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元米商務長官・運輸長官 ノーマン・ミネタさん

ノーマン・ミネタ(Norman Mineta)■カリフォルニア大学バークレー校卒。米陸軍に入り、情報将校を務める。1971年、ハワイを除く米本土では日系人として初めて、大都市サンノゼで市長に当選。1974年には、やはり米本土では日系人として初めて米下院議員に当選する。2000~2001年に民主党ビル・クリントン政権で商務長官、2001~2006年に共和党ジョージ・W・ブッシュ政権で運輸長官を務める。

アジア系米国人として初めて閣僚ポストに就いたノーマン・ミネタさん。ビル・クリントン政権で商務長官、ジョージ・W・ブッシュ政権で運輸長官を務め、民主党・共和党の両政権での閣僚経験を持つ最初の人物としても知られています。最近では、10月22日に日本で行われた即位礼正殿の儀にも参列しました。11月10日にワシントン大学で行われるイベントを前に、ミネタさん本人から貴重なエピソードを語ってもらいました。

取材・原文:ランディー・タダ(北米報知財団) 翻訳:宮川未葉 写真:本人提供
※本記事は『北米報知』10月25日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

1942年、アメリカ市民でありながら非外国人」と呼ばれた。だから私は「市民」という言葉を大切にしています

ホワイトハウスでの会議に出席したクリントン元大統領と

シアトルとの深いつながり

カリフォルニア州サンノゼ出身のミネタさんは、シアトルに昔から親近感を持っていたと言う。「サンノゼの日本町にもシアトル同様にJackson St.という通りがあったので、子どもの頃は、どの日本町にもこの通りがあると思っていました」。ミネタさんは1971年に、祝賀行事でのスピーチのため、日系アメリカ人市民同盟(JACL)シアトル支部を訪れている。「妻と私は東京からサンノゼに戻ったばかりで、すぐに着替えてスーツケースを詰め直し、シアトルに向かったのです。大変な思いをしましたが、トミオ(宇和島屋の元CEOで、本誌発行人であるトミオ・モリグチ)から素晴らしいもてなしを受け、とても良い思い出となりました。シアトルの街を案内してもらい、当時10歳くらいだった息子のデイビッドの世話もしてくれました」

JACLは、1929年にジェームズ・サカモト氏によってシアトルで創設された団体が基盤となっている。後にカリフォルニア州サクラメントの団体と統合し、JACLが生まれた。日系人協会として唯一100以上の支部を持つ全米規模の団体に成長し、アジア系米国市民による公民権運動を先導してきた。そんなJACLの母体とも言えるシアトルの日系人コミュニティーについて、「何か独特な気風があるのではないでしょうか」と、ミネタさん。シアトルの政治家とも深い交流があり、米下院議員時代の親友には、1993~1997年にワシントン州知事を務めたマイク・ローリー氏や、スポケーン出身で1989~1995年に下院議長となったトム・フォーリー氏がいる。ローリー氏は、日系人強制収容補償法案を初めて提出した人物だ。「シアトル出身の議員が最初に提出したのが強制収容補償法案だったことに私は興味を持ち、その理由を尋ねました」。すると、「JACLシアトル支部とチェリー・キノシタが熱心なんだ」と、ローリー氏がキノシタ氏と共に、かなり前からこの法案に取り組んでいたことがわかった。「チェリーはとてもエネルギッシュで、マイクが下院議員に立候補していた時から、(日系人が戦時下に経験した)立ち退きと強制収容について訴え続けていました。法案は提出してから10年後に、ようやく可決されたのです」

真珠湾攻撃、そして強制収容へ

日本が真珠湾を爆撃した1941年12月7日、まだ幼かったミネタさんの周辺は慌ただしい雰囲気に包まれた。「あの日、いろいろなことが矢継ぎ早に起こりました」。当時、隣の家には学校で同じクラスのジョイス・ヒラノ氏が住んでいた。裏庭から「警察がパパを連れて行っちゃう!」と叫ぶ声が聞こえたのは、その日の午後1時半ごろだった。「父が急いで隣の家に行くと、ヒラノさんはもういませんでした。ジョイスの兄に聞いても、『誰だかわからないけれど、黒いスーツの男たちがパパを連れて行った』と答えるばかり。1世であるジョイスの母親も、誰だったのかわからないとのことでした」

家族と写る幼少期のミネタさん(前列左から2番目)

ミネタさんの父親は市の支配人にすぐ電話をかけたが、らちが明かず、次は警察署長とたらい回しにされて、やっと保安官から事情を聞くことができた。日本に同情的だと思われる人をFBIが連行していたのだ。「ヒラノさんは、日本人会の事務総長でした。完全に社交目的の会で、コミュニティーの新年行事を催すような集まりです。仏教会の日本人教師も連れて行かれました」

保安官からFBIに連絡が行き、同日午後4時半にFBI捜査官がミネタさんの家を訪れた。捜査官は「コミュニティーのリーダーも連行している」とも言ったが、ミネタさんの父親は連行されなかった。「父は自分のことをコミュニティーリーダーだと思っていたので、連行する価値がないと思われていることに戸惑っていました。捜査官が出て行った後、父と母は、万一に備えてスーツケースに荷物を詰めましたが、捜査官は戻って来ませんでした。侮辱されたようだ、と父が何度も言っていたのは、ちょっと滑稽に感じました」

おもちゃの車がお気に入り

翌年の1942年2月には大統領令9066号が発令され、政府は「敵性市民」を連行して立ち退きと強制収容を行うことができるようになった。日系人が多い地区では、張り紙があちこちの電柱や建物の壁に張り出された。「張り紙には、大きな文字で『日本に祖先を持つ全ての人への指示』と書いてありました。私は『外国人』と『非外国人』の両者を対象としていることにショックを受けました」

ミネタさんは9歳上の兄に尋ねた。

「これって誰のこと? 非外国人って誰? 兄さんのこと?」

「お前のことだ!」

「非外国人じゃない、アメリカ市民だよ!」

「この場合はどちらでも同じことだ。非外国人は市民だ」

「なんでこんなことをしているの?」

「わからない。俺たちに対する心理戦のようなものなのかもしれない」

大統領令9066号にある「敵性市民」がドイツ系なのか、イタリア系なのか、日系なのかは指定されていない。任務遂行は、西部防衛民間司令部のジョン・L・ドゥウィット総司令官に委ねられていた。「ドゥウィットは人種差別主義者でした。『ジャップはいつまで経ってもジャップだ』とは、彼の言葉です」。日本人が真珠湾を攻撃できるなら、アメリカ西海岸も攻撃できる能力や資源を持っているだろう。日本軍が西海岸に上陸すれば、自身の管轄であるワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ各州に住む日系人が団結して日本軍を支援するかもしれない。ドゥウィット総司令官はそう考えたのだと、ミネタさんは指摘する。ドゥウィット総司令官はまず、その地域のほぼ全ての競馬場や屋外フェア用地を接収し、そこに日系人たちを集めた。ミネタさん一家は、1942年5月、サンノゼを発ってサンタアニタにある競馬場に向かった。「私たち家族は到着が遅かったので、馬小屋の中の区画はもう満員でした。季節は夏。馬小屋で過ごす友人のところによく行きましたが、その臭いはひどいものでした。ドゥウィットはそんなことはどうでもいいと思っていたのでしょう」。その後、一家はワイオミング州ハートマウンテンの強制収容所に送られた。

「非外国人」と呼ばれる体験をしたミネタさんは、「市民」という言葉に特別な思いを持つ。「最後に胸を張り『私はアメリカ合衆国の誇り高き“非外国人”です』と言ったのはいつですか?」。ミネタさんが演説で必ず口にする言葉だ。「みんな笑いますが、私たちが経験したのはそういうことなのです。1942年、アメリカ市民でありながら『非外国人』と呼ばれた。だから私は『市民』という言葉を大切にしています」

左から妻のダニーリアさん、ブッシュ元大統領とローラ夫人、ミネタさん

「全機を今すぐ着陸させろ!」

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生時、運輸長官だったミネタさんは連邦航空局(FAA)の民間航空保安対策室(ACS)と連絡を取り、旅客機が通常の運航を再開できるようにするための新しい保安計画をまとめ始めた。しかし、その最中に国防総省本庁舎に3機目が突入。FAAと電話中だったミネタさんは、「この1時間半で民間機がミサイルに使われたのはこれが3機目だ」と言い、すぐに方針を変更して思い切った措置に出る。

「スタンドダウンだ。全機を今すぐ着陸させろ!」

軍隊にはスタンドダウン(一時停戦)という、全てを急停止させる作戦がある。1つに集中するために、それ以外の予定は取りやめる必要があったとミネタさんは説明する。その時、米国領空には6,438機が飛んでいた。「パイロットの判断で全飛行機を降ろすのか?」と聞かれたミネタさんは、「パイロットの判断なんてどうでもいい!」と叫んだ。「たとえばアルバカーキやフェニックスの上空を飛んでいるパイロットが、帰宅したいからと元の行き先のロサンゼルス上空まで飛び回るようなことがあっては困ると思いました。パイロットは、その飛行機の大きさによってどこの空港で受け入れてもらえるかわかっているので、できるだけ早く飛行機を着陸させるよう要求しました」

この判断は正しかった。2時間20分で6,438機を大きな事故もなく安全に着陸させることができた。「航空管制官、飛行機の操縦室、パイロットの相互連携は素晴らしいものでした。どこに着陸するのか全くわからない乗客を落ち着かせなければならなかった客室乗務員も見事な働きぶりでした」

問題は、私たちのことを何も知らない人によって私たちのことが決定されるということ。決定されたことが必ずしも私たちにとって最善とは限らない

バラク・オバマ元大統領と

未来を担う若い世代に伝えたいこと

ミネタさんが今、若者に呼びかけているのは、ボランティア活動への積極的な参加だ。「これから長いキャリアが待ち受けている若者にこそ、ぜひボランティア活動をして欲しい。今後の人生を左右する大きな決断を迫られたとき、その経験がきっと役に立つはずです」。また、誠実であり続けることの大切さにも言及する。「何事にも誠実でなければ尊敬されず、決定しなければならないことに関して信頼されません。長期的に良い目標を持っていながら、これが守れないために途中でつまずく若者が多いように感じています」

ミネタさんは、政治活動にもっとかかわって欲しいとも話す。それは必ずしも政治家になることとは限らない。「自由な民主社会にはさまざまな市民がいて、公職に立候補する人は全体の1~2%程度でしょう。つまり、それ以外に99%近くの市民がいるということです。誰でもキャリアや仕事の目標を追求しながら、少し時間を確保して、市や郡、州、国の政府に、『私はこの分野の専門家なので、役員または委員を務めたい』と言うことはできます」。アジア太平洋系アメリカ人の声を届けるためには、こうした市民の政治参加がカギとなる。「問題は、私たちのことを何も知らない人によって私たちのことが決定されるということ。決定されたことが必ずしも私たちにとって最善とは限らないのです。公職に立候補する必要はありません。ボランティアとして参加し、私たちの要望やニーズを認識してもらうことで、将来的により良い結果を生み出せるのです」

生涯の友、アラン・シンプソン元共和党上院議員との休暇にて
Seattle Welcomes Norman Mineta

宇和島屋とマックルシュート・インディアン・トライブの協賛で、北米報知財団、ワシントン大学アメリカン・エスニック・スタディー学部、その他日系団体が協力して開催する特別イベント。ワシントン大学のケーン・ホールで、公共放送ネットワークPBSが今年5月に放映したドキュメンタリー番組「Norman Mineta and HisLegacy: An American Story」の特別上映が行われ、ミネタさん本人も上映後に登壇する。質疑応答の時間も設けられる予定。

 

日程:11月10日(日)1:30pm~3:30pm
場所:ワシントン大学ケーン・ホール
料金:無料
問い合わせ・詳細:
www.hokubeihochi.org/mineta/

北米報知は、ワシントン州シアトルで英語及び日本語で地元シアトルの時事ニュースや日系コミュニティーの話題を発信する新聞。1902年に創刊した「北米時事 (North American Times)」を前身とし、第二次世界大戦後に強制収容から引き上げた日系アメリカ人によって「北米報知(North American Post)」として再刊された。現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。1950年以前の記事は、ワシントン大学と北米報知財団との共同プロジェクトからデジタル化され、デジタル・アーカイブとして閲覧が可能(https://content.lib.washington.edu/nikkeiweb/index.html)。