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『北米報知』から読む 天皇皇后両陛下のシアトルご訪問

平成最後の日となる4月30日、ご退位を迎えられる天皇陛下。皇后陛下と共に国内外の各地をご訪問され、皇太子時代の1960年には、日米修好百年記念の米国訪問でシアトルを訪れました。姉妹紙『北米報知』掲載記事より、当時のご様子を振り返ります(記事原文を抜粋。一部の旧字体漢字を常用漢字へ変更しています)

取材:竹中春奈、吉田有紗 文:室橋美佐

おふたりで初となる外国訪問  戦後の日米友好のために

1960年10月4日の天皇皇后両陛下(当時は皇太子、同妃殿下)のシアトル・タコマ国際空港ご到着を報じた10月5日号には、「この日、雨模様という天気予報だったが、日出ずる国の皇太子ご来訪を寿いでか、秋のシアトルとしては珍しく一点の雲もない日本晴れ、 まさに皇太子ご夫婦をお迎えするにふさわしい好天気であった」とある。ご訪問の公式機は、日本航空DC70特別機シティ・オブ・ロサンゼルス便。空港には日米両国旗を手にした人々が大勢集まった。

「皇太子はタラップ上で片手をあげて出迎え人に挨拶されたが、これに答え群衆からは割れるような拍手が沸き起こり、美智子妃も手をあげられニッコリほほえまれた。(中略)軍楽隊が『君が代』を吹奏あって、フーラー、ブローデル両委員長にご挨拶、続いてローゼリ二知事夫人、ウェバー港湾局長夫人、三原日会長に付き添われた『二世クイーン』澤ナンシーさんからそれぞれ花束をお受けになった。(中略)続いて皇太子はちょっと後方に下がられ、前面のバルコニーを埋めた一般歓迎陣に再び手を上げられると、期せずして割れるような拍手が起こり、日系人中からは『万歳』の声が高らかにあ がった。まさに感激的な一瞬であったといえる」と、記事は続く。

天皇皇后両陛下がそろって初めて米国訪問されたのは、日本中を祝賀ムードに包んだご成婚の翌年。皇太子、皇太子妃殿下として、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントンDC、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドをめぐられた。9 月22日号では「『皇室外交』という重責を帯びる皇太子ご夫婦は二十二日午後三時半日航の専用機で羽田を出発。一六日間にわたる訪米親善の途につかれた。空港には池田首相、岸前首相らをはじめ数千の市民がご夫婦のつつがなきご旅行を祈ってお見送り申し上げた。(中略)ご出発直前、池田首相は一場の送別の辞を述べ、皇太子ご夫婦が微妙な外交的使命を帯びて訪米されるのに感謝の意を表明。『ご夫婦の旅行中におけるご健康と成功を祈りあげる』と述べたが、さらに皇太子ご夫婦の今回の訪米で未曽有の友好親善段階にある日米関係が今後さらに増進されることを信ずると強調した」と、羽田ご出発を伝えている。

シアトル・タコマ国際空港ご到着を報じた北米報知(1960年10月5日号)

1960年の日本は、新日米安全保障条約の調印で大きく揺れていた。同年1月にアイゼンハウアー大統領と岸首相(共に当時)が新日米安全保障条約に調印。野党が強く反対するも、岸首相は強行採決を進めて6月の条約発効を待って辞任。学生によるデモ運動の激化でアイゼンハウアー大統領の訪日が中止される中、決行されたおふたりの米国訪問だった。

シアトル日系人の熱い歓迎

日系人による歓迎行事を取り仕切っていったのが、藤崎萬里シアトル総領事(当時)を中心とする総領事館と、シアトル日系人会。皇太子ご夫婦歓迎準備委員会を立ち上げて、シアトル日本庭園での歓迎式典などの準備を進めた。当時の日系人会会長は、1907年に17歳で島根県出雲からシアトルへ移住し ていた日系1世の三原源治氏。日米親善に尽くした功で1953年に勲五等瑞宝章を受けている。同年に天皇陛下が初の外遊でカナダのビクトリアを訪れていた際には、シアトルから奉迎してクリントン市長(当時)からの招待状を渡していた。1954年に昭和天皇に当時の御所内私邸であった「お文庫」で拝謁し、1958年新年の歌会始めでは入選した短歌を宮中で詠むなど、日本の皇室と交流していた三原氏。シアトルがご訪問都市に選ばれた背景には三原氏の存在もあったかもしれない。

当時のシアトル日系コミュニティーは、戦時中の強制収容から十数年が経ち、外国人土地法撤廃運動などアメリカ社会での地位向上に立ち上がっていた頃。日米関係の行方を見守る在米日系人、特に戦前戦中の苦難の道をたどってきた日系1世は、母国のプリンスとプリンセスの訪問に歓喜したに違いない。

「皇太子ご夫婦のご来訪が一日一日と近づいて来るにつれて、日系人間の話題は殆どこの問題に限られているかのような印象を覚えるほど老いも若きも両殿下のご到着を心待ちにしている。それと共に晩餐会、日本庭園歓迎式、ビクトリー広場歓迎式に出かける場合の服装とか、両殿下に対する態度とか、そのほか何やかんやで話題はつきない」9月30日号)と、ご訪問を目前にした当時の日系コミュニティーの浮き足立った雰囲気が伝わる。約850人が参加した晩餐会への招待状は、その一部が日系人会から一般日系人へも分配されて申し込みが殺到した。より多くの人々が参加できるようにとシアトル日本庭園で開催された歓迎式典には、多くの日系人が集まり、高齢の1世のための特別席も設けられた。

シアトル日本庭園は、1937年の造園決定から戦争中の延期を経て、1960年6月に完成を迎えたばかりだった。記事では「皇太子様は若い力強い声の日本語で『風雲に堪えて今日の発展を遂げた日系人の将来の発展を祈る』との意味のご挨拶をなされた。お声に接し老いた1世は再び感涙にむせんだ。三原日会長から華大(編集部注:ワシントン大学)教授蔦川ジョージ氏作の彫刻『オーボス』七號とシアトル短歌会の歓迎歌集の二つの目録を贈られた。続いて三原日会長の主唱で『万歳』三唱の声は池をぐるりととりまいた歓迎陣のうちふる旗と共に秋晴れの天にとどろいた」(10 月 5 日号)と伝えている。

若いおふたりの旅の様子がさわやかに伝わる記事も多く残っている。「皇太子さまは午前九時ごろ買い物に出かけるとおっしゃられ、山田、福田両氏と共にホテルを出られたが、お買い上げになりたいというのが、野生の花の種というので、(中略)アーネスト・ハードウェアへご案内した。途中で福田顧問に『ここの気候は大変いいネ。だが自動車は随分すくないネ』などと質問されながら、あちらこちらをご覧になった」(10月7日号)。シアトル滞在2日目早朝に、公式スケジュールの合間を縫ってお忍びで街の様子を見に行かれたお若い頃の天皇陛下のご様子が伝わる。皇后陛下へ贈るためか、女性ものの万年筆を探されたという記述も残っている。

皇后陛下についても、同じくシアトル滞在2日目に、ご友人と予期せぬ対面をしたエピソードが。「皇太子とお別れになった美智子さまは、日本庭園からシアトル美術館へおいでになったが、そこに思いがけない古友がお待ちして、久方ぶりのご対面という劇的シーンを現出した。美智子妃の古友はいま日航同地事務所に勤務する寺下登代子さんで、聖心女学院時代の同級生。美智子さまは寺下さんの姿に目をとめられると喜びと驚きのご表情でお手を差しのべられ、久濶を叙せられた後『今朝あなたをお訪ねしたいと女官にいったのですが、時間が許さないといわれました。本当にお会い出来て嬉しい』とおっしゃってこの奇遇を喜ばれた」(10月6日号)。

皇太子徳仁親王(浩宮さま)を出産して間もなかった皇后陛下が、子育てと両立しながらご公務をされていたことが伝わるこんな記事も。「浩宮さまは、生まれてまだ八カ月目、九月上旬にやっと母乳を離れたばかりである。両殿下、とりわけ母君の美智子妃殿下のお子さまに対する愛情ははた目にも思わず微笑をさそうほど。なにぶん従来のあらゆるしきたりを破って養育されてきた浩宮さまである」(9月29日号)。当時、一般市民と同じように、乳母に頼らず親子そろって暮らす新しい皇室の家族像に多くの国民が親しみを寄せていた。

日米友好に湧いたシアトル

百年祭皇族歓迎委員会の共同委員長を務めたシアトル美術館創設者、リチャード・フーラー博士とプローデル夫人を始めとする、多くのシアトル市民がおふたりを歓迎した。10月4日号に次のような記事が残っている。「当地の英字日刊紙タイムズは、去る二日社説において『シアトルは皇太子ご夫婦を歓迎する』の題下に、ご夫婦の訪問が日米両国結びつきの力を示すものだとして『日本当局が六月の新安保条約反対デモ事件後僅か三カ月を経過したに過ぎないにも拘らず、既定方針通りに皇太子ご夫婦の訪米を実行したということは日米関係の基礎的健全性に対する日本国民及び政府の自信を裏書きするものである。最も日本に近い米国の港町シアトルは、例えばシアトル神戸姉妹都市計書などのように、日米両国の連携強化のために重要な役割を演じてきた。米国はご夫婦の来訪を喜ぶものである。然しシアトルはその中でも最も大きな喜びを感じているのである』と強調。皇太子ご夫婦のご来市に最大級の歓迎の意を表している」。シアトル市主催のビクトリアー広場前歓迎会には約2,000人のシアトル市民が集まった。

「ずいぶんお世話になりました。皆さんにくれぐれもよろしくお伝えください」と三原日系人会会長に伝え、2 日間の滞在を終えてシアトルを発たれた天皇皇后両陛下。ポートランド訪問を終えて羽田空港に戻られると、「私たちのこの度の訪米が幾分でも日米両国の理解と親善と、それによって世界平和に寄与するところがあったとすれば望外の喜びであります。ここに両国民のご支援を感謝します」とメッセージを発表された。 シアトルでは、多くの写真と記事を掲載した北米報知へ写真販売を望む声が殺到し、記念販売を行うなど、しばらくおふたりへのフィーバーが続いた。

シアトルご訪問スケジュール

10月4日 午後3時半 シアトル・タコマ国際空港ご到着
午後5時半 ビクトリー広場でシアトル市主催の歓迎式典
午後8時半 ご宿泊のオリンピック・ホテル(現フェアモント・オリンピック・ホテル)で晩餐会
10月5日 午前10時 ワシントンパーク植物園内シアトル日本庭園で日系人会主催の歓迎式典
午前11時 皇太子さま(当時)、沿岸警備隊の巡羅船でワシントン湖を渡りレントンのボーイング工場視察。皇太子妃殿下(当時)、シアトル美術館とスワード公園視察。

午後3時

シアトル・タコマ国際空港からポートラ ンドへご出発

 

『シアトル・タイムズ』女性記者によるインタビュー

9月29日にワシントンDCに14人の女性記者を招いたお茶会に参加した『シアトル・タイムズ』のアリス・ジョーン記者が報じた記事が、北米報知10月 1日号で和訳紹介されています。当時の皇后陛下の日常がご本人のお言葉で語られている、珍しい記事です。

「美智子妃初の記者会見 楽しみに待たれる当市訪問」

きょうのお茶会は記者会見というものではなかったが、美智子さまは快く、また率先質問に答えられた。美智子さまはシアトル訪問をまちかねておられるが、特にシアトルでは美術を参観し、日本で「東洋美術館のパトロン」として知られるリチャード・フーラー博士と会見することを楽しみにしておられる。美智子さまは記者の質問に、「子供になにかいいアメリカのおもちゃを買うつもりです。その他に、生家の母や親戚にスーペンのガラスを少し買います」とやさしい鈴の音を思わせる声で流暢な英語を以て答えられた。

さらに「浩宮の体重は約一八ポンド半、これは平均以上の体重です。夜八時から朝六時までぐっすり寝ます。一番好きなのは、音楽入りおもちゃですが、スプーンや箱などもお好きです。子供室は、灰緑色のペイントの壁をプラスチックでかぶしてありますが、これは、壁をすぐあらえるからです」と、お母さんぶりを発揮する。「お子さんをたくさん欲しいと思いますか?」の質問には「以前はそう思いましたが、今では男の子を持ちまして親としての重大な責任を認識しました。ですから、いま何人欲しいかお答えできません」と述べられた。

美智子さまはそのほか浩宮さま侍従の勧告で皇太子さまが愛犬を東宮御所から他へ移されたこと、さらに一日に五回浩宮さまにお乳をさしあげること、数時間にわたり和歌、お習字をなさるほか、日本憲法初めフランス語の勉強をされていること。また、皇太子さまといろいろの催しに出席されることなど、ご日常について語られた。 なおこの日、美智子さまは、薄紫のちりめんに白菊を金糸で縁とった裾模様の和服姿で人形のように美しかった。

*北米報知財団とワシントン大学による北米時事・北米報知のデジタル・アーカイブはこちら:https://content.lib.washington.edu/otherprojects/nikkei/

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北米報知社ゼネラル・マネジャー兼北米報知編集長。上智大学経済学部卒業後、ハイテク関連企業の国際マーケティング職を経て2005年からシアトル在住。2016年にワシントン大学都市計画修士を取得し、2017年から現職。シアトルの都市問題や日系・アジア系アメリカ人コミュニティーの話題を中心に執筆。