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永住権当選から18年後の現在地 中島恒久さん

米国で生きる日本人の選択 2
永住権当選から18年後の現在地
中島恒久さん

米国と日本の間で生きる日本人に、永住権取得や日本への引き揚げなど、人生の選択についてインタビュー。3回シリーズでお届けします。

筆者:福田 恵子

時給7ドルからのアメリカ生活

サンフランシスコ近郊のIT企業でCOOを務める中島さんと知り合ったのは、某日系ビジネス団体の会報向けの取材だった。取材後に彼のプロフィールをまとめるために名前で検索した。すると、てっきり日本からの駐在員だと思っていた中島さんが実は、同時多発テロ事件直後に永住権抽選プログラムでグリーンカードを手にし、自力で渡米した人だということが分かった。最近は狭き門となっている同プログラムだが、当選後にアメリカに移住した人たちのその後を知りたいと思っていたこともあり、改めて取材を申し込み、話を聞かせてもらった。

中島さんがアメリカを意識し始めたのは、高校生の頃、夢中になったジャズ音楽がきっかけだったと振り返る。「大学生になると、ますますジャズにのめり込んで、ベースを演奏していました。仲間の中にはボストンの音楽大学に留学する人もいました。でも僕は行くなら留学や、ましては旅行ではなく、地に足つけてアメリカで生活してやると思っていました。単なる妬みなんですけどね(笑)」。

当時大阪に住んでいた中島さんは、懇意にしていた会社経営者を通じて、パット・メセニーやハービー・ハンコックといった一流ミュージシャンと直接会う機会もあったという。そして、アメリカでミュージシャンとして活躍する自らの将来像を描き続けた末に、2001年、永住権抽選プログラムに応募すると、何と一発で当選。実際にアメリカに移住したのは2004年、25歳の時だった。場所は北カリフォルニアのバークレー。

「アメリカに来たら音楽活動をやっているだろうと想像していましたけど、全然思ったようにはいきませんでした。英語が喋れない、知り合いがいない、仕事がないという状態で、結局、アパートの近くのお寿司屋さんにキッチンヘルパーとして雇ってもらいました。日本では演奏活動の傍らインターネットの会社で働いていてそこそこ収入もあったんですが、いきなり時給7ドルからの再出発。しかもオーナーさんがフェアな人で、メキシカンの従業員より後から入った僕を彼らの下に置いたんです。最初の頃は疎外されているように感じましたが、しんどいなあと思いながらも、メキシカンの彼らと同じ物を食べ、同じ音楽を聴くようにするなど、自分なりに溶け込めるように努力しました」。

やがて寿司屋を辞め、色々な仕事を転々とする不安定な生活を続けていた2010年に次の転機が訪れる。「実は僕、日本で結婚していて、奥さんと一緒にアメリカに来たんです。でも、彼女にしたらいつまでこんな(安定しない)生活が続くの?と不満が募っていったようで、別れを切り出されました。一緒に住んでいた家を出ることになり、仕事も同時に失って、友人の家のガレージに転がり込む羽目に。もう日本に引き揚げたいと親に相談すると、『今のような状態で帰って来たら負け犬のままだ。胸を張って帰って来れるようになるまで帰って来るな』と言われたんです。確かに、それまでの僕はお寿司屋さんの下働きに始まり、なんとかギリギリのところでやっていました」。そこで覚悟を決め、改めて仕事探しに奔走した結果、旅行会社の営業に転職、次に食品商社の事務員になり、その後マネージャーにまで昇進した後、現在のIT系企業への転職を果たした。

日系人と日本人をつなぐ触媒

今は仕事と音楽活動の二足の草鞋だけでなく、北加日本商工会議所をはじめとしたコミュニティーの活動にも積極的に携わっている。その活動の根幹にあるものについて聞くと、中島さんは次のように答えた。「在米の日本人社会は分断しています。同じ日本人なのに、たとえばレストランなどの飲食業界と僕が今身を置いているITの業界は別の世界です。その点、僕は両方の社会に属していた結構珍しい人材なんです。これまでライブ演奏、レストラン、旅行、食品、物流そしてITの業界に属していたことがあり、8年前に市民権を取得しているのでジャパニーズ・アメリカンの一世でもあります。だから、異なる業界の間、また日系人と日本人の間をつなぐ触媒のような役割を果たしたいというミッションを自らに課しています」。

次に中島さんがなぜアメリカの市民権を取得したのかを聞いてみた。「国籍ってたまたま生まれた場所によって決まるもので、自分で選べないじゃないですか。それを変えた時に、自分の中にどのような心境の変化が起こるんだろうということに興味がありました。果たして日本人ではなくなるのか?と。しかし、国籍がアメリカに変わっても、僕が日本人であることに変わりはありませんでした。どこをどう切っても日本人です(笑)。そして、市民権を取得した大きな理由は、アメリカの中でいろんなことがあったけど、この社会の中でなんとか生き延びることができたから、アメリカという国に恩返ししたいということなんです。そのために義務も責任も果たして、この国の一員になりたいと思って市民権を取得しました」。

さらに、中島さんは、日本人の新一世の親の下に生まれた日系二世の若い世代に社会で活躍するためのキッカケを与えるために尽力していると話す。「彼らを見ていると、アメリカ社会の中ではマイノリティーであり、(ルーツの)日本でも暮らせない、一種のアイデンティークライシスが透けて見えます。20代、30代でもまだマチュアではない人もいて、いろんなことがうまくいかないことを他の人のせいにするようなところも見受けられます。それは自己を肯定できない、自信のなさから来ているように思えます。そういう二世とじっくり付き合って、『やるかやらないかは自分にかかっている。親を恨むのではなく、自分の行動を変えるべき』と伝え、機会を与えられればと思っています」。

「うまくいかないことを人のせいにしない。やるかやらないかは自分にかかっている」、それは永住権抽選から紆余曲折あった中島さん自身が、一番身に沁みている言葉に違いない。

*記事は、全米日系人博物館が運営するディスカバー・ニッケイ(discovernikkei.org)に2020年11月に掲載された記事を転載したものです。

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。