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第13回帰米日系市民協会の活動〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

筆者: 新舛 育雄

第13回 帰米日系市民協会の活動

前回は二世が政治的活躍をした日系市民協会ついてお伝えしたが、今回は帰米二世が設立した帰米日系市民協会の活動の様子についてお伝えしたい。

二世の中に帰米日系市民と呼ばれた人たちがいた。帰米日系市民とは幼少の時日本に帰って日本で生育し、再び米国に帰った日系市民のことを言う。その多くが第10回で述べた米国と日本の両方に国籍を有する「二重国籍者」であった。

1930年頃、シアトルでは帰米日系市民の将来性を極めて重要視し、奥田平次氏らが後援者となり、黎明社、銀星倶楽部と合併して1932年、帰米日系市民協会がシアトルに設立された。会員は当時120から130人だった。

『北米年鑑』1936年版によると、1934年にシアトル市の米国出生の第二世は約4千人いたので、帰米日系市民協会の会員はシアトル在住二世の約3%程度となる。

帰米二世の実態

「北米春秋、帰米市民の諸君へ」1939年12月15日号

帰米日系市民について本号で某帰米二世が北米時事社社長の有馬純義宛に出した手紙の中にその実態が述べられている。その手紙には帰米二世の特徴を「支配されて居る特殊な境遇」と述べ、具体的に次のような点を挙げている。

(一) 確乎たる目的なく帰米し又は帰米させらた者が多い。

(二) 帰米以来不況に直面して居る。

(三) 両親を失ったものが多い。

(四) 責任ある保護者を持たぬ者が多い。

(五) 比較的学歴なく充分英語を解し得ざるものが多い。

(六) 指導者たるべき有志先輩を欠いて居る。

(七) 米国育ち第二世との融和が困難である。

アメリカに渡った一世達は一稼ぎしたら、日本へ帰国する人も多くいた。これ等の一世の子供達はアメリカでの生活に浸りきれないまゝ幼少時に日本へ帰国した。

帰米日系の阻止と推進

日本にいる二世の帰米を阻止しようとする記事も見られた。

「日系の帰米を阻止する法案」1935年10月21日号

「日本に居る二世市民の帰米に相当重大な影響を見るが如き法案が来る中央議会に現れるかも知れないと伝へられて居る。それは目下沿岸の議員中で『海外に留学又は居住する米国市民は必ず2ヶ年以内に帰米せざるを於てはその権利を喪失する』と定める法律を研究中であると云ふに基づくもの。(中略)

もし之が法律となる様なことがあればいわゆる帰米日系等に取っては重大な結果を見るに至るは勿論である。しかも本案は目下加州方面で盛に叫ばれて居る。帰米日系運動に対する加州の政治家の対案であるとも云はれて居る程であるから、その及ぼすところは勿論直接的なものであらう。然しながら原則として米国市民の旅券の効力は2ヶ年となって居るが、之に理由ある期限の延長が許される如く、そこには何等かの延長方法が定められるかも。手続き次第によっては2ヶ年毎に一度帰米するが如き項は省かれるかも知れないとも見られて居る」

帰米を推奨し、その促進のために活動する人物を紹介する記事があった。

「市民権を有する若い人を米国へ―呼寄せて貰ふ運動、力行会の青木氏来沙」1938年4月20日号

『北米時事』1938-4-20-市民権を有する若い人を米国へ

「米国市民権を有しながら、幼少の折、両親に伴はれて、日本に行き、日本の教育を受けて、その儘日本に留まっている二重国籍者を米国に送り帰へすために米国側の実情を調査し、斡旋機関を作る目的で、昨年渡米し、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に各方面と折衝。更に山中部からシカゴに出で東部に滞在中であった力行留学生学園長青木氏は来る22日出帆の氷川丸に乗船帰国する事となり、昨日来沙(シアトル)。左の如く語った。

『米国市民権を持つ若い人が日本に4万人位居るので、これらの人達を米国に送り戻すために努力し、先ず米国側の実情調査に来た。サンフランシスコでは真剣に引き受けて呉れる人があり、既に何人か渡航して来て居る筈だ。大体農園で働ける様な人を送る考へだが、ニューヨークあたりでは会社の支店等で働ける人が欲しいと言ふ事だった。シアトルにも若い人達を送り戻し度いので真剣に世話して呉れる人が欲しい。氷川丸の出帆までに、そう言ふ人を捜して行き度い。帰国後は日本に居る若い人達に米国の実情を語り、本格的活動を開始するが、一方日本に留学中の第二世諸君もお世話したいと思って居る。現在では14、5人お世話して居るが、力行会は経費がかゝらず、親達も非常に喜んでゐる』」

文献によると1940年国勢調査でアメリカ在住の二世の人口は約20万人で、本文中にあるように1938年頃の日本在住二世人口は約4万人だったため、二世のうち20%弱の人が日本へ帰国していたと推測される。

帰米日系への意見

帰米日系市民に対して有馬純義は「北米春秋」で次のような意見を述べた。

「帰米市民の難題」1939年 11月20日号

「僕は帰米日系市民の英語学習の必要を再三指摘したが、彼等がこの点を未だ真剣に考えへて居らぬやうに見えるのは遺憾である。彼等は今日に於ては比較的楽なその日を送り得て居るであらうが、十年乃至十五年先に至って彼等の立場はどうなるか、が彼等個人として亦その時代になっての日本人社会の問題として重大な問題であると思ふ。その時代になって英語の力を持たぬものは30年前に英語を解せざりし第一世移民の不便不自由とは比較にならぬ程度の困難を感ぜねばならぬ。それは個人として就職の不便となり、社会としては米国育ちの第二世との対立と云はずんば融和困難の問題を生ずる危険がある。(中略)

極く少数を除いては勉学心の希薄を指摘せねばならぬやうに思ふ。それには種々の理由もあらうが、その一つに英語学習の困難にぶつかり早くも腰砕かれてしまったことが大きな理由ではないかと思ふ。同時に彼等が第一世移民の苦闘の真意義を理解し得ず徒らにアメリカの皮相的ジャズ文化の雑音に圧倒されて自己忘却の日陰者的生活に甘んじて居る傾向も看過出来ぬと思ふ。その根底には彼等が渡米後の理想と現実の甚だしく喰い違ふ失望のあることを無視出来ない。これは同胞社会としても充分同情的態度をもって彼等をもっと希望的ならしむる用意がなければならぬと思ふ。しかしながら根本は彼等自身の問題である。一言にして尽くせば彼等の若さに於て向学心の希薄なるを僕は何よりも遺憾に思ふ。彼等は折角渡米し得た特権をもっと自覚認識して努力すべきだ。同時に又同胞社会も社会の仲裁者として期待せるところにも応え得る実力を涵養せねばならぬ。何時までも基金募集の演芸会のみが彼等の能事であるべき筈はない

帰米二世の意見

「北米春秋、帰米市民諸君へ」(一)(二)1939年12月14、15日号

『北米時事』1939-12-14-「-北米春秋、帰米市民諸君へ

有馬純義の「北米春秋」を読み、某帰米二世から手紙が送られた。その手紙を断片的に、次の通り紹介された。

「吾々帰米二世は貴下の記事に在る如く大に反省して克己心、堅忍持久の精神を涵養し向学心を濃厚ならしめ進出の気を以って同胞社会の仲裁者としその義務を全ふしたい。(中略)

多くの帰米二世がスクールボーイをしながら苦学せんとして居るのに、下手な我々の英語を教室で嘲笑するのは白人ではなく吾等の兄弟姉妹である米国育ちの第二世であった。更に又何か就職を同胞社会の第一世に依頼しても思ふやうにはして貰えなかった。かかる境遇に置かれ然かもよき指導者を有せざる青年の全部が聖人の如く真面目に一人育ちすべきだと見捨てて置くのは間違ひであったと思ふ。(中略)帰米日系市民協会はお互いに同じ特殊な境遇にあった吾々が慰安を求め更に相助けてよき日本人、よき米国市民としての義務を果たさんとして創立された。(中略)

教会のメンバーは一致団結して語学学習の法を研究し日会、教会、公立学校等からよき指導を仰ぎ座談会を度々催し、領事、新聞記者、日会役員、支店長、教会の牧師、二世先輩などに依頼して政治、経済、社会問題等を聴講したい」

この帰米二世の手紙に対して有馬純義は「北米春秋」で次のように述べている。
「若い帰米諸君がこの心掛けと決心をもって進まんとすることには満腔の熱意をもって激励せねばならぬ。寧ろその意気は我々が反って青年諸君に教へられるやうのものだ。(中略)

帰米前の憧れの米国と帰米後の現実の米国との距離が相当にあるであらうことは我々にもよく想像出来る。これが一種の失望を多くの帰米諸君に与えて居るのであらうと思ふ。(中略)

同胞社会も仲裁者たるべき帰米市民の問題をもっと真剣、熱心に取扱ふべきである。彼等が衷心の熱望は精神的指導と云はずんば理解と奨励であらうと思ふ。彼等こそパンよりも精神或は方向を求めて居るのである。(中略)

『一帰米市民』の言ふが如く『折角渡米し得た特権を充分認識』して大いに努力せんことを希望して置きたいと思ふ」

帰米日系市民協会の活動

「日系の料理講習」1934年8月28日号

「帰米市民協会女子部では9月から毎木曜日光楼に於て日本料理講習会を開く」

文献によると、この帰米市民協会女子部は1932年の帰米日系市民協会創立後2週間後の臨時総会により設置された。

「帰米日系の秋の大演芸会」1935年10月28日号

「帰米日系市民協会は来る11月3日日本館で大演奏会を催すこととなって居る。プログラム一、どんなこんな物語(喜劇二幕)二、踊り、英語小品 三、やくざ仁義(時代劇三幕四場)四、帰米日系チョイス、新舞踊、合唱(帰米日系女子部)尺八、三味線合奏 五、バイオリン演奏(森田門下生)バンジロー演奏、独唱、タップダンス、尺八、琴合奏 六、喜劇 私のあなた」

「帰米日系新役員」1938年10月4日号

「帰米日系市民協会では役員改選を行い新役員決定 (会長)柳田光之、(副会長)三原実、(幹事)菊池玲、井口実、狩野信義、二上タエ子、岡野多美子、書記川口美枝子、(会計)古川義一、(顧問)狩野輝光、海田厳、国本幸雄、黒川幸一郎、原田義人」

顧問となっている狩野輝光氏は2002年秋に発行された『北米報知』創刊百周年記念号によると、帰米二世のひとりで、1930年に日本の旧制中学を卒業後にシアトルに戻り、1959年まで『北米報知』の編集長を務めた人物である。

「帰米日系総会」1938年10月14日号

「帰米日系市民協会では来る11月16日午後1時よりに日本館に於開催される大演芸会に続き、臨時総会開催。全会員の出席を求むと。尚総会後バラードにて会員相互の親睦を図る意味でアイススケートのパーティーを催す故、会員は右総会開催中事務所にて無料入場券を受取られたいと」

「帰米日系の弁論大会」1939年1月17、27 日、2月4、7日号

『北米時事』1939-1-17-「-帰米日系の弁論大会」

「帰米日系市民協会では来る2月11日紀元節及び戦記第三年目の奉を祝賀すべく『弁論と映画の夕べ』を催す事に決定した。(中略)

盲目の帰米青年や留学中の女性を加えて10名の弁士が決定発表された。柳田光之、柳田春雄、菊池玲、三宅実、釜月清子、海田義夫、栓井愛、岩見冠一、太田秀男(中略)

弁論審査員は有馬純義(北米時事社社長)、伊藤謙治(学生倶楽部)、狩野輝光(北米時事社)、中村壽郎としお(日本人会青年部長)、藤平芳太郎、(日本人会教育部長)前野邦三(日本人会前会長)、村野宣志となった。又次の同胞商店より賞品の寄贈があった。三輪堂、相模屋、田妻十仙店、旭グラージ、玉壺軒、日光樓、錦華樓、メーン街サービスステーション、西本商店、ノースコースト貿易会社、ウエストコースト印刷所、柏木洋服店、ジャクソン靴店、千原時計店、木庭商店、アンビロカフェ、ジャクソンカフェ、エバーグリーンターバン」

この弁論大会は有馬純義はじめ、日本人会やシアトルの有志達が審査員となった。1月27日号によると日本人会から最優秀弁論に優勝杯が送られた。また、多くの日本人街の商店が寄附を行い、帰米日系市民協会の活動をシアトル在留日本人皆が応援していたことが伺える。

「帰米日系の野遊会」1939年6月10日号

「帰米日系市民協会では来る18日(日曜日)、ベインブリッジ島クリスタルスプリング水野氏別邸にて恒例のピクニックを挙行する事に決定。既に切符(フェリー、バス代として50仙)を売出して居るが当日は晴雨に係らず午前8時コールマンドッグ発のフェリーにてウインスローに渡り直ちに連結直行バスに便乗する予定であるが種々競技の他、庭球、卓球、水泳、ボート、夜間のダンス等もある予定で景品、リフレッシュメントは充分に用意するので会員と否とに係らず前記の切符持参の上参加され度いと」

「帰米の総会」1939年9月15日号

「17日、日商ホールにて秋季定期総会を開催、役員改選その他あり。会員の出席を希望して居る」

「帰米の演芸会」1939年9月27日、11月1、15日号

『北米時事』1939-11-15「-帰米の演芸会」

「11月19日、日本館にて基金募集演芸会を挙行、日商の年末救済基金の一部に寄付。喜劇、股旅もの、スケッチ『青春』、股旅物等。入場料、大人40仙、学生25仙、小人15仙、(中略)

スケッチ『青春』第一景=帰米のボーイズが只今エス・ワイ・ケーの埠頭に到着した。第二景=パシフィックスクールで盛んに与太る。第三景=スクールボーイを追はれて自炊生活をして居る」

この『青春』という演劇は、帰米二世は日本から船に乗りやってきてシアトル港に到着し、パシフィックスクールに通学するが、授業についていくことができず、遂にスクールボーイを辞めて自炊生活に入るという、帰米二世のアメリカでの生活の実態を劇にしていると推測される。

「帰米の座談会」1939年12月8日号

「帰米日系市民協会は来る10日午後2時より日商ホールに於て 会員相互の親睦並びに向上発展を計るため忘年座談会を開催。会員は勿論、一般帰米日系市民の参会を望むと。閉会後遊戯などもある由」

「帰米日系市民協会で弁論と映画の夕」1940年3月27日号 

『北米時事』1940-3-27「帰米市民協会で弁論と映画の夕」

「昨年の紀元節当日『弁論と映画の夕』を催して好評を博した帰米日系市民協会では、本年再び来る5月4日(土)午後8時から、日本館に於て同じ催しを行ふ事に決定し、目下弁士を募集中であるが、資格は帰米日系市民であること、其他は男女の如何を問はず論旨も7分間である。出場希望者は同胞会新事務所(メーン街1045)又は本社内狩野まで。審判者も決定次第発表されるが、映画は『東海の顔役』であると」

帰米二世だった筆者の父

筆者の父、あたえは帰米二世だった。しかし一般的な帰米二世とは多少違う経歴だった。與は1914年シアトルで生まれ、アメリカと日本の両方の国籍を有する二重国籍者だった。1921年、7歳の時日本へ帰国し、日本の小学校へ3年間行った。1924年の排日移民法適用前に再渡米し、ワラワラ市公立学校へ入学、1928年にはシアトル市公立学校へ転校した。しかし父親の與右衛門の急死で1929年に再度、日本へ帰国し、日本の中学、大学へ行った。1935年に大学を中退し帰米し、1941年2月までシアトルでアラスカ鉄道の運転手として働いた。しかし日米戦争の危機を察した日本の家族からの強い帰国要請があり、やむなく日本へ帰国した。このように與は日本とアメリカを何度も渡り歩いた経歴のため、英語も日本語も堪能で、2つの国の生活、文化も充分会得していた。しかし大戦という悲劇に遭い、戦後は日本の瀬戸内海の島の小学校教員でその力量を充分発揮できないまま、一生を終えた。(詳細は筆者の連載「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル―」を参照ください。)

まとめ

帰米日系市民協会の1932年の創立から1940年までの『北米時事』に掲載された活動の歴史を添付の年表にしてまとめてみた。

帰米日系市民協会の歴史 『北米時事』、他文献より筆者作成

内容 備考 主要メンバー
1932 シアトル帰米日系市民協会創立 会員20~30名 奥田平次、田主計の結成呼びかけ。
1934 9月 帰米日系市民協会女子部の日本料理講習会 女子部 1932年結成   9月より毎木曜日、日光楼
1935 10月 日系の帰米を阻止する法案議会に提出用意。中央議会に提出の可能性 海外に居住する米国市民は必ず二か年以内に帰米しなければ権利を喪失 加州の政治家の帰米日系運動への対案
10月 大演芸会 喜劇、踊り、合唱等 合唱は帰米日系女子部
1938 4月 力行会青木氏来沙 日本にいる二世をアメリカに呼び戻すため、アメリカ各地の実情調査 力行留学生学園長、青木氏
10月 新役員決定 役員改選 会長:柳田光行 顧問:狩野輝光
11月  臨時総会 臨時総会、終了後、アイススケートのパーティー
1939 2月 弁論大会「弁論と映画の夕べ」 弁士10名、審査員有馬純義他6名、日本人街商店よりの賞品寄贈 弁士:柳田光之他9名
6月 野遊会 ベンブリッジ島へピクニック 狩野輝光他9名幹事
9月 秋季定期総会 日商ホールにて
11月 基金募集演芸会 日商の年末救済基金に寄付、喜劇、股旅物等
12月 座談会 日商ホールにて
1940 5月 弁論大会「弁論と映画の夕べ 弁士募集、 事務所:メーン街1045 担当:狩野輝光

帰米二世はアメリカで生まれたにも拘わらず幼少時に日本へ帰国し、日本での生活が長く、帰米しても英語をはじめ、アメリカの文化に中々馴染めなかったと推察される。このような環境下で帰米日系市民協会は日本との橋渡しの役を果たそうと数々の行事を行い、日本の文化を紹介し、日系人社会の融和のために懸命に活動したことがよく伺える。

次回は1939年頃に日本を初めて訪れた二世女子日本見学団の記事を紹介したい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年

②在シアトル日本国総領事館『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、
2000年

③在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。