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 新連載  初期『北米報知』から見る
     シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第1回 『北米報知』の創刊

『北米報知』は、シアトルの戦後初の邦字新聞として1946年6月5日に創刊された。有馬純達すみさと『シアトル日刊邦字紙の100年』(2005/築地書館)によると、「純雄すみお一家が、はるかテキサス州からシアトル市の真西に浮かぶベインブリッジ島に連れられ、そこで釈放されたのが1946年3月であった。そのわずか3ケ月後の1946年6月『北米時事』の後継紙として『北米報知』がシアトルで創刊された」とある。当初は週一の発行だったが、1948年5月からは週3回、1949年3月以降は毎日の発行となった。本連載は『北米報知』1946年6月5日号から1950年12月29日号までの記事を振り返り、戦後のシアトル日系人コミュニティの復興、発展の様子を皆様にお伝えしたい。

第1回となる今回は『北米報知』の創刊の様子を紹介する。

『北米報知』の創刊

1946年6月5日号第一面に『北米報知』の創刊者である有馬純雄氏の創刊の挨拶の記事がある。

『北米報知』創刊号第一面1946年6月5日

「創刊のことば、有馬純雄」1946年6月5日号

「『北米報知』が呱々ここの声をあげました。再建途上の同胞社会が生み出したのですから、極めて、お粗末な、しろものです。社会の指導機関だとか、木鐸ぼくたく だとか言ふ、いやに思いあがったシロモノではありません。あの人はどこで何をして居るのだらう-とか-又はあの人々は何をやろうとして居るのかしら-と思ひ浮べても、杳として知る由もない、何か報道機関が、欲しいものだと言ふ声が挙げられてから既に半歳にもなるので、それでは一つ週刊紙でも出して、各地の情報交換に便宜を与へたらば、と考へついた結果が、この『北米報知』なのであります。(中略)
『北米報知』の創刊を企てたのは、前野邦三、生駒貞彦の両君でした。そこへ私が颿然はんぜん と戻って来たので、お前は新聞屋だから、お前が戻って来た限り、おまえ一人でやって行くが良い-と私へ押しつけられたのです。今日の社会情勢で日刊紙を出すことは、相当困難だし、週刊紙を出すにしても収支償ふかどうか頗る疑問なのです。うっかり手を出すと、焼く恐れがありますので、躊躇ちゅうちょ して居りましたが、当分遊び暮すつもりなので、道楽半分にやってみやう-と言ふ事になり、前野、生駒両君の献身的協力を得て、漸くここ に創刊の運びとなった訳であります」

有馬純雄氏は、戦前の北米時事社社長の有馬純義すみよし 氏の弟で、真珠湾攻撃勃発直前の1941年11月、純義氏の一時帰国後から北米時事社の社長を引き継いだ人物である。

戦前にシアトル日本人会会長をつとめ、戦後シアトル日系人会会長として活躍する三原源治氏が『北米報知』の創刊に際し次のように述べた。

「発刊を祝す 三原源治」1946 年6 月5 日号

「発刊を祝す 三原源治」1946年6月5日号

「我が同胞社会に最も必要なる報道と指導機関たる新聞紙の発刊があたか も雨乞ひの如く切望された事既に半歳、幸に此度北米時事社の有馬純雄氏が我等の希望を容れて新聞創刊に乗り出され漸く茲に西北部唯一の新聞がシアトルに再生した事は同胞の再発展と共に誠に慶賀至極である。新時代には新時代にふさはしい新聞が必要である。私がそれを此の『北米報知』に期待して将来の活躍を切望し発刊を祝する所以ゆえん である」

第一面下には、尋ね人、退院、新開業、人員募集、諸集会、出生、死亡通知等シアトル日系人にとって大切な情報がきめ細かく掲載された。

広告覧には、奥田平次、伊東忠三郎、橋口長策、星出惣吉、国行幸十、沖山栄吉、近村改蔵ほか、多数の知名人らから「祝発刊」広告が掲載された。

突然の社長交代

有馬純雄氏が創刊直後に過労のため健康を害し、生駒貞彦氏に社長が交代した。

「謹告」1946年6月19日号

「私は今回『北米報知』を創刊致しましたが、単独にて事務、並に編集に当りました結果、健康をそこなひましたので、最初の計画者の一人、生駒貞彦氏に『北米報知』を譲り渡す事に致しました。依って生駒氏が今後発行兼編集人として一切の責任を負って経営される事になりましたので、この段愛読者並に広告主諸彦しょげんに謹告致します。1946年6月16日 有馬純雄」

「謹告 生駒貞彦」1946年6月26日号

「本紙創刊計画者としての責任上、不肖、私が本紙を有馬純雄氏より譲り受け経営せねばならぬことヽなりました。元より新聞経営には無経験な私ですが、千碍万障せんげばんしょうを排して本紙の維持と発展のため全力を尽くす覚悟ですから、皆様も『北米報知』が立派に育って行く様に進んで購読者となり、広告主となって頂きたいと思ふのであります。吹けば飛ぶ様な私が一人で必死の努力を致しましても、皆様からの御同情と御支援がないとすれば結局維持して行かれぬことにならうかと思はれます。倍旧の御援助を希望して止みません」

文献によると、有馬純雄氏はこの後競争紙『西北日報』の編集長となったが、最終的にはジャーナリストの道を捨て、クリーニング業に転じたという。

読者からの反響

『北米報知』1946年6月26日
「暗夜の燈明 岩村清風」

「暗夜の燈明 岩村清風」1946年6月26日号 

「北米西北部に於ては過去約5ヶ年に亘り通信機関を失ひ同胞社会の状勢は何事も知ることも又知らすことも不可能のことヽなって居た。語を変へて云へば丸きり暗黒の夜中が続いて居った訳である。然るに今回『北米報知』と題する週刊新聞が発行せられたるは、あたかも暗夜に燈明とうみょうを発見した様なものである。何人も手の舞ひ足の踏む処を知らずと云って喜ばれることであらうと思はれる」

シアトル在住日系人が『北米報知』の創刊を非常に喜んでいる様子がよく伺える。

 

「北米報知を読んで 〇Δ生*」1946年7月3日号

*ペンネームとして使用されたと思われる

「早く新聞が欲しいと云ふ声は去年の秋から既に叫ばれてゐた。しかし世間一般の事情と違って相当の人口がなくては始められない商売であるから世間が期待する程早く生れる筈はないのである。シアトルの約5倍の人口があったロサンゼルスでさへ新聞が出来たのは今年の正月であった。それを思へば五カ月遅れてシアトルに『北米報知』が生れた事は決して遅いとは云はれない。寧ろ早く出来たものだと云ふべきであらう。(中略)
新聞発行には我々一般読者の知らない苦労がある事は容易に想像出来る。ことに活字がなくて印刷所に頼っての新聞発行だから費用が多い事は素人にも諒解出来る。『北米報知』が此困難と戦ひながら呱々の声を挙げたのはシアトル同胞社会としては大に感謝すべきであると思ふと同時に是を一人前に育て上げる責任があると思ふ。御互いが復興途上にある現在であるからそんなに負担は出来ぬと云ふ者もあるかも知らぬが、一つの社会に無くてはならぬ新聞だから之を援助する事は其社会に属する者の当然負担すべき義務ではないだろうか。(中略)
同胞社会の経済力は尚一世に依存してゐるのは事実である。然しながら現在の同胞社会に於て二世の存在を無視する事実は如何なる場合に於ても其発展性を阻止するものであると思ふ。若し『北米報知』が近い将来に於て英文欄を設けないならば健全な発達が期待し得ないと考へられる。斯んな事は『北米報知』の責任者は百も承知かも知れないが一日も早く英文欄を設けなければその存在の価値が疑はれると思ふ」

この記事を寄稿した読者は戦後の二世の存在を重視していた。英文欄はこの半年後の1947年1月1日号から、最終ページに掲載された。

「北米報知文芸、友が賜ひし『北米報知』野の花」1946年12月18日号

「私ア元来シアトル育ち、ヒョンな羽目から東のはての東西南北アメリカ人の田舎小町にさすらひの、その春秋を送るけど、恋し恋しの育ての町を、あしたと思ひ夕べに偲ぶ、其処で生れた『北米報知』私の友が情けも深く、贈るたまもの嬉しく読んで、夢に見てさへ嬉しいものを、まして親しい知る人々の、現在の有様こまこま知れて、4千里の此方に在って、記事から広告すっかり見ては、生駒社長の努力の跡が見えてうれしいこの新聞が、異郷にさすらふ沿岸人にどんなに慰めあたゝまる冬の夜長の筆のあと」

シアトル日系人は日米戦争により、強制収容せられ、戦後アメリカ東西南北、異郷の地に散在した。懐かしいシアトルを偲んでいたところへ友人が『北米報知』を送ってくれ、記事を読んで非常に喜んでいる様子がありありと伝わってくる。

『北米報知』社内の様子

「あれから帰沙するまで 天浪」1946年10月9日号

「昔を偲びながらワシントン街を下り、六街を左に折れて昔のまねき亭の下に行くと大きな看板が目につく。『北米報知』と書いてある。これが人口5000と称するシアトル同胞の報道機関の姿なのだ。生駒社長が『ヤァ帰って来たナ、すぐアイオツ土産を書け』と云ふ難題。書かねばシアトル人とは認めないと云ふのだから丸で新参者扱ひである。余り威勢がいいから、大分景気が好いらしいねとやったら、『景気の好いのは人様許り、嘘だと思ふならイツでも廃刊して見せる―』と大見得―にも驚き、半ばあきれもした。すると向側のデスクに童顔の岡田義盛氏が『生駒君もよく奉仕してるが何しろ経費で四苦八苦なんだよ』と色々説明して呉れた。承つて見ると、新聞記者も風を喰っては生きて行かれないものだと云ふことを初めて判ったような気がして来たのである」

この記事の執筆者は以前北米時事社で働いたことのある者と推測され(筆者は後述の狩野輝光氏ではないか? と推測)、新しくできた北米報知社を訪問しその仕事ぶりを見て、新聞記者は社会のさまざまな要求から逃げられない立場にあることがよくわかったと言っている。

北米報知社 から読者へ

「編集室より」1946年8月21日号

「もうすこしローカルニュースを載せるようにしたらどうだと注意して下さる方がありますが、私しも出来るだけのローカルニュースを載せたいと心掛けてゐるのです。しかしごらんの通りの貧弱な週刊紙でも何もかも一人でやって行かねばならないことになると仲々さう思ふようには行かないのです。出来上った新聞を見ましても、自分ながら恥かしいやうな気持ちがいたします。こんな新聞でもよく我慢して読んで下さると思へば涙が出るほど嬉しいです。読者の皆様、どうか私しの気持をおくみとり下さいまして我々が是非知って置かねばならぬ様な同胞社会のニュースがありましたらどしどしと提供して下さる様お願ひ致します」

1946年12月25日、この年の最後の第30号発刊にあたり、生駒社長が次のように述べた。

「終刊の辞に代へて 生駒貞彦」 1946年12月25日号

「『北米報知』の創刊を計画したものは私しでありました。そこへ帰沙された有馬純雄氏にお願ひして経営していただくことになってゐたのでしたが、健康上の理由で退かれました結果、再び私しが引き受けて育てゝいかねばならぬことゝなったのでした。有馬氏は『北米報知』は短命だとみてゐられたやうですが、創刊責任者としての私としては、折角生れたものですもの、なんとかして立派に育て上げ行く行くは日刊にまで発展させたい意気込みで、不断の努力を続けてゐるのです」

週三回の発行

「紙面を拡大し週3回発行へ」 1948年5月14日号

「一昨年6月5日帰還同胞諸氏の要望によって生れ、その支援によって発行を続けてきました本紙はシアトル唯一の邦字新聞として常に公平なる立場にあって読者奉仕を念願致して居りましたが、紙面の狭隘きょうあい加ふるに週一回の発行では人口6000をようするシアトル同胞社会の情報機関としては何んとなく物淋しく読者広告主諸氏に対して満足なる奉仕の出来ないことを遺憾に思ひ、去る四月上旬印刷機と活字を購入、自力印刷を計画中のところ諸準備も整ひましたので愈々本週から週3回を発行することになりました」

日刊新聞への発展

「3 月1 日より愈々日刊へ」1949 年2 月7 日号

「3月1日より愈々日刊へ」1949年2月7日号

「『北米報知』は愈々来る3月1日より日刊としてお目見得することゝなりました。実は読者諸氏の御希望もあり1月早々から日刊を発行する筈でありましたが、社内の準備が整はなかったものですから遂に今日まで延び延びになったやうな訳であります。(中略)
一旦決意致しました以上千碍万障を排しても維持していくつもりですから今後共一層の御支援をお願い致します」

戦前、北米時事社の社長だった有馬純義氏が、戦後東京から花園一郎のペンネームを使い、『北米報知』が日刊紙となったことへの祝辞を自身のコラム「日本便り」に掲載した。

「花園一郎、日本便り『北米報知』の成長を祝ふ」1949年3月1日号

「『北米報知』が愈々日刊となる準備ができたと近着の本紙社告に出て居る。今日までの経営上の苦心さこそと察せられる丈けに日刊紙までへの成長、衷心から祝賀に堪へない。同時にこれはシアトル同胞社会の健実なる再建の過程を示す尺度であらうと思ふ。僕はこの事実を先ず同胞社会の為めに喜ばざるを得ない。(中略)
在米日本人はこれからの日米の関係と日本の国際的地位に大きな責任と使命を負はされておるのだ。その同胞社会の旗手たる新聞に求められるところ決して小ではない。『北米報知』がこの使命達成のために日刊紙として飛躍出発せんとすることを僕は心から祝賀するものである」

社員一覧の推移

創刊当時の1947年1月1日号の社員一覧を見ると、本社が生駒社長、岡田義盛氏、荒井ヨネ子氏。スポーケン支社が尾藤生三氏で、タコマ支社は福井周一氏の合計5名の人員だった。

尾藤生三氏は、戦前北米日本人会商工会議所の理事をつとめた人物、福井周一氏は戦前ファイフ日本人会の役員であった。

「北米報知社社員一覧」1949年1月1日号

この年には社員は総勢12名に拡大している。狩野輝光氏は戦前の北米時事社で大戦突入時に最後の編集者として活躍し、北米報知社では後に編集長を務めた。スポーケン支社の丸山貞子氏は1948年5月4日号にスポーケン支社を一身上の都合により退職した尾堂生三氏の推薦で主任の肩書で入社したことが記されている。また、戦前より活躍してきた奥田平治、三原源治、前野邦三、中島梧街、橋口長策等13名の著名な一世諸氏が社友として掲載されている。

「北米報知社社員一覧」1949 年1 月1日号

「北米報知社社員一覧」1950年1月1日号

「北米報知社社員一覧」1950 年1 月1 日号

本社勤務が8人から11人に拡大している。又東京通信員、福岡通信員、京都通信員が新たにおかれている。東京通信員の伊藤一男氏は1969年に出版された『北米百年桜』の著者として大変著名な人物である。

以上の社員一覧の推移をまとめると以下の表の通りとなる。

北米報知社社員一覧(筆者作成)

地方通信員の意見

「邦字新聞通信員の苦衷くちゅうアイダホ 椿歳生」1949年1月10日号

「地方通信員として苦しいのは、書く記事は実に無味乾燥のもので、執筆者としての感興を伴ふものではない。シカシ記事其ものは重要性を帯びて居り、造を三に、太郎を次郎に誤っても対者の感情を害したり、通信価値を低減される。通信記事の誤謬ごびゅうを指摘したり、遅速を云々する人はあるが、記事を提供して呉れる人は地方では滅多に無い。往々にして、私憤を紙上で晴らして呉れいといふ人もある。それを謝絶すると無能記者として排斥される。
(中略)更に苦しいのは社の希望で広告や名刺交換に出掛けるとズイブン小馬鹿にした言葉をあびせかける人もある。かといってそんな人を訪問せぬと更に御機嫌が悪い。通信員とてこれを専業として生活してゐるのではなく、地方の人々へ多少の奉仕心でやってゐるので、落度や抜かりがあるのが当然と自分勝手に極めて居る故に地方の人は真に彼こそ地方の公僕であると見做して、寄って、たかって盛り立てゝ頂きたい」

この記事の執筆者は社員一覧から愛央アイダホ通信員の貴戸久蔵氏と推測される。地方通信員の大変さがよくわかる投稿だが、何とか地方に住む多くの読者のために記事を書こうという強い意欲を感じる。

購読料の変遷

創刊当初は読者へ北米時事社から経営の苦しさを訴え、購読料の送金依頼をした記事が頻繁に掲載された。前金切れとなる購読者が多くいたようだ。購読料金の変遷は以下の表の通りとなる。

『北米報知』購読料金(筆者作成)

『北米報知』は当初は週刊紙として創刊され、経営は困難を極めていたが、その困難を乗り越え、僅か3年後には日刊紙として発展し、シアトル日系人になくてはならぬ重要な情報源となった。生駒社長以下全社員の粘り強い努力に驚嘆する。

次回は日系人ビジネスの再興についての記事を紹介したい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

① 伊藤一男『アメリカ春秋八十年』PMC出版社、1982年
② 有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年
③『北米報知』創刊百周年記念号、2002年秋

 

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。