シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業
発展の歴史
By 新舛 育雄
初めに
1900年の初め頃、多くの日本人が一稼ぎするために海を渡りシアトルへ向った。シアトルという地で日本人が挑戦し、大成功を収めたビジネスの中に理髪業とホテル業があった。
日本人によるこの二つのビジネスの水準はいずれも白人社会を驚嘆させる、非常に優れたものだった。 日本人経営の理髪店は夫婦共稼ぎの仕組みが多く、中流階級の白人たちに大変な好評を収めることができた。また日本人が経営したホテル業はシアトルの大型ホテルを次々と手中にし、白人経営のホテルを圧倒した。
本連載は、日本人が大成功を収めた理髪業とホテル業の歴史についての概要を題材とする。また、この二つのビジネスに挑戦した一人である筆者の祖父の新舛與右衛門についても取り上げる。 本連載を通して当時日本人がアメリカという異国の地で、どのようにして理髪業やホテル業を成功させたのかをさまざまな角度からお伝えしたい。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を基に、北米報知での連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」と「『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史」を参考に作成を試みたものである。
第一回 シアトル移民日本人理髪業の規制と盛衰
理髪業法による管理
シアトル移民日本人による理髪業はワシントン州の「理髪業法」の規制の基に運営されていた。この詳細は次の通りである。(『北米年鑑』1928年版より)
(一)ワシントン州内の一、二、三等級に位する都市では規定の試験を経て鑑札の下附を受けた者でなければ理髪業に従事することは出来ない。
(二)年齢十八歳以上で、二ヵ年以上理髪業経験のある者は試験を経て公認の理髪業者になれる。試験料は5ドルである。
(三)見習徒弟は誰でもなれるが、公認理髪業者一人に徒弟一人といふ規定になっている。
(四)左の項に該当したる者は鑑札を没収される。
—刑罰に処せられたことのある者。
—大飲酒家
—伝染病に罹りたる者。
—場所、用器、衣類、其他の不潔なること。
スペイン風邪の流行
1918年頃シアトルではスペイン風邪が大流行し、理髪業の運営に対していろいろな規制が出された。このことについて当時の『北米時事』の記事があった。(下画像参照)

「理髪業者はマスクが必要」1918年10月24日号
「市当局の命令によりシアトル市の理髪業者は流行感冒の伝染を防ぐため、今日から病毒除けのマスクを使用しなければならぬこととなった。シアトル市の昨日の新患者は302名で死者12名に達した。昨夜入港した鹿島丸によると、感冒は日本にも侵入、同船出発当時に数名の患者が発生していた。(中略)
又パリ来電によれば同市にも激烈なる流行感冒症発生し、過去の一週間に886名の病死者を出した」
当時のシアトルでの流行の様子が、1918年11月12日号に掲載されていた。
「ワシントン州衛生局は昨日特別調令を発して洲民一般に覆面令撤廃の快報を伝へられた。(中略)
10月2日から昨日までの死者合計は485名。患者数は10月9日迄に一万余名となっていた。(中略)
この間、演劇、活動写真、寺院、学校等はすべて閉鎖されていた。(中略)
各商店の営業時間も午前10時から午後3時までで、食料に関する以外の業種は、土曜日は閉店となっていた」
100年前でも感染防止対策として、現代のような厳しい規制が敷かれていた。理髪店はこの期間、営業時間制限とマスクの使用が義務付けられた。
同年11月16日号には、制限令解除後も再発防止のため、理髪業者にはマスクの使用が強く求められているという内容の記事が掲載されていた。
シアトルでの日本人理髪店の盛衰
各種文献のシアトルの日本人理髪店軒数の推移をみると、1903年には18軒の理髪店があり、以後1908年23軒、1913年51軒、1916年76軒、1918年81軒、1923年118軒、1926年81軒となっている。(下グラフ参照)

この日本人理髪店の飛躍的な発展は、夫婦経営の理髪店によるところが多い。
しかし1926年以降、理髪店は減少傾向にある。1935年36軒、また『北米年鑑』1936年版によるとその年のシアトル市の理髪業者の住所録には39名の理髪業経営者の人名、住所が記載されている。
『在米日本人史』によると1940年のシアトル理髪業は男22人、女14人、理髪店で雇われていた理髪職人は男8人、女2人とあり、この数字を見る限り大幅に減少している。
『北米百年桜』に、理髪業を始めたころの様子を佐藤律氏が次のように述べている。
「1887年4月宮城県の石巻に生まれた私は、1907年、シアトルに上陸した。間もなく病気になり、思うように仕事ができなかった。そこで私は、見せ金の残りで理髪学校に入り、半年ののち卒業試験に合格した。その頃、日本人会会長で、山口県出身の伊東忠三郎さんが床屋、風呂屋、洗濯業を兼業していた。シアトル市内には、75軒の理髪店があり、男女の理髪師が150人位もいた。(1915年頃と推測)伊東さんを会長にシアトル理髪業組合を結成していたので、私も伊東さんにおねがいして参加させてもらった。私の店は佐藤バーバー・ショップである。
その頃は、排日運動のさかんな当時で、私など理容師になる前、悪童連から投石され白人のおばあさんに助けられたりしたことがあった。シアトル理髪業組合自体が、排日にあって四苦八苦したものだった」
また『北米百年桜』にて「昔は理髪師200人」として次の記述がある。
「日本人の職業のなかで、理髪師の数は相当数にのぼった。『第三集・排日』の中で佐藤律氏がくわしく述べている通りだが、同業の宇治豊次郎氏は、さらにこう配している。
『1915年に14歳で、両親の呼び寄せにより岡山からはるばる渡米した私は、以来、他の一世同様にシアトルのセントラル小学校7年まで通ってからソーミル、鉄道、キャナリーと、23歳まで働いた。結婚後、定職につこうとしてジャクソン街623に宇治床を開いた。そのころは83軒の日本人床屋があり理髪師は200人余りもいた。(1925年頃と推測)1942年の戦時立退きで42軒に減り、現在では(1960年頃と推測)13軒で(左グラフ参照)、理髪師もわずかに16、7人しかいなくなってしまった』」
理髪業の減少傾向の大きな要因は、1924年に排日移民法が成立し、シアトルへの移民ができなくなったため、日本人人口が減り始めたことであった。
当時、日米戦争を心配して日本へ帰国するものが増加、また日本政府もアメリカ移民から満洲移民、ブラジル移民への切り替えを推奨していた。
さらに、理髪業での儲けを基にほかの業種へ転職するケースも多々あった。筆者の祖父、與右衛門もその一人で、理髪業からさらに大きな投資を要するホテル業へ転職した。
後を継ぐ二世たち
1930年以降、不況や日米関係悪化から日本へ帰国する日本人が増えるなか、理髪業者の減少が見られた。
一方で、残った家族の中には二世が理髪業を引き継ぐという流れもあったようだ。そんな当時の記事を紹介したい。
「何と愉快ではないか第二世嬢の床屋さん」『北米時事』1939年1月13日号(下画像参照)

「(その一)べインブリッジ島で理髪店を経営する中田実蔵氏の次男、百一君は昨年ベインブリッジ・ハイを卒業した青年であるが父業を承け継いで、実社会に乗り出したいと決意し、今春早々、第一街104のモラー・バーバー・カレッジ(MBC)に入学。バリカンを握って卒業の日を楽しみに待っている。
(そのニ)メーン街で理髪業を営む椿原九助氏の令息澄夫君も『父はバリカンで我々を育て上げたのだ。我々もバリカンで実社会に立とう』と初々しくも決意し、目下MBCに通学している。
(その三)ワシントン街ユニオン・ホテル経営者下紺正留氏令嬢ミチエさん(19歳)は娘さんながら中々しっかりしたもので、日本人社会に居るかぎり第二世であっても職業教育を受けておく方が将来の為になると考え、MBCで学び、この度、めでたく卒業。近き将来どこかの床屋さんで働くか、自分で開業するかしたいと云っている。第二世嬢の床屋さん、何と愉快ではないか。
(その四)ケントの農業家谷川業吉氏の令息、フランク君も第二世の床屋志願者で、率先してMBCに入学。既に卒業証書を獲得。床屋開業の準備中である」
戦後の『北米報知』1948年7月16日号にフランク谷川君はエスラー街1918に理髪床を開業したという記事が掲載された。この理髪店は「日中仕事のある日本人のために午後9時まで開店して便宜をはかった」とある。このように戦後も理髪業を継続していった事例も存在した。
「北米春秋、第二世の床屋さん」『北米時事』1939年3月9日号
上記の二世の床屋の記事について、北米時事社社長の有馬純義(ペンネーム花園一郎)が自身のコラム「北米春秋」で次のように語った。(下画像参照)

「理髪業は我が社会の発達途上に大きな役割を果たしてきた。しかも近年は新しい徒弟もなく、開業者もなく、従来の惰性でわずかにその存在を残してきたというも過言ならざる状態になっている。然らば理髪店は今後有望でないかというと、決して左様でない。新しい設備と新しい腕を持ってやるなら発展の余地は十分あることと思う。そして日本人には適した仕事なのである。いつまでもトラック・ドライバーが第二世の仕事ではない。僕は第二世の床屋さんの出現の記事を最近の北米時事で最も愉快に読んだのである」
日系一世が大変な苦労をして作り上げた理髪業を引き継ごうという、多くの二世たちがいたことに感動を覚える。
参考文献
◼️『北米年鑑』北米時事社、1928、36年版
◼️『在米日本人史』在米日本人会、1940年
◼️伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年



