横浜というと船舶や西洋文化の入ってきた街という印象を思い浮かべやすい。「みなとみらい」や「赤レンガ倉庫」などもそうだろう。
港湾都市として今も栄える横浜だが、横浜と共に100年以上歩み続けてきた一族にヘルム家がある。明治時代に横浜に渡ってきたユリウス・ヘルム氏から同地での歴史が始まる。現在まで連綿と続いてきた一族の趨勢を綴った自叙伝として、『横浜ヤンキー』が出版された。
著者のレズリー・ヘルム氏は横浜で育ち、現在シアトル在住。ユリウス氏から四世代目となる。日本と米国という二国の文化的背景を持つため、「アウトサイダー(部外者)」として生きざるを得なかった同氏の苦悩の日々や、世界大戦などの戦争や、関東大震災といった大きな歴史のうねりに翻弄されてきた一族の歴史を描いた。
日本で生まれながら「ガイジン」として育ち、米国に移ってからもアウトサイダーであると感じていた同氏が始めた自己発見のための一族調査。2013年に英語版、昨年に日本語版が出版された。20日にはインターナショナル・ディストリクトの和み茶室で午後2 時から関連ブックイベントが開催される(詳細カレンダーページ)にあたり、ヘルム氏に話を聞くことができた。
『横浜ヤンキー』の由来は何でしょうか。
「英語でヤンキーというと外国人(Foreiner) という意味があります。あと子供の時によく『君はヤンキーだろ』と言われることがあったのですが、米国人という意味もありました。つまり横浜が日本を表し、ヤンキーが米国で、日本と米国2つのつながりを表しています」
外国人、ミックスド・ルーツについて、ヘルムさんが子供の時に苦労されたことは
「私はそういう経験はあまりなかったです。友達の子はミックスド・ルーツなんですが、いじめられたりとかそういうことはあるみたいです。周りと比べて少し違うということが原因かもしれません。例えば肌の色の違いや、文化の違いなどです」
2つの文化的背景がプラスに働くような場面はどういった時でしょうか。
「プラスになる部分はあるはずだと思います。ただ2つの文化をどの程度活かせるかによって違ってくると思います。例えば2つの文化を持つからといって2カ国国語を完璧に話せわけではないですよね。特に日本の教育では漢字を覚えたりするのがすごく難しいです。また良いイメージを持たれがちかもしれないのですが、実際にほかの日本の方たちと同じ扱いをされるかというとそうでもない。どうしても集団の中で浮いてしまうので、同じ扱いをすることが難しいのでしょう」
日本社会に溶け込むために何か意識していたことはありますか。
「まずは言葉が大事だと思いますし、それから日本の文化を学んで取り込むことでした。ただそれをしたからといって溶け込めるかというとそうではありませんでした。日本の文化を取り込もうとしても、どこまで米国人としての自分を残すのかというバランス取りが難しかったです」
自分のルーツに対して強い思いを持つ理由は何でしょうか。
「一つにはやはり外国人として日本に住んでいると、自分のルーツは何なのか、自分が誰なのか考えさせられたからです。日本人から見て自分は『外国人』ということがアイデンティティになってしまう。やはりほかの文化で育った人にはそういう問題はよくあると思います。つまり自分が属するコミュニティーがわからなくなってしまうということが一つ目の理由です。
もう一つは日本に住んでいる際、日本人の子を養子に迎えたとき、自分のルーツがしっかりしていないことが子供を育てる際に問題になると思ったからです。私の父を例に挙げると、彼は半分日本人の血が入っていましたが日本の文化が好きではなく、日本語もあまりしゃべれませんでした。
また米国で兵役についている際には、日本人の血が入っているということで完全に米国人にもなり切れなかったということが大きな影響を及ぼしたと思っています。それがあって自分を恥じてしまい、あまり幸せではなかったように思います。そういった父の影響もあると思います」
ルーツが不安定なことでアイデンティティーも不安定になってしまうという事でしょうか。
「そうだと思います。アメリカンな部分もですが、自分の日本的な部分も大事にしたほうが良いと思います。自分のルーツを否定するのはよくないと思います。日本に住んでいたときは外国人として見られたりと多少は嫌なこともありましたが、振り返ってみると良い所に住んでいたと思います。日本に住んだことにある友人も似たようなことを言っていました。嫌なこともありましたが、そういうこともひっくるめて大事に、プラスにしています」
(白波瀬 大海、写真提供 = レズリー・ヘルム)