Home 日系移民の歴史 二世新舛與の生涯 ◆新連載◆ 二世新舛與の生...

◆新連載◆ 二世新舛與の生涯 〜第一回 幼少時の與〜

二世新舛與の生涯

By 新舛しんます 育雄いくお

 初めに 

筆者の旧連載、(2019年6月から2020年5月まで全12回 https://napost.com/ja/category/history/shinmasu-story新舛與右衛門しんますよえもん ―シアトルに生きた祖父―」では、筆者の祖父、與右衛門の人生を綴った。1906年山口県瀬戸内海の島から家庭の貧困を助けるためにシアトルへ向かい、その後與右衛門は理髪業を手掛け、数々の苦難を乗り越え成功を収めた様子を連載でお伝えした。

筆者の父、あたえは1914年にシアトルで生まれた。しかし與右衛門が1928年12月に不慮の事故で急死したことで、與は帰国を余儀なくされる。その後與はシアトルへ戻りアラスカ鉄道の運転手として働き生活していたものの、日米戦争の危機を感じた日本の家族から「母危篤」の電報を受け取り、意に反して帰国することとなった。戦後は小学校の教員となり、その後シアトルへ行くことはなかった。

本連載は筆者の父與にスポットをあて、筆者の旧連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」を加筆修正したものに加え、渡航記録、学校の通信簿や自身のシアトルでの生活を記録した日記等を見て、その様子を記したものである。また與を取り巻く、自身の姉妹や與右衛門の兄弟姉妹(與の叔父、叔母)、蒲井かまいから移民した人々の様子等について、また連載の締めくくりには筆者の記憶にある父の思い出についてもお伝えしたい。

第一回 幼少時の與

誕生

與シアトルにて、5歳頃

1914年9月6日、筆者の父である與はシアトルで生まれた。在シアトル帝国領事館、高橋清一領事を通し、日本の外務大臣加藤高明宛へ出生届が出された。アメリカへも同じく出生届を提出し、與は日本とアメリカに二重国籍を持つ日系アメリカ人となった。與のアメリカ人としての名前はジョン・シンマス(John Shinmasu)だった。

與という名前は、父親の與右衛門から一字取り「すべてを與える」という意味で名付けられた。與右衛門のかわいがりようは尋常ではなかった。

與が幼少の時、母親のアキに連れられよく近くの公園へピクニックに行った。與は近所のアメリカ人の子どもたちともよく遊び、自然に英語を習得していった。

筆者の文献等の調査によると、與と同じ年齢の二世がシアトルに約130名いた(筆者旧連載『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史、第10回「二世の二重国籍と結婚問題」https://napost.com/ja/north-american-times-vol10参照)。與右衛門と妻アキで経営していた理髪店は非常に繁盛していた。しかし、一つ問題が起こった。與と妹二人が、理髪店の廻りをうろうろ遊びまわり、可愛いさの反面、仕事の邪魔になると感じるようになったのだ。アキは與右衛門に子どもたちをどうしようかと相談した。結果、子どもたちを日本に連れて帰り、山口県の瀬戸内の島にある蒲井に住む與右衛門の両親に預けることにした。

日本での暮らし

1920年9月、與右衛門は家族全員で日本へ帰国した。帰国の目的は、子どもたちが理髪業の仕事の邪魔になるので、実家である蒲井にいる與右衛門の両親に預けることにしたのであった。シアトルで生まれたこどもたちは日本のことは何も知らなかった。当時の3人の年齢は與6歳、長女4歳、次女2歳。

與右衛門の父親、甚蔵と1920年頃

家族全員でシアトルから船に乗り、2週間をかけ一路日本へ向かった。子どもたちは、まだ見たこともない両親の祖国は一体どんな場所なのかと不安に思った。

蒲井での與はやんちゃざかりで、家の鶏をわざと外に出すなど、いたずらばかりしていたという。地元の小学校へ通った與には同級生が数人いたが、みな畑か海しか知らず、蒲井から外に出たことすらないという者ばかりだった。與はアメリカ帰りということで別格視された。日本語はシアトルで両親と話していたので、生活に必要な日本語は問題なかったものの、筆記はほとんど経験がなかったので、相当苦労したようだった。英語は堪能だったが蒲井ではあまり使うことはなく、時たま與が英語を口にすると、周囲の人は與の流暢な英語に舌を巻いた。

與の教育

子どもたちが蒲井で暮らしていた1923年9月に、関東大震災が起こった。関東一円が廃墟と化し、日本の先行きがあやしくなるような大災害だった。

1924年7月に排日移民法が施行され、日本からアメリカへの移民は禁止され、妻子や親の呼び寄せができなくなった。

與右衛門は、長男の與をこのまま日本に住まわせていてはだめになる、與だけはアメリカに呼んでアメリカで教育させようと考えた。妻アキは與をシアトルへ呼び戻すため、1924年4月に一時帰国。與はアキと一緒に同年5月にシアトルへ向かうことに成功したため、排日移民法施行前に與を呼び戻すことができた。

與、シアトル行きのパスポート1924年

二世である與は、3年半という短期間ながら蒲井での生活を経験して日本文化に浸ることができた。地元の小学校へ通い読み書きを習得し、近所の子どもらと遊ぶうちに、日本語も自ずと身についていった。

当時シアトルでは、二世の日本語と日本文化の習得のため国語学校を作り、二世の子どもたちの大半が公立学校終了後に通っていた。與が蒲井での3年半の生活で、シアトルの国語学校と同等のことを実践で学べたことは大きな強みとなり、当時のシアトルにいた多くの二世とは違う経験を積んだといえる。

ワラワラ公立学校への入学

與右衛門はビジネスの成功に加えて、もう一つの大きな課題は、長男である與の教育だった。與右衛門はアメリカの地で與を教育し、自分の後を継いでもらいたいと思っていた。

1924年夏に與右衛門がシアトル郊外のワラワラへ転居し、與はワラワラの公立学校に入学した。この時與は9歳。当時のアメリカ公立学校は6歳で入学だったので、與はほかの子どもより3年遅れたことになるが、それには與にゼロからアメリカの教育を受けさせた方がいいという與右衛門の配慮があった。

入学した公立学校名はベイカー・スクール(Baker School)。通学した当時の記録が詳細に残っている。與は1年生として入学してから、1928年までの4年間在学。ベイカー・スクール在学期間中の学業成績表「ピューピルズ・レポート(Pupil’s Report)」計8通には、左上に與のアメリカ名John Shinmasu と、学年、クラス名、先生のサインがある。左下にはクオーター毎のY, Shinmasuのサイン、右上には出席状況記録も見られる。右中央から右下にかけて各教科の評価がされている。算数(Arithmetic)、英語(Language)、地理(Geography)、歴史(History)、読み方(Reading)、書き方(Spelling)、音楽(Music)、図画(Drawing)、体育(Physical training)の計9科目。評価は、90点以上がExcellent、80点以上が Good、70点以上が Fair、60点以上がPoor 、60点未満はVery Poorとなる(下記掲載画像参照)。與の評価を見ると、1年生のころは平均的な成績だが、だんだんと上がり、2年の後半以降はほとんど90点以上の成績だった。全く日本語を使わない現地学校でアメリカ人と同じことをやらなくてはならない環境にあったが、驚くほど良い成績であった。與にしてみれば、生まれて6歳まではシアトルにいたため、自分が日本人という感覚よりもアメリカ人と同じという感覚であり、難なく周りの児童に溶けこんでいたようだ。與は日本で日本語の勉強もしたため、日本語も英語も流暢なバイリンガルで、当時としては珍しい存在だったかもしれない。

ワラワラのベイカー公立学校3年生の時の成績表

與はワラワラ公立学校の2年生か3年間、無遅刻、無欠席の皆勤賞を毎年もらっていて、その表彰状も残されている。表彰状には5年生であることが記されており、ワラワラ公立学校4年目には5年生になっていた。與が学業優秀で、体も元気だったことがうかがえる。

ワラワラ公立学校での皆勤賞

ワラワラで與右衛門が経営していた理髪店は、シアトルで地下にあった簡素な理髪店と比較すると豪華な内装で大変立派なものであった。與はこの理髪店を非常に誇らしく思っていた。シアトルでは狭いホテル住まいだったが、ワラワラでは花の咲く広い庭のある一戸立てに住み、近所の日本人家族と親しく交流をした。與はそうした家族の男の子と友達になり一緒に遊び学校へ通う、平穏な日々を過ごした。

ワラワラ理髪店1924年

本稿は筆者の連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」第3回「結婚と家族」、第4回「子供達は日本へ」、第5回「絶頂期の理髪業」及び第6回「與の教育」を加筆修正したものです。 


参考文献
■『北米年鑑』北米時事社、1928、1936 年