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最終回 スポーツの振興 〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブから過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

最終回 スポーツの振興

前回は戦争花嫁に関する記事を紹介したが、連載最終回となる今回は、野球、柔道、水泳等のスポーツの振興に関する記事について紹介したい。  

野球  ⚾️

▪️シアトル二世帰還兵軍の活躍

野球は今も、アメリカで最も人気のあるスポーツの一つであるが、当時、シアトルには「シアトル二世帰還兵軍」というチームがあり、シアトル在住日系人からの厚い応援があった。

「常勝二世帰還兵軍、鼻息は益々荒い」1947年5月21日号

「戦へば必ず勝つ、ビューゼット・サウンド・リーグの首位にあり我がシアトル二世帰還兵軍は、去る18日海平団軍を迎へて奮戦苦闘、投手を変へること三度、こん度こそは黒星を頂くかと、ファンの手に汗を握らせたが、実力の差は如何ともなり難く、13対12のクロスゲームでまたも我帰還兵軍に軍配は挙がった。流石さすがは常勝軍、このところ6勝無敗で首位は盤石の如くにして揺ぎなく、白人ファンの羨望せんぼうの的となってゐる」

▪️独立祭での西北部野球争奪戦

「野球だより、独立祭野球試合復活」1947年6月4日号

「シアトル同胞間では独立祭の催しとして西北部野球チーム試合をすることが、年中行事の一となってゐたが、同胞総立退のため一時この催しも立消となってゐた。我々の社会状態が亦元の通りになってみれば、こうした催しも復活させたいものだと、岡田伴三君の肝入りで、遂に新しく生れ立てたのが、独立祭野球試合委員会だ。(中略)
話に聞けば何でも独立祭野球試合委員会が主催者となって西北部各都市の同胞既成チームをシアトル市に招待して華々しく争奪戦をやらかそうといふのだが、参加チームはフートリバー、クリンリバー、スポケーン、タコマ、オンタリオ、ナンバ、それに帰還兵軍、既に各地のチームには招待状が発せられ、参加承諾の回答もきてゐるとのことだ。しかし先立つものは金だ。準備は出来ても、金がなければ、折角目論んだことも中途でオジャンになってしまうやうでは残念だ。どうしても成功させたいものだと委員会では一般同胞に訴へて、幾分かの寄附をお願ひするらしい。皆さん大にヘルプしてやらうではありませんか、そして野球見物にでも行って、沈滞した気分を晴らさうではありませんか」

岡田伴三氏は旧連載「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」第14回でお伝えした、太陽ガールズ日本見学団を計画した人物である。

「ファンの血を沸かす西北部野球争奪戦、7月4日より3日間」
1947年7月2日号

「戦前独立祭に於ける同胞間の催しの一としてファンの血を沸かす西北部野球争奪戦も、同胞総立退によって一時立消となってゐたが、同胞帰還と共に再び話が持ち上り、野球のためなら三度の飯はぬきにしてもいゝと云う位熱心な岡田伴三氏の肝入りで、シアトル野球協会が主催となり西北部同胞野球団を招待して愈々7月4、5、6の三日間晴々しく争奪戦を決行することゝなった。当日参加するチームは、一、スポケーン 二、ポートランド 三、フードリバー 四、シアトル帰還兵軍 五、ノースウエスト、タイムス 六、オンタリオ 七、バーレー金星軍 八、ウエスタン・ジャイヤントチームの組合せは当日参加チーム集合の上、抽選によって決定することゝなってゐる。(中略)
何れのチームが優勝するか、この頃のメーン街頭、この話で持ちきりであると」

同年7月9日号によると西北部同胞野球争奪戦で、シアトル軍は惜しくも第2位に終わった。しかしその後の48、49年には優勝を報告する記事もあった。

▪️アメリカプロ野球、ノンプロ野球の訪日

アメリカプロ野球やノンプロ野球チームの訪日で、日米親善を図ろうとした。

「シールス軍今秋訪日、ノンプロ選手権も明年日本で」1949年7月2日号

「アメリカ・ノンプロ野球協会の極東委員長ステッドマン提督、同日本支部委員長マーカット少尉(総司令部経済科学局長)及びフィリピン支部委員長パーソンス氏は、去る6月10日から24日まで東京で極東野球委員会を開いて協議中であったが、ス提督とマ少尉は25日夜マッカーサー元帥と会談、その結果サンフランシスコのシールス軍の訪日及び世界ナンプロ野球選手権試合(東西半球決勝戦)の日本開催に許可を与へられたので、26日正午後楽園球場貴賓室で内外記者団と会見、極東巨頭会談の結論を次の通り発表した。極東野球委員会は第一回会議を終えて次の結論を得た。

一、今夏のアメリカ・ノンプロ野球選手大会ハワイ予選への日本及びフィリピンの参加を否決
二、韓国のエスビーシー加盟を承認
三、アメリカ職業チーム、サンフランシスコ、シールス軍の今秋訪日に対して許可が与へられた
四、1950年日本においてノンプロの東西半球代表決定戦を開催する

第三、四項についてはマッカーサー元帥の許可を与えられたものである。またその運営はマーカット少尉によって監督される。(中略)
訪日を許されたサンフランシスコ、シールスはアメリカの二大リーグにも匹敵するコースト・リーグに所属し、フランク・オドウール氏が監督である。同氏は1929年、1931年、1934年と過去3回に亘って日本を訪問、日本球界にはなじみ深い野球人で、このチームはオドウール氏が監督に就任した1935年と1946年の二回リーグで優勝し、リーグ随一の名門としてアメリカ球界に知られている。(中略)
1935年、1936年の二回日本の巨人軍(沢村、水原、スタルヒン、内堀など参加)がアメリカ遠征をした当時、前後11回の試合を行い7勝4敗で巨人軍が負越している」

▪️巨人軍沢村投手の遺品

1935、36年に日本の巨人軍がアメリカ訪問した時、その中の選手の沢村投手に関する記事があった。

「ルースの署名入りボール等故沢村栄治投手の遺言結実」1949年12月8日号

「日本野球は読売巨人軍の優勝で閉幕したが、かって同軍の花形選手として活躍した故沢村栄治氏の遺品が氏の死後6年目ようやく遺言が実って巨人軍に届けられた。話題の遺品は巨人軍が米国遠征の折、ベーブ・ルースやゲーリック等のサイン入りのボールおよびモデルバットである。1943年プロ野球中止で沢村投手が大阪府貝塚市の一工場に勤務中、応召入隊する時、友人の北岡成介氏(高知県出身)に『これは僕の野球生活時代の記念品ですが、もう自分の野球生活もさようならでせう。万一プロ野球が復活して巨人軍が優勝したら僕の身代りとして届けてください』と託したもの。日本野球が生んだ不世出の名投手沢村は1945年7月沖縄戦で戦死、悲しき遺言は戦後プロ野球復活3シーズン目の本年実現され、北岡氏の手から優勝の巨人軍に贈られたのである」

以下に記載の沢村投手の写真は筆者の父、與が所有していたもので、1936年頃シアトルで撮影されたものである。

巨人軍のユニフォームを着た沢村投手
1936年頃シアトルにて

▪️サンフランシスコ・シールズ訪日

アメリカプロ野球チームのサンフランシスコ・シールズは訪日の際いろいろな気配りがあった。

「サンフランシスコ、シールス軍からシールスの贈り物」1949年10月18日号

「日米親善野球のサンフランシスコ、シールス軍野球団ポール・フェーガン氏と副会長チャールス・グレアム氏からアザラシ数頭がおくられることになった。これは日本の子供たちの素晴らしい野球熱をきいて、東京の子供たちへとシールス軍の名に因んで贈られるもので、両氏が帰国後直ちに手続きがとられる。好意のアザラシは上野動物園に入れる予定だが、これでほとんどの動物が揃い、戦前の姿にいま一息にこぎつけたわけ」

*当時の『北米報知』では、「シール」ではなく「シール」と表記

「日本の話、日米親善野球」1949年10月29日号  

「日米親善野球で来日したサンフランシスコ・シールス軍監督のレフナー・オドウール氏からオドウール・デイの発表があった。これは日米親善野球のクリーン・ヒットだ。いや日米親善のサヨナラ・ホームランだ。子供たちのために10月30日の日曜日の野球を無料で招待しようというオドウール氏の発案はどんなに子供たちをよろこばせることであろうか。健全で明るい野球の精神をしっかり身につけた子供らは、野球選手になる必要はない。クワをにぎっても、ペンマンになっても、政治家になっても、きっとフェアプレイの精神を生かして、未来の日本を明るくするに違いない。オドウール小父ちん、ありがとう。日本野球もこれから毎年、この日をオドウール・デイとして孤児の無料招待を定期的にやることにしたらどうだろう」

▪️ノンプロ野球世界大会

1950年秋には日本でノンプロ野球世界大会が行われることゝなった。

「日本と決勝戦、ノンプロ野球選手権」1950年1月16日号

「アメリカン・ノンプロ野球協会のテイラー・スピンク委員長は過日今夏ウイナタ市(カンサス州)で行はれる1950年のナンプロ野球大会の優勝チームは、東京で行はれるノンプロ野球世界選手権大会で日本の優勝チームと戦うことに決定したと発表した。なお9月8日ごろ終る予定のアメリカ・ノンプロ大会が終ったのちアメリカ・チームは空路東京に向うことになっている」

「今秋東京、大阪でノンプロ野球世界大会」1950年5月31日号

「世界ノンプロ野球選手権大会の打ちあわせのためさきに訪日した世界ノンプロ野球委員会テーラー・スピンク委員長は同委員会日本支部長マーツト少将、日本側大会準備委員と協議を終り、16日羽田発帰米したが、次のようなスケジュールと規定が決定、待望のノンプロ世界選手権大会は今秋9月9日東京後楽球場を皮切りに熱戦の火花をきることゝなった」同年9月20日号によれば、アメリカ代表ケープハーツが日本代表の大阪鐘紡を4勝1敗で敗った。

柔道 🥋

柔道の復興戦前シアトルでは、二世教育のために柔道が盛んに行われたが、戦後その復興が徐々に行われた。

「柔道会の再興、ワシントン州柔道倶楽部と改称、総務に宮沢氏推薦」1949年6月3日号

「過日柔道有段者並に関係者は仏教会に参集、柔道再興の件に関し、協議した結果、左の如き申合せを行った。宮沢師範を総務兼監督とする。(中略)決議事項

一、来る7月13日午後8時シアトル仏教会に於て第2回総会開催
二、柔道開きは来る9月9日午後8時
三、名称はワシントン州柔道倶楽部と改名
四、シアトル道場父兄会及道場員より申出ての通り現在の道場を引受け有段者並に柔道関係者で運営
五、柔道稽古日は当分、週2回
六、柔道着は開始までに準備委員にて準備

▪️シアトル道場の再開

「シアトル道場再開へ、取得希望者募集」1949年10月5日号

「シアトル道場では青少年の心身鍛錬のため、近く道場を再開する予定ではあるが、今後申込者の数によって再開するかどうかについて決定されるので、目下中津ジョー二段を委員長に申込者募集を開始した。申込者は年齢、男女を問はず柔道を習得しようとするものを歓迎しており、宮沢商会まで至急申込まれたいと」

「柔道場開き」1950年6月7日号

「長い間閉鎖していたシアトル道場は諸準備が完了したので、愈々9日午後7時30分開始することゝなったが、種々事項につき協議したいこともあるから道場関係者及び修業者の来場を希望すると。尚柔道着の準備もある由、場所はワシントン街1520である」

▪️柔道映画の渡米

「柔道映画が渡米、最高の技術を紹介」1950年8月17日号

「駐日米軍将兵で柔道練習者が2万人といわれ、このところ国際的脚光を浴びているが、柔道の正しい紹介を映画で伝えてほしいという内外の要望に応え、田口プロダクションでは、講道館と連携して『柔道の極意』を製作する。同映画は永田、三船、佐村の各10段が出演、現代の最高技術を紹介する。解説は徳川無声氏。来る9月はじめ完成の予定だが、プリントはアメリカの柔道ファンにもお目見えする筈」

▪️柔道着の輸出

「柔道着千着シカゴのセントラル会社へ輸出」1950年10月10日号

「東京朝日紙の報じるところでは、このほどシカゴ市のセントラル・セールス貿易会社から、8、9歳用の柔道着千着の注文が大阪府中河内郡柏厚町の一繊維会社にあり、子供のものは初の輸出だけに、関係者を喜ばせている。去る8月シカゴ市で開かれた第一回見本市に出品した柔道着がお気に召したものらしいと同社で語っている」

水泳 🏊

▪️ロサンゼルスでの全米水泳大会

 

1949年8月にロサンゼルスで開催された全米水泳大会に日本選手が参加し、華々しい活躍をみせた。アメリカ在住の日系人は熱い声援を送っただけでなく、日本選手団の宿として自宅を提供するなど、選手団に手厚い支援を行った。

「全米水泳大会最終日、古橋またも世界新、感激に泣く同胞観衆」
1949年8月20日号

「日米両国のみでなく全世界の水上競技界の注目をあびて開かれたロサンゼルス・オリンピック・プールの全米水泳選手権大会は19日をもって4日間の行事を終った。(中略)
古橋タッタ一人で400、800、1500の各自由形で3つの世界新記録を連続的にウチたてるという未曾有の輝かしい大成績をあげ、水上日本の威力を完全に発揮、会場を興奮のルツボの中にタタキ込み、 観衆にまじる日本人同胞はカンゲキの絶頂に達し、なかにはそのあまり涙さえうかべていた」

「二世諸君に脱帽する。大金字塔にわく議論」1949年8月26日号

「ロサンゼルス市における日本代表6選手の活躍は、水泳史上空前の金字塔として世界の視線をひきつけたが、来月3日栄光に輝く選手団をむかえる日本では、今回の選手派遣に関して議論やら意見がまきおこっている。つぎのお伝えするのはロサンゼルス市オリンピック・プールの時ならぬ『余波』である。(中略)
『一二世に感謝』自宅を開放したロス市の和田勇氏はじめ、今回の渡米で援助を惜しまなかった在米同胞、二世諸氏に対し感謝の声があがっている。1932年同じロス市のオリンピック大会の当時は日本体育会の幹部の中に『移民の世話にならぬ』と不逞の放言をしたものがあり、大会終了後、真心こめた在米胞に歓迎会へ選手を出さないような監督もいた。この様に同胞が冷たい眼でみられたことがあったのにかゝわらず、過去を水に流した一二世諸氏の今回の歓迎ぶりに有名な政治評論家山浦貫一氏は『私はなつかしのロスを回想しながら水泳選手、われ等を成功させてくれたアメリカの人々、そして在米30万の同胞、特に二世諸君に脱帽する』(東京紙)とさえ記していた」

▪️日本での日米水上大会

翌年の1950年には日本で日米水上大会が行われ、二世が大活躍した。

「日米水上大会、マーシャル破り、コンノ一着1500m自由形」
1950年8月4日号

「待望の日米水上大会は4日夜その第1日の幕を神宮プールで切って落した。この日天候悪く雨と風の中に15000人の観衆は古橋、マーシャルの世界の世紀の一戦を見んものとつめかけていた。しかしこの日、古橋は興味の中心となっていた1500メートルの自由形に出場せず、200メートル自由形に出場優勝した。(中略)
1500メートル自由形、米軍のハワイ出身フォード・コンノ(二世)は18分47・2秒で泳ぎ、オーストラリア出身のマーシャルと橋爪を破って1着、マーシャルは20ヤードも遅れて4着、この種目における古橋の記録は昨夏、ロサンゼルスで樹立した18分19秒である」

▪️二世選手の活躍

「日米水上、天晴二世紺野、20年来の栄冠奪う」1950年8月10日号

「日米対抗水上は幾多の世界記録を樹立して米軍大勝のうちに閉幕したが、なかでも誰一人として優勝を予想しなかった、若干17歳の二世紺野君は、日本が過去20年間守り通した1500mの王座を奪還、米軍のため正に万丈の気をはいた。福島県人で機械工の父をもつ同君がまさか一着になろうとは、夢にも思わなかったようで、当地の各新聞はいずれもその偉業を筆をそろえて賞賛した。ニッコリ笑って勝利のトロフィーをうける二世コンノには二世特有?の肌ざわりはなく、なかなかの評判であった」

「水上の王者コンノ君の叔母喜ぶ、近く初の対面」1950年8月19日号

「東京、大阪と宿敵日本チームをむこうにまわし遠征の米水上チームは、連日連勝で近く行われる宇都宮大会でも無敵ぶりを発揮するものとみられる。この米軍大勝のかげに大きくモノをいった紺野ヒロシ君は二世だというので、注目を浴びているが、同君の父親喜代治氏(56在ハワイ)は福島県福島市外吉井田村本田の出身という。しかも内地には喜代治さんの姉とくさん(61)と妹みつ子さんがおり、ヒロシ君の活躍に狂喜している。東京目黒に住むみつ子さんの話『赤ちゃんの時の写真をみただけでまだ本人に会っていません。ヒロシの伯父にあたる与三郎が観光団で日本にきていたので、この間宿舎に面会にまいりましたが、折悪しく会えず残念でした。ヒロシからはギフトを沢山もらいました。宇都宮大会後会うのをたのしみにしています』

野球、柔道、水泳、いずれもスポーツを通して日米親善の架け橋となる役目を果たしてきたことが、記事から鮮明に伺うことができた。


 

〜 筆者より 〜

本稿で「初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史」は最終回となりました。戦後間もない頃のシアトル在住日系人による日本町の復興、母国日本の復興支援、立退き損害賠償問題、一世の帰化権の獲得問題、日系人会の発足など、日系人がどれだけ情熱を注ぎ活動してきたかを、紙面を通して感じることができました。長期にわたる皆様のご愛読に深く感謝申し上げます。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2015 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」、2023年9月から2025年2月まで「初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。