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第5回 領事館の開設 〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第5回 領事館の開設 

前回はシアトル日系人会の創立についてお伝えしたが、今回は領事館の開設についての記事を紹介したい。


1901年にシアトルに領事館が開設され、大戦開始の1941年12月まで存続した。領事館はシアトル在留日系人にとって日本との繋がりを持つ極めて重要な機関だった。大戦後は領事館のないままの状態が続いたため、再構を求める声が多発していた。1949、50年頃の日本はアメリカの占領下にあり、対日講和条約締結前だったため、領事館復活に先立ち、在外事務所の開設を目指した。

領事館の開設計画

「領事館の開設」1949年8月24日号

「国務省スポークスマン、ホワイト氏の発表する処によれば、マッカーサー元帥の許可があり次第各国と暫定的に外交及び通商関係を復活するが、その第一手段として戦争による疑念、憎悪を一掃するため領事館の開設を見るであらうと。右につき日本からの情報によれば、領事館が開設されるに至るまでには一ヶ年以上の時日を要するであろうという」

「領事問題未定」1949年8月27日号

「総司令部外交局長ウイリアム・シーボルト氏は日本の領事関係官の海外派遣についてはまだ決定的な計画も派遣の目的もきまってないと次のように語った。
『この問題はまだ検討の余地があるので、領事館関係官の海外派遣計画や日時はまだ決定してゐない。しかし領事館の再開は日本と外国の通商関係を促ならしめるほか、現在領事館がないため出生、死亡、結婚などで届けをできずにいる海外在留日本人を助けることにならう』

「ニューヨーク、サンフランシスコ等8カ所の領事館年内に再開か、シアトルもその一つに入る」1949年8月29日号

「非公式筋の29日報道によれば、日本外務省は米国内八カ所の領事館再開の計画を進めており、年内中に実現せんものと希望してゐると。この領事館再開の優先権を与えられている順序は、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、シカゴ、ニューオリンズ、デンパ―、シアトル、ホノルルでこれは去る8月18日米国務省が日本と外国との外交的関係および通商関係を結ぶことを許可されるだろうと発表されて以来、実現の方向を辿っていたもので、これに関する正式声明は日本が正式に降伏調印した4周年記念日の 9月2日マッカーサー元帥によって行われるものとみられてゐる」

『北米報知』 1949年8月29日号「ニューヨーク、サンフランシスコ等8カ所の領事館年内に再開か」

「領事館の開設、明春までに実現か」1949年9月17日号

「本日東京よりの報道によれば日本は近くシアトル市を含む各国の都市に領事館を設置するであらうと、右につき東京駐在米国副領事ドーグラス・オーバートン氏の談によれば、日本領事館設置及び貿易官の派遣の計画は着々とその準備が進んでいるから明春までには実現するであらうと」

「領事派遣準備進む」 1949年9月24日号 

「来春までに日本領事館の海外設置が許可される見込が強いと伝えられているが、当地の消息筋はさし当りニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスの三カ所だけに領事事務所を許可されるものとみて、既に通産省と外務省が協議の上 一か所3名、合計9名を派遣することを予定、内々に人選をすすめている。派遣員は一か所に所長1名(1級官)領事事務官、通商事務官(各2級官)をおく。将来は各所に現地採用の3名づつ計9名の補佐官をおく」

米国4市に海外代表部開設

「米国4市に海外代表部、貿易促進と邦人の財産保護」1950年2月15日号

「占領下にありながらも米国に四つの海外代表部が許可されたことは日本の国際舞台に登場する第一歩の措置とみられるところに重要な意義が見いだされ、政府は早ければ3月中旬にも政府代表を派遣するといっている。米国内における代表部の開設は昨年6月6日に米国務省から発表され、同8日国務省から極東委員会に提案され、その後引き続き審議を続けられていたが、ソ連の拒否にあって停滞していたとも伝えられ、これがため実現の時機が遅れたのである。そこで米国としては急速に解決の必要に迫られ、マッカーサー元帥のこの措置がとられたようだ。四カ所の代表部は原則として代表一名、補佐官二名、書記若干がおかれることになる。外務省では派遣人材予算などの関係から出来るだけ出先機構を商業化し比較的通商関係の薄いホノルル、ロサンゼルスなどには補助官を領事事務を担当する者一名は留めたい意向で、庶務的な書記等はなるべく米国内に在住する二世を使用したいと言い、また特に代表部書記として初の婦人外交官を考慮しているようだ。(中略)
領事事務としては北米在外同胞12万の戸籍事務が処理され、死亡、出生届けなども潤沢に解決されるものとみられる。(中略)
ロサンゼルス、サンフランシスコ、ホノルルでは邦人や日系人がとくに多い点から日本人の市民権、財産権問題事務のほか、海外代理店の活動保護、雑貨などの輸出増大などに力点がおかれよう」

「海外代表事務所要員」1950年2月17日号

「晴れの海外代表事務所員について吉田首相、太田外務次官の手元で人選を急いでいるが、最も有力な候補として、6氏があがっているが、その内から4氏が選ばれる模様。(中略)
書記の候補に女性2名があげられている」

「遣米海外事務所長決まる」1950年2月21日号

「ニューヨークはじめ、四カ所に在外事務所の設置が総司令部から許可されたので、日本政府は所長の人選をすゝめていたところ、次のように決定、総司令官部に手渡した。ニューヨーク事務所、寺田洪平大使館参事官、サンフランシスコ事務所、宇山厚外務省経済課長、ロサンゼルス事務所、日向精蔵通産省市場課長、ホノルル事務所、鈴木耕一賠償特殊財産部総務課長、尚ニューヨーク、サンフランシスコ事務所は所長以下3名、ロサンゼルス、ホノルル事務所は所長以下2名でその他4名の所員を現地採用する」

シアトル海外事務所の開設

『北米報知』1950 年3 月6日号「海外事務所シアトルにも開設」

シアトルに待望の日本在外事務所が開設される記事が掲載された。

「海外事務所シアトルにも開設」1950年3月6日号

「本日外務省はシアトル市にも海外事務所を開設すると発表した。海外事務所は貿易の促進と国籍及び財産に対する業務を遂行するが、職員は『日本海外代表』として任命されるもので、外交官或は領事の資格をもたず、又アメリカが通常外国の外交官又は領事に与えられている特権は認められていない。(中略)
シアトル市に海外事務所が開設されるについては、マグナソン上院議員、シアトル商工会議所及び日系人会の猛運動があったことによるのは言うまでもない」

「在外事務所長決まる」1950年3月21日号

「シアトルにおく在外事務所の人選もちかく発表するが、所長にはト部うらべ 敏男氏(外務省)に決定した模様である」

シアトル在外事務所長一行横浜出帆

「シアトル在外事務所長一行30日軍用船で横浜出帆」1950年4月28日号 

「シアトル在外事務所長のト部敏男氏は30日横浜出帆予定であるが、記者は外務省を訪ねて所長就任の抱負を聞いてみた。
『抱負?といってもさあ、何から申上げていいかな』ダークブラウンの紺の春物に日本人として大柄な体をしたシアトル在外事務所一行はこういって椅子をすすめる。ひっきりなしにかかってくる電話と訪問客に落ち着いて話のできないほどのいそがしさだ。『卜部さんお客さんです』やってきたのはシアトル市某社のルイ・ポーター氏、卜部氏のシアトル就任を聞いて挨拶にきたものである。レニア山の美しきシアトルの様子など、あれやこれやと語るポーター氏に、たくみな英語で答える初代所長はさすが外交官らしい多才な人で『ほゝうあなたの奥さんは東京生まれ』といった調子である。1911年北海道に生まれた卜部氏は岩見沢中学校から第一高等学校、東京大学と秀才コースを進み、外務省に入ったのは1938年、ロンドンの日本大使館に4年勤務後に外務省に戻ったが、戦後北海道で務めて再び外務省に帰って法務課長となり、今回シアトル在外事務所長の席につくことになった。『いづれまた、シアトルで』と、にこやかに笑ってポーター氏と握手をかわした。卜部氏は『忙しくてネ、シアトルの邦人関係のある人々がたづねてこられますが、いそがしくてろくにお話もできません』とはいうものゝ渡米の喜びをメガネの奥にためて抱負を語りはじめる。
『在外事務所は貿易の振興とあわせて在外邦人の国籍、その手続きをする仕事をもっていますが、戦後の再建に欠くことのできない貿易は従来手続きの詳細をはっきりつかめないため、いわゆる盲貿易に陥っていた。私どもは在外事務所を通じ、貿易を促進、日米親善と祖国の再建に資したいことをまづ念願しています。北米在留同胞諸氏の御協力と御援助を切望しております。なにしろアメリカははじめてなものですから全くの不案内です。北米報知社を通じて宜しく申し上げてください』
卜部氏の自宅、東京都世田谷区松原町へ電話すると晴子夫人(29歳)があらわれ、美しい声で『なにせあちらの状況がよくわかりませんので、主人と一緒にまいりません。主人があちら(シアトル市)へ赴任してからコドモを連れて渡米いたします』と語った。初代所長夫妻の間には三歳、二歳、一歳の三児がある」

『北米報知』1950年5月16日号「ト部所長一行明朝6時タコマ到着」

「ト部所長一行明朝6時タコマ到着」1950年5月16日号

「去る1日横浜出帆の貨物船マグノリア・ステート号で渡米の途に上ったシアトル在外事務所長ト部敏男氏外2名の所員は明朝6時タコマに到着するが、シアトル市より市長代理デンウオード氏、商議よりノークエスト、ストリー、レビー3氏、日会より三原、沖山両氏が出迎えるはず。一行はオリンピック・ホテルに一時投宿する」

文献によると三原氏は卜部所長一行を出迎えた時に、「一行がシアトルから日本に送った中古スーツを着た姿に、これが日本の代表かと情けなく思うとともに、母国の荒廃が偲ばれて涙ぐんだ」と記載されている。この当時の日本は、焼け野原からやっと立ち上がろうと懸命に復興を計る途上にあったようだ。

「重要な任務を双肩にト部所長一行到着」1950年5月18日号

今朝10時シアトル市に到着した卜部市長一行は直ちにデビン市長、シアトル市商工会議所を訪問後オリンピック・ホテルに宿泊したが、記者に次の如く語った。『私共はアメリカ政府が示された厚意に対し非常に感謝しています。しかし私達はいつまでも他から援助を仰がないで自給自足でやっていけるようにならなければならぬと思ひます。日本はいまもとどおり財政を豊かにするために生糸に多大の期待をかけていますが、特に金属類、機械類、漆器類、それに竹細工などの販路開拓につとめています。日本では日本人に必要な米国品の輸入を渇望かつぼう していますが、それは望みばかり大きくて実がないという仕末です』尚在外事務所は貿易事務の他、ワシントン、オレゴン、アラスカ地方に在留する15000の邦人関係事務をも取扱うもので、米国政府の後援の下に設置されたものである。因にシアトル在外事務所員は卜部敏男所長の外、林和彦、吉田菊男両氏であるが、近くスミスタワーに事務所が開設される模様でゆくゆくはシアトル日系人から二名を事務員として採用することにならうと」

シアトル在外事務所開設の準備

『北米報知』1950 年5月20日号「在外事務所はセントラルビル」

「在外事務所はセントラルビル」 1950年5月20日号

「ト部所長は米国務省代表者ギル氏、シアトル商議ストリー氏、日系人会側より三原、沖山正副両会長と協議しスミス・ビルに内定していたところ一昨日日本外務省より『在外事務所は貿易商品陳列所を併せて開設することになるから広い場所を必要とし、かつ米人方面との接触に便宜なる場所』という指令が来たので、ギル、ストリー両氏もセントラルビルを選定し、ここに本決まりとなった。事務所は同ビルの2階に1500平方フィートを占めることになり直ちに開設準備に着手した」

「ト部所長一行各関係方面を礼訪」1950年5月23日号

「在外事務所々長卜部敏男氏ら一行は昨22日午後日会の三原、湊両氏の案内にてキャピタル・ヒル墓地に行き、二世戦没者記念

『北米報知』1950 年5月25日号「ト部所長一行歓迎会」

碑に黙祷を捧げ、ワシントン大学を参観、運河を一巡したが、後刻、税関にマックゴーアン氏、移民局にボイト氏を正式訪問した。尚一行は本朝9時、埠頭の外国貿易ゾーンを視察したが、後刻、ベル街の港湾局にファーレー局長を訪問、正午にはシアトル商業銀行主催の午宴会に列席した」

「ト部所長一行歓迎会 」
1950年5月25日号

卜部所長は日系人会主催の歓迎会で次のような挨拶を行った。
「今回三原会長のお言葉によりますと私は賢そうな男のようですが、実はボンヤリした男で果してこの責務を全うすることができるかどうか不安であります。事務所の仕事は貿易の促進、邦人関係の仕事、日本文化の紹介などでありますが米政府と交渉のようなものは禁じられています。日本は今米国の援助を受けていますが、自給自足でやっていけるようになるには貿易の振興をはからねばなりません。特にこの様な仕事はスタートが大切だと思ひますので、皆様の御支援と御援助によって成功させたいと思ひます」

シアトル在外事務所の開館

『北米報知』1950 6 2 日号「公示 在シアトル日本政府在外事務所」

「在外事務所6月12日より
開館」1950年6月1日号

シアトル日本政府在外事務所左記事務所長卜部所長らは着任以来事務所開設その他で多忙を極めていたが愈々事務所をシアトル市三番街セントラルビル二階第260号室に置くことになり、6月12日より正式に開館、ワシントン、オレゴン、アイダホ、ワイオミング及びランタナの各州及びアラスカ・テリトリーに於ける左記の事務を取り扱うことゝなった。
一、 貿易に関する斡旋並びに貿易に関する情報の提供及び種々の受付
二、 日本旅行に関する情報の提供及び照介の受付
三、 出生、死亡、婚姻その他日本の戸籍上の身分変更又は名称の変更の通知に関する事務
四、 国籍の留保、離脱に関する事務
五、 邦人の遺産の保護、管理に関する事務(但し米国の州法に抵触しない範囲に於ける保護管理)

以上の内容は6月2日号に「公示」として掲載された。

「在外事務所のオープンハウス大成功」1950年6月16日号

「昨15日午後3時半からオープンハウスを行い日系人側のみならず米人方面多数を招致し、盛大をきわめた。事務所には日系人側の飾った生花三つのほかに、シアトル港湾局、船会社、商社方面から祝意を表して贈られた花かご十数個もかざられていた。卜部所長はじめ、林、吉田両所員および春原、平林両雇員もゴッタがえす訪客の対応に忙しく応援に出動した日本着姿の二世嬢6名が三原源治氏の指揮に日本の香り高い緑茶やもなか、センベイなどを接待していた。この日の訪客は約300名といわれ事務所開設早々からヒットをとばした格恰である」

「戸籍、国籍関係届けなどシアトル在外事務所取扱う」1950年7月20日号

「シアトル在外事務所は去る6月12日から正式に在留民関係の事務を開始、一般日本人の諸届出あるいは証明書発給に応じているが今日までの届出では死亡届けが多く、出生届けのないのは戦後在米同胞がアメリカにしっかり腰を落ち着けたという様相の現れであらうが、死亡届けの多いのは戦争勃発以来9ヶ年間行われずにいたゝめ、この間死亡したはずの在米日本人は戸籍面では生きていることになっているのであるから、当市に在外事務所の開設を機会に今後この様な手続をとるものは相当多いだろうとみられている」

在外事務所設置へのコメント

シアトル日系人会顧問の奥田平次氏は、シアトル在外事務所の開設のために所長以下一行が到着した記念日を、煙草を辞めるきっかけにした、という内容の記事を自ら執筆している。

奥田遍理 「煙草と吾輩」1950年6月19日号

「5月17日は敗戦日本が独立の第一歩としてシアトルに貿易事務所開設するために、ト部所長一行が到着された日、吾輩としてはこれ位意義ある記念日はない。一つ今日は何かやるべしとばかり其の日より禁煙をやりだしたのである。今日で正に一ケ月、先ず順調に目的を遂行しつゝある」

所長夫人の渡米

『北米報知』1950 年10月26日号「卜部所長夫人ら21日ク号で渡米」

「卜部所長夫人ら21日ク号で渡米」1950年10月26日号

「21日横浜出帆のクリーブランド号でシアトル在外事務所長卜部敏男氏夫人晴子さん、同所員林和彦氏夫人綾子さん、サンフランシスコ事務所長宇山厚氏夫人いずえさん、同所員西堀正弘氏夫人千恵子さんの四家族12名が渡米した。卜部所長夫人は『シアトルで主人の都合がつき次第渡米する』といっていたものである」

11月2、3日号によると卜部所長夫人一行は11月2日朝にサンフランシスコに到着し、3日早朝列車にてシアトル到着、三原源治氏等が出迎えた。

文献によると、1951年9月に対日講和条約・日米安全保障条約が調印され、同条約が1952年4月28日に発行された後、シアトル日本在外事務所はシアトル領事館となった。シアトル領事館はシアトルと日本を繋ぐ重要機関として大きな役割を果たしていった。

次回はシアトル日系人の故国難民救済活動の記事についてお伝えしたい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年
② 伊藤一男『アメリカ春秋八十年―シアトル日系人会創立三十周年記念誌―』PMC出版社、1982年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。