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杉本製茶USA/スギモト・ティー・カンパニー社長 杉本恭平さん

シアトルに憧れ、大学を出て間もなく単身渡米した杉本恭平さん。家業の日本茶を全米に広めるため、2005年に杉本製茶の米国法人、スギモト・ティー・カンパニーを24歳で設立。2008年から本格的に自社ブランド販売を始めました。2008年1月売上ゼロの状態から12年後の現在、抹茶ブームを経て全米に販売網を構築しています。

杉本恭平■   杉本製茶の米国法人、スギモト・ティー・カンパニー社長。静岡県出身。杉本製茶の次男として育つ。幼少の頃から水泳を始め、順天堂大学ではスポーツ健康科学を専攻し、オーシャン・スポーツに熱中する。ライフセービングの世界大会にも出場した。2003年に父親と訪れたシアトルにひと目ぼれし、2004年に単身渡米。2005年には米国法人登記を行い、2008年に自社ブランド販売をスタートさせる。趣味はカヤック、スタンドアップパドル。休日はジムで走る。2008年に結婚。9歳の息子と、5歳の娘がいる。

取材・文・写真:越宮照代
写真提供:スギモト・ティー・カンパニー

アメリカのマーケットに合わせた商品ではない。
でも自分は、親父の作った良質でおいしいお茶を売りたかった

水泳少年だった子ども時代

「2歳の頃から泳いでいたらしいです」と言う杉本恭平さん。よほど泳ぐのが好きだったのかと思いきや、中高時代は「イヤイヤやっていて、いつもどうやってサボろうかと考えていました」と笑う。それでも高校ではインターハイに出場し、大学はスポーツで知られる順天堂大に進んだ。大学時代に始めたのがライフセービング(アメリカではライフガード)。「これには大会もあって、ビーチフラッグスほか、海で泳いだり、サーフボードでスピードを競ったりします」。得意な水泳で良い成績が出せることもあって面白くなり、自ら練習に励んで世界大会に出場するまでに力をつけた。この経験が、後の杉本さんの人生哲学となる。「イヤイヤやるよりも、自分の意思で決めて行うほうが効果もあるし、それに勝るものはありません」と語る。

実家は静岡にある杉本製茶。家業は長男の兄が継ぐことになっており、次男である自分は大学を出たあとどうすべきか、具体的なプランが見えていなかった。「僕はどうしようもない若者で(笑)。やりたいことが見つけられていなかったんです」。大学の友人の多くが体育教師を目指していたことから、杉本さんも何となく教師の試験を受けたものの全滅。2000年代初め、就職氷河期の頃の話だ。資格はあるが職がないという状況の中、杉本製茶社長である父親に「出張するから一緒に来るか」と誘いを受けた。2003年、初めてのシアトル訪問。これが杉本さんの人生を変えることになる。「ちょうど秋口で、シアトルの街がすごくきれいだったんですよ。そこでお茶が売られていることにも感激したし、何よりこういうところに住めたらかっこいいなって(笑)」。すっかりシアトルにほれ込んでしまった杉本さんは、「シアトルで仕事をしたい」と父親に頼み込む。父親の本心はわからないものの、恐らくは次男が家業に関わってくれることをうれしく思ったのではないだろうか。アメリカでの販路を広げるべく、当時シアトルにあった杉本製茶の取引会社を手伝うことになった。

日本から入荷したお茶がぎっしりと並ぶ倉庫

渡米前の半年間、本社の製茶工場でお茶の勉強を兼ねて修行。それまで何も考えずに見ていた父親の仕事ぶりを改めて観察し、工場で1日中、袋詰め作業もした。「その経験があるからこそ『本社のみんなも頑張っているんだから』と、社員に言う話にも重みが出ると思うんです」

2004年、シアトルに来て最初の半年はコミュニティー・カレッジのESLで英語の習得に努めた。短期間だがビジネスのクラスを受け、ビジネス英語や国際貿易についても学ぶ。2005年には米国法人、スギモト・ティー・カンパニーの登記を済ませた。カレッジ在学中から少しずつ、小売店やレストラン、カフェなどに売り込みに行き、取引会社の営業を手伝い始めていたが、それで給料が出るわけではない。やりたいことがあっても、その決定権は自分になかった。もどかしい思いが膨らみ、独り立ちしたいと強く思うようになっていた。

2008年ついに独立し、スギモト・ティー・カンパニー社長として、ひとりで経営を開始した。シアトルで知り合った新潟出身の由美子さんと結婚したのも同じ年だ。「まだ仕事も軌道に乗っていないのに、なぜかこのタイミングで(笑)」と、自分で突っ込んでみせる。日本ではまだ学生で、仕事はアメリカに来てから、ほんの少し取引会社を手伝っただけ。「経験、知識、自信、ほぼゼロからのスタートでした」

自筆の書き初め「変化」を前にデスクに着く

5年間の赤字経営を耐え、抹茶ブーム到来

杉本さんは、わからないなりに自分が「正しい」と思うことから実践するよう心がけた。たとえば、ネクタイを締め、スーツを着る。ビジネスメールは丁寧な言葉づかいを心がけ、問い合わせには素早く対応。書類はできるだけプロフェッショナルに作成、といったことだ。「親からしつけられたことだと思うんですけどね」。最初の月は売り上げなし。オフィスにはお金がかかるし、自身も給料をもらわないとやっていけない。杉本製茶が後ろ盾にあったとはいえ、いつまでも赤字に甘んじているわけにはいかなかった。「とにかく、できることは全てやりました」。買ってもらえそうだと思えばどこへでも飛び込みで行き、慣れない英語で交渉した。紹介先があれば、ロサンゼルスやサンフランシスコにも飛んだ。平日は営業、週末は小売店やイベント会場でデモ販売をし、文字通り休みなしで働いた。夢の中でも仕事をしていたらしい。「寝言で『Would you like to try some tea?』と言っていたそうです(笑)」

起業した1月の売り上げがゼロ、2月は200ドル、3月は300ドル。ひたすら地道にやるしかなかった。そんなある日、営業に出かけた寿司店、アイ・ラブ・スシ・オン・レイク・ベルビューの当時のフロア・マネジャーから、「お茶は買ってあげられないけど宣伝を兼ねて、レストランのお客さんにお茶汲みしてはどう?」と提案された。持ち出しではあったが、毎週2回、仕事帰りに通った。「これが次に結び付くことがいくつかありました」。ある日、偶然居合わせた宇和島屋バイヤーにお茶を出したのがきっかけで、宇和島屋に商品を置いてもらえることが決まった。

その頃のシアトルは、他都市に比べると日本茶文化が浸透していたが、それでも「高い」と言われることが多かった。「最近では高い日本茶も普及してきましたが、当時はやっぱり高かったんですよ。アメリカのマーケットに合わせた商品ではない。でも自分は、親父の作った良質でおいしいお茶を売りたかった」。最初の5年は赤字が続いた。やめたいと思ったことはないかと問うと、「ビジネスを成長、成功させるためには、辛い経験をするのは当たり前。やめるという気持ちは全くなかった」とキッパリ。本社のサポートがあったことはもちろん大きい。だからこそ、前を向いて頑張るだけで良かった。「今考えると、プレッシャーはあったけれど幸せなことです」

全米各地の小売店に配送してくれる日系の食品問屋に商品を卸すようになってからは売り上げが伸び、現在は全米に販路を拡大。何と言っても大きかったのは全米を席巻する抹茶ブームだ。「急成長したのはここ5年くらいですね」。抹茶ブームのおかげで、食品会社などからパレットやコンテナ単位での大量注文が入るようになった。成長につれてオフィスも手狭になり、何度か移転して、現在のレドモンドにあるビルに落ち着いたのは2年前。社員数も10人に増えた。

2019年、サンフランシスコ・インターナショナル・ティーフェスティバル会場にて社員と。

左からノリ・アルガスさん、杉本さん、ミリアム・コルマンさん

日本の農家を救う

お茶という体に良い飲み物を扱う会社だからでもあるだろう、社員は健康や環境問題に意識の高い人が多いそうだ。そんな社員たちの後押しもあり、同社ではティーバッグから倉庫から出るゴミまでを、できる限りコンポスタブル(堆肥化可能)にしている。オフィスの電力も100%クリーンエネルギーを使用する。静岡の本社と提携する茶畑農家には、茶草場農法を行っているところがある。茶草場農法とは、良質茶の栽培を目的とし、茶畑の周りにススキなどを植えてそれを刈り取り、畑に敷草として施す伝統的農法だ。「こうするとお茶の質が良くなっておいしくなるということで、農家さんはずっと続けているんですね」。この農法によって地域の生物多様性が守られ、絶滅の危機に瀕している生物も含まれることから、2013 年には国連食糧農業機関より世界重要農業遺産システムに認定された。「ですから、うちのお茶を買ってもらうと環境保全に貢献することにもなります」

その一方で、日本のお茶業界は農家も含めて危機的状況に直面しているとも訴える。「日本の家庭ではペットボトルのお茶しか飲まないし、急須のある家はほとんどないでしょう。ティーバッグですら面倒だと言われます」。農家は良いお茶を作っても買い叩かれる。それならいっそのこと作らないほうがいい、となってしまう。アメリカでは、ペットボトルのお茶はまだ普及していないし、茶葉をポットに入れて飲む文化がある。さらに国土が広く人口が多いことから、お茶が普及する可能性は高い。同社の「日本の農家を救う」というミッションは、ここから生まれたものだ。「アメリカに進出したいと頑張っている日本のお茶屋さんは多いです。自分たちはそれを10年前からやっているので、アドバンテージはありますね」と、杉本さんはパイオニアとしてのゆとりを覗かせた。

社長として社員がこの会社で働くことにやりがいを持ち、
やる気になってくれるためにはどうすれば良いかを考える日々

レドモンドのオフィスで社員の皆さんと。左後方の壁の写真は、国連食糧農業機関(FAO)によって世界重要農業遺産システムに認定された「茶草場農法」を使用した茶畑

ブランドを広めるためのマーケティング元年

会社の規模が大きくなるにつれ、営業よりマネジメントの側面が強くなってきて、仕事への取り組み方も変わったという。「お茶のこともそうですが、社員さんのことを考えることが多くなりました」。日本では、「社会人として責任を持って行動せよ」と言われる。では、会社の社員に対する責任とは何だろう。それを考え始めたのが、自分の中での転機だと杉本さんは語る。考えて考えて究極的に行き着いたのが「社員を幸せにしてあげなければ」という思いだ。給与や福利厚生はもちろんのこと、その人の夢をサポートし、やりがいを持って仕事をしてもらいたい。「自分がやる気になってこそ、実力が発揮できる」という自身の哲学を胸に、社長として社員がこの会社で働くことにやりがいを持ち、やる気になってくれるためにはどうすれば良いかを考える日々だ。「売り上げをアップさせろとプレッシャーはかけますけどね(笑)」

スギモト・ティー・カンパニーは、2013年頃に始まった抹茶トレンドの波に乗り、急速な成長を遂げた。ところが2019年、業績が初めて伸び悩む。「大口のお客さんに頼り過ぎていたのが原因」と、杉本さんは分析する。トレンドに押されていただけで、自分がアクションを起こした結果ではなかった。「これからが本当の経営だと思います。業績が下がるのは好ましくありませんが、どこかホッとした気持ちもあるんです。それまでは、実力以上のものが出ていただけ」と打ち明ける。仕切り直しのタイミングを迎え、大きな顧客に頼るのではなく、自社ブランドを消費者に知ってもらうため、マーケティングに力を入れ始めた。SNS展開もその一環だ。「自社ブランドを売るには時間もお金もかかります。今年はマーケティング元年です」

杉本製茶USA/スギモト・ティー・カンパニー

静岡にある本社、杉本製茶の杉本博行社長の次男、杉本恭平さんが杉本製茶の子会社として2005年にシアトルで設立した米国法人。さまざまそろうお茶商品は「Sugimoto Tea」ブランドで知られる。杉本製茶は1946年創業で、1998年から北米向けに輸出を始めている。現在ではヨーロッパにも輸出しており、2018年の海外向け輸出量は100トンを超え、うち60トンが米国となっている。全米唯一のお茶展示会「ワールド・ティー・エキスポ」では数々の受賞を経験し、2017年には同社のほうじ茶が「ベスト・ホット・グリーンティー」に選ばれた。

Sugimoto Tea Company
4070 148th Ave. NE., Redmond, WA 98052
☎︎425-558-5552
www.sugimotousa.com

ライター、編集者。関西の出版社に8年勤務の後、フリーライターに。語学留学のため渡米。シアトルのESL卒業後スカジット郡に居住し、エッセイ寄稿や書籍翻訳などを手がける。2006年より『ソイソース』の編集に携わり、2012年から2016年まで編集長を務める。動物好きが高じてアニマル・マッサージ・セラピストの資格を取得。猫2匹と暮す。