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歴史認識からひも解く日系アメリカ人の歴史

「歴史認識」の相違は、国際間の問題をたびたび引き起こす。日本では特に、第二次世界大戦前後の歴史認識という点で、今もなお問題になっている。日本人は小学生から高校生までの間、学校で歴史の授業を受ける。われわれは歴史をどう捉えるべきなのだろうか。そして、歴史を学ぶ真髄はどこにあるのだろうか。

先日、親戚が一堂に会するリユニオン・パーティーに参加するため、ハワイ州オアフ島を訪れた。というのも、私にはアメリカ人の親戚がいるからだ。祖父の伯母に当たる人物が、今からちょうど100年前の1918年にシアトルへ移住したことに端を発する。

そこから家系は広がり、現在ではカリフォルニア、オレゴン、ワシントン各州に親戚がいる。そういうわけで、日本とアメリカの中間地点に当たるハワイが開催地として選ばれ、リユニオン開催に至ったのである。ほとんどの親戚が初めて会うという状況で、家族・親戚の系譜を初めて知ると同時に、日系アメリカ人の歴史を考えるきっかけとなった。

ファミリー・リユニオンがあったハワイ

読者の皆さんは知っているだろうか。今年8月の本誌特集でも取り上げたが、日系アメリカ人にまつわる悲しく辛い歴史がある。第二次世界大戦が開戦すると、アメリカでは当時のルーズベルト大統領が「大統領令9066号」を発令。日系アメリカ人は家や土地など全財産を失い、人里から離れた内陸部にある強制収容所に移送された。私の親戚も強制収容の対象となり、戦時中はワイオミング州ハートマウンテン強制収容所で過ごした。

戦後も、日系アメリカ人に対する差別はなかなか消えなかったという。戦後20年以上が過ぎた1968年に日系2世に当たる親戚の女性は、白人男性と結婚。その結果、両家族から勘当された。それでも彼女は、社会福祉の博士号を取得後、強制収容が与えた心理的影響を研究し、教鞭を執った。1981年に開かれた政府の公聴会で、彼女の研究は有力な証言として注目を集めたそうだ。

シアトルの日系アメリカ人の歴史にも興味を持った私は、先日、ベインブリッジアイランドを訪ねた。シアトルからフェリーで30分ほどの、ピュージェット湾に浮かぶ島だ。ベインブリッジアイランドは日系アメリカ人276名が米西海岸で最初に強制退去を命じられた場所であり、その悲惨な過去を後世に伝え続けるため、2011年に記念碑ができた。そこには退去を命じられた276名全員の名前が刻印され、あちこちに散りばめられた「折り鶴」には平和への強いメッセージが込められている。

強制収容された日系アメリカ人の名前が刻まれている、ベインブリッジアイランドの記念碑。フェリー乗り場そばのプリチャード公園内にある(4192 Eagle Harbor Dr., Bainbridge Island, WA 98110)

この12月8日で、真珠湾攻撃から77年を数える。戦争を経験していない世代が大半を占める現在、後世に過去を伝え続けることは不可欠だと感じている。ただ、教科書に書かれている歴史が全てではない。テストのために歴史用語を暗記することは、歴史を学ぶ本質ではないように感じている。日本人ともアメリカ人とも認められなかった日系アメリカ人の立場。ひとつの事象に対して、複数の考え方や立場があることを理解しなければならない。さまざまな立場から歴史を俯瞰すること、そして大局観を持ち、歴史を捉えることで、歴史認識の相違によって引き起こされる問題は解決に向かうのではないだろうか。

栗原澄也■明治大学商学部を休学し、現在はシアトル・セントラル・カレッジに1年間の留学中。この夏にバックパッカーひとり旅のため中米を訪問して以来、世界を旅する旅人に憧れている。スペインのサッカーを見るためにスペイン旅行を決意するほど、サッカーをこよなく愛し、シアトルでもサッカーを通して交友関係を広げている。

北米報知は、ワシントン州シアトルで英語及び日本語で地元シアトルの時事ニュースや日系コミュニティーの話題を発信する新聞。1902年に創刊した「北米時事 (North American Times)」を前身とし、第二次世界大戦後に強制収容から引き上げた日系アメリカ人によって「北米報知(North American Post)」として再刊された。現存する邦字新聞として北米最古の歴史を誇る。1950年以前の記事は、ワシントン大学と北米報知財団との共同プロジェクトからデジタル化され、デジタル・アーカイブとして閲覧が可能(https://content.lib.washington.edu/nikkeiweb/index.html)。