北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者: 新舛 育雄
第16回 県人会による日本人の結束
前回は二世男子の柔道の隆盛についてお伝えしたが、今回はシアトル在留日本人が結束をした県人会についてお伝えしたい。
シアトル日系人社会では同県出身者が結束を計るために、1901年に広島県人会を発足したのを皮切りに、1902年徳島県人会、1903年山口県人会、1904年愛媛県人会、1905年神奈川県人会と誕生していき、以後日本全国に渡る各県で次々と県人会が出来上がっていった。今回は筆者の祖父、與右衛門の出身県である山口県に関する記事を中心にお伝えしたい。
県人会の定期総会
毎年1月の正月明けには各県の県人会総会が開催され、総会への案内の記事が多数掲載されていた。
「明日の日曜日に六つの定期総会」1939年1月21日号
「明日22日の日曜日に六つの団体の定期総会を開く事になってゐる。
第一は福岡県海外協会ワシントン州支部、玉壺軒にて午後二時より開催。会務会計報告、議案討議、役員改選等が行はれる。
第二は鹿児島県人会、玉壺軒にて午後三時より開かれ同六時より祝賀新年会が開かれる。県人多数家族同伴にて出席を希望してゐる。
第三は公認バイキプレース日本人農業組合、午後二時より錦華楼にて開かれ引き続き親睦を図ると共に新春祝賀会が開かれる。
第四は山口県人会防長海外協会支部、午後三時半より日光楼にて開かれ同六時より親睦会に移るが青年男女多数の出席を望んでゐる。
第五はワシントン州滋賀県人会、午後三時よりマネキ亭にて開かれ引き続き親睦会に移る。
第六は熊本海外協会シアトル支部、午後六時より新風軒にて開かれ県人全部の出席を望んでゐる」
県人会長の紹介
本稿第4回で取り上げた、1919年頃にシアトルで活躍した人々をユーモラスに紹介した「一日一人人いろいろ」に掲載された県人会長だった人の記事を紹介したい。
①鹿児島県人会長岡島金彌氏
「一日一人人いろいろ(29)」1919年2月15日号
「鹿児島県人会長たる彼は、移民局の通信連絡日会実行部委員、北米日会の何部長とか種々な仕事をして居る。彼の今日迄は随分波乱重雲たる世路を渡って来てゐる。従って種々な事業にも手を出したが、とんと成功はしないやうだ。原来仕事好きな男で熱心に働くのだが、政治が飯より好きだ。執着心の強い割に移り気な短所な處もある。しかし近来は余程癪の虫も治まって落ち着きが出来たやうだ」
②広島県人会長岩村次郎氏
「一日一人人いろいろ(32)」1919年2月22日号
「広島県人会長。彼はシアトルでは古老の部に属する丈け頭脳も可なり古いやうだ。軍曹上りだと云ふが、一杯機嫌で理屈を捏ね出すと鼻つまみでわかることでも、わからなくしてしまう。(中略)なかなかよく世話もし、小まめに立ち働く。広島県人仲間では重宝がられてゐるとの事だ」
両氏とも、個性豊かな性格の持ち主で、出身県の人々から熱い支援を得た、リーダーシップのある人物だと推察される。
山口県人会
「山口県人会定期総会」1920年1月24日号
「同会は来る29日午後7時よりまねきに於て定期総会を開き、防長海外協会支部設置の件を討議する筈なれば、非会員なりとも遠慮なく出席されたしと」
この「防長海外協会支部」の設置は県人会が海外の他の県人会とも結束し、県人会の更なる強化を図るため設置された。1903年に創立した「山口県人会」は「山口県人会防長海外協会支部」と名称変更された。
「山口県人会の新年親睦会」1940年1月8日号
「山口県人会とジュニア俱楽部合同の親睦会は昨夕6時より玉壺軒に於て催された。佐藤領事夫妻と石出書記生を来賓として出席され、其の他の出席者百数名に上り、頗る盛会で有った。余興として各自の隠し芸や活動写真などもあり、一同和やかなる気分に満ちて、午後10時半頃散会した。尚チェリーランド花屋より見事な鉢花を寄贈された」
山口県人会役員
山口県人会防長海協役員名が1938年2月8日号(添付)、1939年2月1日号、1940年1月26日号に掲載された。山口県人会創立時に会長を務め、リーダーとして活躍した伊東忠三郎はこの時期名誉会員となった。会長は新たに岡村正一、近村改蔵が務めた。1938年の理事の中に前回、柔道で活躍したジム・ヨシダの父親、吉田龍之輔の名前がある。また1939、40年の理事の中に宮登末吉の名前があるが、宮登末吉は上関村出身で1928年12月に筆者の祖父、與右衛門の事故の際、車で病院へ連れて行った人物(詳細は第10回「祖父が生きたシアトル−新舛與右衛門」を参照)。
山口県人会防長海外協会支部役員
山口県人会の活動
「山口県人義損金募集」1918年8月12日、14日、26日号
「山口県人会は此の程、評議員会を開き、山口県下の150万円以上の大風水害に対し、同県人の義損金を募集し、災害救援費の一部として送付する」
1918年7月に山口県が猛烈な台風による大洪水被害を被り、この復興支援のため、シアトル在住の山口県人に義損金の募集活動を行った。
「山口県人会ピクニック忘れもの」1934年7月16日号
「昨日、7月15日の山口県人会ピクニック会場に小さなバスケットの忘れものあり。心当たりはグランドユニオン・ランドリーに問合せ度いと」
グランドユニオン・ランドリーは当時山口県県人会長の岡村正一氏の経営していた会社である。
「山口県人会で慰問金募集」1937年12月24日号
「ワシントン州山口県人会防長海協支部は山口県下の出征軍務公用者の家族慰問金を募集中であるが、昨日第一回分として2500円を県知事宛に送金。引き続き募集中である。尚住友銀行では無手数料にて送金の手続きを執った由」
「山口県人会日本丸練習生歓迎会」1938年6月11日号
「山口県人会は明6月12日午前11時よりリンカーン公園にて日本丸練習生と交歓ピクニックを催し、午後6時より日光楼にて歓迎晩餐会を行ふので、同県人多数の参加を希望すると」
6月10日号によると、文部省航海練習船、日本丸が6月10日朝にシアトルへ生徒19名を乗せてやってきた。この時生徒達の出身県の山口県初め、広島県、鹿児島県、富山県の各県の県人会が、6月12日に歓迎会を開催し親睦を計った。当日、この親睦会に出席した生徒達は帰船を午後10時迄許された。
山口県ジュニア倶楽部の活動
両親が山口県出身者の二世達が山口県ジュニア倶楽部を創立し、山口県人の親睦を図るさまざまな活動を行った記事が掲載されていた。
「山口ジュニアピクニック」1939年8月10日号
「山口県ジュニア倶楽部のピクニックは天候と会場の都合で延期となったが、今度は会場をソニタビーチに決定。来る12日の日曜日に行ふ事となった。同所への道順は第12号車でマジソン街の終点まで赴き同所よりフェリーにてカークランドに渡り同所より会場までは自動車で送って貰へるから多数の来遊を希望すると。フェリーは12時、1時半、2時半に出発、船賃は以前に渡してある切符を埠頭で乗船券と引換へればよい」
「山口ジュニアバザー」1939年10月28日号
「山口県ジュニア倶楽部主催のバザーは明日午前10時より午後12時半迄、ワシントン・ホールで催されるが、おすし、おはぎ、うどん、ライスカレー、ホットドッグ等の御馳走を用意するので一般同胞の来会を希望すると。尚夜はダンスが有る由」
「山口ジュニアニュース」1939年12月6日号
「山口県ジュニア倶楽部は本年最終の例会の決議により市民協会会館建築基金へ25ドルを寄附し、山口県出身の軍務公用人遣家族慰問金として100円を県知事宛に送金した。また懸案たりし母の会は来る10日午後6時玉壺軒にて開催し母親を招いて感謝会を開き、併せて意見の交換をなすべく夫々招待状を発送したと」
前述の1940年1月8日号の「山口県人会の新年親睦会」及び1939年2月1日号の「山口県人会の新役員」の記事の中に、同年1月22日に県人会と二世の「ジュニア俱楽部」で合同親睦会が行われた事が記されている。
山口県出身者の活躍と訃報
①岡村正一(大島郡安下庄村出身)
「日商社会部長、岡村正一氏死亡」1939年6月28日号
「グランドユニオン洗濯株式会社社長、岡村正一氏は脳溢血を起してから静養につとめ励んで常勤に復し活動中であったが三月頃から再び健康を害し自宅にて療養中の處、今朝12時45分自宅にて死亡した。今回が三回目の脳溢血で、享年63歳。同氏は山口県大島郡安下庄村出身、16歳にて渡米し、数年ならずしてイーグル洗濯会社支配人となり他の一洗濯会社と合同、グランドユニオン・ランドリー会社を組織するに当り、選ばれて社長となり今日に及んで居るが、その間日商を始め、各種公共団体のために活動し、現在は日商社会部長であった。同氏は円満、福徳稀に見る人格者だった」
「会葬者堂に溢れ岡村さんの盛葬」1939年7月3日号
「グランドユニオン・洗濯会社岡村正一氏の葬儀は一昨日土曜日午後8時より仏教会にて執行された。(中略)上南菊三氏の司会、中川頼覚氏の故人略歴、友人総代、星出惣吉氏、早稲田野球倶楽部代表、佐々木アーサー氏、日本人洗濯業組合代表、岩名常次郎氏、ダイウオーク組合代表、今村勝氏、山口ジュニア代表、青木次郎氏、仏教会代表、井上安三氏、防長海協代表、近村改蔵氏、日商代表三原源治氏の弔辞、(中略)伊東忠三郎氏の謝辞あり。会葬者500名に近く最近にない盛葬であった」
岡村正一氏は前述の山口県人会長を伊東忠三郎氏から引き継ぎ、また日商の社会部長として活躍中だった。外務省の調査によると岡村正一氏の経営するグランドユニオン洗濯株式会社は、1913年に従業員120人、売上げは11万5千ドル(当時の日本円で23万円、現在に置き換えると約2億3千万円)だった。
②吉田龍之輔(熊毛郡上関村出身)
ジム・ヨシダの父親の吉田龍之輔は、前回お伝えしたように柔道道場「天徳館」の評議員や前述の山口県人会の理事を務めていた。添付の吉田龍之輔が大きな鮭を釣った写真は、筆者の父、與が所有していたもので、1938年頃に撮影されたものと推測される。
「吉田龍之輔氏死亡」1939年12月20日号
「山口県人、吉田龍之輔氏はグランド・セントラル・ホテル下で床屋と洗濯業に従事して
来たが、今朝4時狭心症にて死去された」
この記事の横に吉田克己(ジム・ヨシダの日本人名)より 葬儀日程は決まり次第通知するという広告が掲載された。
吉田龍之輔氏の亡くなった時の様子は『ジム・吉田の二つの祖国』の中に克明に書かれていた。
「吉田龍之輔氏葬儀案内」1939年12月23日号
「葬儀:12月27日19時30分仏教会、喪主、吉田克己 在日本親戚、吉田才助、新舛與、友人総代、伊東忠三郎」
筆者の父、與は龍之輔叔父の訃報を聞き、自身の手記に非常に悲しんだことが記されていた。與は葬儀に親戚として参列していた。
「故吉田龍之輔氏葬儀」1939年12月28日号
「故吉田龍之輔氏の葬儀は昨夕7時半より仏教会に於て営まれた。会葬者260名にて頗る盛葬であった。霊前には各団体初め其他無数の供花にて飾られ、市川開教使の読経後一同線香を終へ、個人略歴、並びに弔電朗読、沖山栄繁、弔辞友人代表、伊東忠三郎、理髪業組合、原實三、洗濯業組合代表、岩名常次郎、天徳会父兄代表、川船和夫、山口県海外協会、近村改蔵、遺族親戚を代表して吉田春一が謝辞を述べ、式後記念撮影して午後9時半閉会となった」
郷里送金
海外へ移住した多くの日本人は、海外で稼いだお金のほとんどを故郷に送金した。日本人は困窮した日本本土の家族へ送金することが第一義であった。
「広島県より派遣の移民視察員渡米」1918年1月17日号
「外国へ最も多く移民を出来て居る県は何と言っても広島県が第一だが、同県の内でも安芸郡仁保村が一番多いそうである。即ち現在に於ける同村の海外移民数は、ハワイ3350人、北米850人、南米730人、清国、其の他南洋諸島160人、合計5000余名の多きを算し、毎年これ等の移民から本国に送金する額は平均年間20万ドル(当時の日本円で約40万円、現在に置き換えると約4億円)の多額に昇る。同村の人口は1万9500人と比較すると一軒から平均二人の移民を海外に送って居る。
今回同村から海外移民の状態を観察し併せて多年外国で奮闘して居るこれ等勇敢なる健児を慰問せんが為、助役浜井正氏を北米に派することゝなった。同氏は昨年10月22日郷里出発し、11月5日ホノルルに到着。(中略)同氏はサンフランシスコ、ロサンゼルス視察後北上してポートランド、シアトル地方を視察する予定」
『北米年鑑』1928年によると、1925年の在米日本人の郷里送金は1400万円(現在に置き換えると約140億円)で、内広島県は170万円(現在に置き換えると約17億円)、山口県は99万円(現在に置き換えると約10億円)だった。
「在米同胞の昨年度故国送金、700万ドル」1940年3月15日号
「在米同胞の昨年中、故国に送金した金額は700万ドルに及ぶといふことがワシントン商務省の調査によって判明した。即ち商務省の調査によると、昨年度米国から海外へ流出した金額、1億3700万ドルの内、1億200万ドルは米国在住外人の故国向け送金(献金始め各個人の郷里送金の合計)でこれは前年度の1億5000万ドルに対し一割の減少を示してゐるが、その中日本人の故国送金のみは前年とほぼ同額の700万ドルと見積もられるが在米各外国人の送金金額を見ると左の如くである。
▲日本人700万ドル▲支那人3500万ドル▲イタリア人1500万ドル▲ギリシャ人2000万ドル▲スエーデン人400万ドル▲ノルウェー人200万ドル▲アイルランド人1100万ドル▲フィンランド人200万ドル(中略)尚右送金総額1億ドルの内3000万ドルは郵便為替で送られたと言はれてゐる」
この記事によると、米国在住日本人の故国送金額は1938、39年共に700万ドルで当時の日本円で約2500万円となり、現在に置き換えると約250億円に達する。アメリカへの移民が日本に大きな貢献をしていることがわかる。
シアトル在留日本人は出身県に対する思いが非常に強く、郷里送金や災害時の支援など、地元への貢献に非常に力を注いでいたことがわかる。
次回はシアトル在留日本人を支えた日本人会の活動についてお伝えしたい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
①加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
②『北米年鑑』北米時事社、1928年
③在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年
④ジム・吉田、ビル・細川『ジム・吉田の二つの祖国』文化出版局、1977年
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。
『北米時事』について
鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。