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『北米報知』の歩み

『北米報知』の前身となる『北米時事』の創刊は1902年で、現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。日系1世の隈元 清が発行人、また他数名の1世らが出資者となり、日刊紙として同年9月1日に初刊が発行された。日系の移民コミュニティーが大きく成長した当時、英語を読めない多くの1世たちにとって重要な情報源となった。日露戦争後から高まり始めた激しい排日運動や、日米国家間の政治的な緊張が高まる中で、1930年代には多くの日系人が帰国し、日系コミュニティーの人口は減少。1900年前後に多く創刊したシアトルの邦人紙も、第二次世界大戦開戦時までには、同紙と『大北日報』の2紙のみとなっていた。真珠湾攻撃と同時に、1910年代から経営を担い社長となっていた有馬純雄が、FBIにより自宅から連行されて逮捕。それでも、残されたスタッフで、強制収容所へ送られる直前の1942年3月14日まで発行を続けた。

終戦後、発行の中核を担っていた生駒貞彦、狩野輝光、日比谷隆美らが、『北米報知』として1946年6月に再創刊。1世の高齢化で購読者数を減らし、1度は経営難から休業した。しかし、1988年に当時の宇和島屋社長、森口富雄が買い取り、再開。2005年に無料化し、2006年には週刊へ。2012年には、それまでジャパン・パシフィック・パブリケーションズにより出版されていた本誌『ソイソース』も、北米報知社の元で森口富雄が発行人となり、新たなスタートを切った。2017年、『北米報知』は英語面を大幅に拡充し、日系3世以降の日系・アジア系アメリカ人をメイン・ターゲットとして明確化。現在、月2回、1万5,000部を発行し、シアトルの日系コミュニティー唯一の日英バイリンガル紙として親しまれている。

(谷川晴菜)

 

歴史が動く瞬間!
創刊と開戦当時を振り返る

※伊藤一男著『続北米百年桜』(1972年)から抜粋

北米時事社は、一階に事務室と編集室、地下に活版印刷所があった。当時の発行部数は五百部位。午後四時になると、スクール・ボーイが学校から帰ってきて、刷り上がった新聞を手で折って配達した。

日露戦争を契機として、私などと同じように徴兵忌避と勉学の一石二鳥を狙う書生達を主とする渡米者が日本郵船に一船四百人、月に二船ずつ入港した。このうち半数が加州を主として各地に散っていくので、シアトルの日本人は月に四百人ずつ増加する勘定であった。(中略)購読料を払ってくれる読者が市内で二百、広告主の数が百人、広告主には新聞料無料の慣例であった。(中略)社長の隈元清(鹿児島県)がメーン街と第五街の角、平出商店の二階に公認歯科医を経営していて、相当に繁盛していたので、赤字がでてもやっていけたのである。(1903年から1927年までシアトルに住み、『大北日報』記者を務めていた大塚俊一氏の手記より)


真珠湾攻撃と同時に、有馬氏は川尻慶太郎氏とともにFBIに自宅から連行されてしまった。編集の責任者として残された私は、開戦を自宅のラジオで知った。丁度、日曜日だったので、翌十二月八日の新聞を出すべきかどうか、バド更居、狩野輝光の両君と協議して、とにかく発行した。全米の邦字紙でこの日、新聞を発行したのは、確か北米時事一紙であった筈だ。しかし、以後の発行をどうすべきか。(中略)ワシントン州検事総長に伺ってみた。その返事は「反米的な新聞でなければ宜しい」というので発行を続けた。困ったのは、資金が凍結されてしまったことと、ビジネス活動を禁止されたことだ。仕方ないので、読者や広告主から、購読料、広告代を寄付名義で受け取り、営業を続けた。

総立ちのきの始まる一カ月前、臨時に資金凍結がとかれた。私たちは新聞社の整理にかかった。社の大金庫は八十ドル、輸転機やライノタイプなど機械類は二千五百ドルで売った。日本の活字を残しておこうという話も出たが、新聞社の土地建物はグレート・ノーザン鉄道会社から借りており、活字の置き場がない。われわれは行く先どうなるか全くわからず、結局、活字は一ポンド六、七セントでスクラップとして売った。涙の出る思いだった。(中略)私は新聞社の整理を全部終え、北米時事有馬社長の凍結口座にふりこむと、シアトルの街を去り、ミネドカ収容所へむかった。(日比谷隆美の回想から)