子 太陽ガールズ倶楽部を代表して」1940年1月1日号

「太陽ガールズクラブの私達は 昨年秋のお姉様方を太陽見学団として日本に送ったので、ジュニアだった私達はシニアになった。
思へば昨年9月に皆様方から色々な御心配を頂き、当地を出発した太陽見学団のお姉様達はお蔭様で日本の立派な方々から色々親切にして頂き、有益な見学を続けつつ、どんな思ひを以って新年を迎へられただろう。
私達も1942年には憧れの日本を訪れる事になって居る。何よりも楽しみなその目的の為に私共のクラブ員は両親から頂く少しの小遣いも無駄にしないやうにすべてに倹約、貯金し、又学校の余暇には少しでも働いて日本へ行く時の助けに致さうと心掛けて居る。(中略)              倶楽部員は毎月一回順々にクラブの人の家でミーティングをする。今私達はやっと15、6歳になったばかりの少女だが、これから社会のためになることをしたい」

主婦之友社主催の日本見学

太陽ガールズ日本見学が大成功を収めたので、日本の大手出版業者の主婦之友社が、アメリカ二世女子、大学卒の二世嬢の日本見学を企画した。

「主婦之友社では二世ガールを招く」1940年1月15 日号

「大学卒の5、6人の二世ガールを日本に招き、日本見学させて将来日米両国のために活動できる人物を作りたいと今回山田わか女史から太陽倶楽部、岡田伴三氏に人選を依頼して来た。出発は2月15日平安丸。シアトルから3人、ポートランド、ヤキマ他から2、3人」

「日本に招かれる二世ガールズ」 1940年1月19、26 日号

「4人決まる。主婦之友社、ワシントン大学卒4名、オレゴン大学卒2名、2月23日出帆予定 」

「見学団の名称」 1940年2月6日号

「主婦の友社二世嬢見学団名称,が『主婦の友大学卒業生祖国見学団』と決まった」

「日本見学の第二世嬢」1940年2月23日号

『北米時事』1940-2-23「主婦の友社、日本見学の第二世嬢」

「主婦の友社に招かれて大学卒の第二世嬢5名は本日午後2時出帆の平安丸に乗船したが、見送り多数にて盛大な船出であった。一行中の清水、堀内両嬢は今朝本社来訪。出発の挨拶をされた。(写真は領事館庭園にて記念撮影)」

浸礼ガールズの日本見学

1899年に創立されたシアトル日本人浸礼教会でも1940年頃二世女子の見学団を結成し、日本見学を行った。

「浸礼の女子見学団、氷川に乗船出発」1940年1月12日、2月24日号

「浸礼教会女子青年部の日本見学団13名、明日2月25日送別晩餐会、3月4日氷川丸で出発、5月下旬シアトルへ帰る。日本陸軍病院、海軍病院訪問予定」

「浸礼ガールズ氷川丸で日本へ」1940年3月2日号

「浸礼女子見学団12名は3月1日日本人会教育部主催で送別茶話会を開催した。役員部員も出席。藤平部長が司会し、三原日本人会会長の挨拶の後に、団員代表の謝辞あり。散会後、団員は橋本牧師に引率されて本社来訪して挨拶された」

『北米時事』1940-3-2「浸礼ガールズ氷川丸で日本へ」

まとめ

1934年のシアトル在住二世の年齢別人口実績から1939年のシアトル市の二世女子の年齢別人口予想をみると、15歳から24歳までの二世女子が約1000人いた。今回の記事の日本見学団はこの中の約30名の二世女子達だった。(団員の氏名は以下表参照)

▼シアトル在住二世女子日本見学団

 

第10回でお伝えしたように結婚適齢期の二世女子は、シアトルでは適齢期の二世男子が少なかった。このため二世女子の日本見学は、見学終了後に両親の出身地にしばらく滞在し、よい結婚相手はいないか捜す目的も同時にあったのではないかと推察される。

筆者がこの二世女子の日本見学の様子を見て感じたことは、彼女達がこの長期間のハードスケジュールの中で、一人の病人もなく元気で、又高い好奇心を持ち見学したことだ。二世女子達は健康で知的好奇心に溢れていると感じた。

日本見学は、二世女子達がアメリカだけでなく、日本のこともよくわかる日系アメリカ人になって活躍してほしいという、一世達の強い願望があったように思える。

次回は二世男子の間で隆盛を極めた柔道についての記事を紹介したい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年

②『北米年鑑』北米時事社、1936年

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。