Home コラム 一石 100年前の新聞

100年前の新聞

姉妹紙ソイソースで第二次世界大戦前の邦字新聞『北米時事』について少し書いてみた。同紙は1902年から1942年まで発行され、当時のシアトル邦字新聞の代表格となる。第二次世界大戦後に創刊された本紙の「前身」としての位置付けになる。

インターネットもなく、今とメディア環境や常識の異なる時代。海を離れた日本からの情報もほとんど手に入らないなか、紙媒体は情報共有の主役だった。20世紀初頭の当地コミュニティーの日系人口は3千を超えるくらいだったというが、その中でも邦字新聞、雑誌の隆盛ぶりは目を見張る。
100年前の当地邦字新聞業界については、本紙ボランティアとして活躍した故ジョン・リッツ氏が詳しい資料を残している。シアトル初の邦字紙は『シアトル週報』で、手書きによる紙媒体を1897年に創刊した。その後、1910年の『大北日報』までの15年弱で、報道、ゴシップ関係をふくめ、15紙が創刊されている。

短期間で廃刊する媒体もあったが、北米時事は「志の高い新聞」、「ゴシップ本位でない硬派の新聞」として存在感を放ち、ライバル日刊紙として『大北日報』も息の長いビジネスを続けた。

1895年、日系移民によるビジネスがより賑わいを見せていたタコマに初めて日本領事館が置かれた。その後、アラスカ、ユーコンのゴールドラッシュの中継点としての活況、日本郵船のシアトル航路開設などがシアトル日系社会の成長を後押しした。領事館は1901年にシアトルに移っている。

太平洋から北米大陸を横断する「新シルクロード」として日本の外貨獲得に貢献した「シルクトレイン」の存在も大きい。中継拠点の1つとしてシアトルの港にも大量の生糸が荷揚げされ、大北(グレートノーザン)鉄道の特別列車が急ピッチで輸送した。日系移民の多くが大北鉄道の整備工夫として活躍、東ワシントン、アイダホ、モンタナと続く路線の各中継所にも大小の日系社会が作られた。

北米時事はシアトルの日系人口を超える購読数を抱えていたというが、こうした地方の日系コミュニティーにも欠かせないメディアだったことがわかる。

オレゴン大学でジャーナリズムを学んだ後、2005年に北米報知入社。2010年から2017年にかけて北米報知編集長を務める。現在も北米報知へ「一石」執筆を続ける。