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第3回 日系人コミュニティ組織の結成 【後編】〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第3回 日系人コミュニティ組織の結成  【 後編 】

前編に続き、今回は、シアトルに帰還した日系人によるコミュニティ組織結成についての後編をお伝えする。

ジャクソン街委員会(前編サブカテゴリーから続き)

『北米報知』1948年9月29日「ジャクソン区域委員会が慈善資金募集開始」

慈善資金募集活動

戦前の日本人会が行ったコミュニティチェストを引き継ぐ形で存続した、日系人の慈善資金募集活動についての記事を紹介する。

「ジャクソン区域委員会が慈善資金募集開始」1948年9月29日号

「本年度コミュニティ資金募集予定額は173万7千ドル、募集総委員長は日系人と密接の関係があった元アメリカンレジョン理事長現ビュゼットサウンド電気会社副社長ビル・ウイリアム氏で募集は来る30日午後6時半シアトル商議に於けるキックオフに始まり10月18日に完了の予定である。ジャクソン街を中心とする区域は第二街以西南、二十街以東、エスラー以南、チャレス以北、ブッシュ街以北で日系人始め支那人、白人、黒人等が各種の営業に従事又は居住して居る当地の予定額は2650ドル、募集委員長は元ミネドカ転住所副所長、現在ワシントンジュニア高校校長アール・エー・バメロイ氏

「慈善資金募集額164万5千ドル、予定額の95%」1949年1月5日号

「昨年度コミュニティ資金募集予定額は173万7千ドルで数千の募集員によって一斉に募集が開始されたものであるが、去る28日募集委員長ビル・ウイリアム氏が発表する処によれば、募集した慈善資金の総額は164万5千ドルで予定額の95%に相当する好成績を挙げたが、これは偏に市民の協力と募集員の努力によるものである点を強調、更に募集は本年も継続すると言明した。尚ジャクソン区域方面委員会の予定募集額は予定額2650ドルを突破して3000余ドルを募集、ウイリアム総委員長より赤羽章を贈与された」

「慈善資金募集好成績」1949年10月6日号

「毎年行はれる市の慈善資金募集ではいつも好成績をあげて白人社会から賞讃の的となっているジャクソン区域委員の日本人部では原誠一委員長以下各委員の努力により本年も又予定額に到達するという好成績を挙げ区域委員会の募集総委員長アダムス氏を感激させている。今朝10時原誠一氏よりの報告による日本人応募金額は969ドルであるが、未報告の分もあるとのことなれば、日本人間への割当額1050ドルに到達するのも近い内であらうといはれている」

『北米報知』1949年10月6日号 「慈善資金募集好成績」
左から原誠一氏、ルーク氏、アダムス氏

「予定額を突破」1949年10月20日号

「ジャクソン区域委員会の慈善資金募集は去る17日迄に5387ドルで86%に達してゐるが21日迄には予定額に達するであらうといはれてゐる。いつも予定額突破の好成績をあげてゐるという日本人部では本年も原誠一氏以下委員の努力によってまたも予定額突破の好成績をあげたというので、原誠一氏は去る17日シアトル商議で開催された報告会に於て『オッカー賞』を授与された」

1948、49年共、ジャクソン区域、特に日系人の慈善資金募集達成率は非常に高く、日系人以外のコミュニティから絶賛された。(以下画像表1参照)

ホテル・アパート組合

『北米報知』1948年12月8日号「日本人ホテル組合、レント統制解除運動の資金募集に白人と協調」

日系人の事業活動として戦後最も繁栄したのがホテル業だった。日系人ホテル業者が結束したホテル・アパート組合についての記事を紹介したい。

「日本人ホテル組合、レント統制解除運動の資金募集に白人と協調」1948年12月8日号

「アパートメント経営者組合(白人)から日本人ホテル・アパート組合に対し来る81議会にレント(賃料)統制解除運動に要する資金募集に付き協調を申込んで来た。問題は去る10月29日開催の組合秋季懇談会の節、幹部一任となって居たので組合では二期に亘る幹部会、三回の白人組合幹部との会見及び12月6日、日本人側アパート及びルーミング経営者のマスミーティングを行った」

「ホテル組合総会」1949年1月21日号

「去る19日玉壺軒でホテル・アパート組合の総会が開かれ出席者50名、49年度予算及び重要問題につき討議され、役員の改選が行はれ次の諸氏が当選された。組合長:近村改蔵、 副(ホテル側)松田篤太郎、副:(アパート側)窪田竹光、会計:柴山亀吉、専務理事:原誠一、理事:堀 隆、議長:藤井義人、副議長:岡田義登、顧問:沖山栄吉、顧問:早野時寛」

*近村改蔵氏は戦前山口県人会会長を務めた人物。
*筆者旧連載「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」第16回「県人会による日本人の結束」参照

「ホテル組合の相談会」1949年6月23日号

「来る6月27日仏教会館に於てホテル組合主催の下に目下統制下にあるアパート、ルーミングハウス、及び貸家を持つ家主の集合を催し、白人アパート組合並にパイオニアグループと歩調を共にして、シアトルエリアのレントコントロール解除請願書を市会に提出する相談をする筈である。当夜はアパート組合から組合長、理事も出席の予定であるから関係者の出席を希望して居る」

「レント統制解除運動 資金募集も好成績」1949年8月19日号

「シアトルフェアーレントコムミッテーは目下市会に市内レント統制解除運動中で之に要する資金を募集しつゝある。日本人ホテル・アパート組合では此運動に共同援助しつゝある。昨日の募集報告会に於て、原専務より報告した高は783ドルで今尚続々資金が集りつゝあるのみならず、直接委員会に納付済みのものもあり締切までには相当額に達すると思はれる。(中略)シアトル市に於て仮に此運動が成功しても1950年7月31日迄は現在の家賃又は室料の一割又は一ユニットに付き5ドル(何れか少額の方)以上の値上げをせぬと云ふ条件付きである。現行統制法は来年6月末日に失効するが、更に統制を継続するや否やは議会が之を決定する。ホテルは1947年6月解除になって居るので室料には変更なく、ただ アパート及び貸家にのみ適用される」

1950年6月22日号によると、このレント統制法は、6月21日米国上下両院審議会で合同協議の結果、1951年6月30日までは各地方の任意によって延長されることが決定された。

「レント値上げ 愈々25日から」1950年9月13、22日号

「ワシントン州キング郡レント試問委員会は9月12日15%の値上げを勧告した。(中略)1947年6月30日以後レントの値上げをして居ないアパートには15%或は値上をして居ても15%に満たない場合は其差額の値上げを9月25日から出来る」

以上の記事によると、シアトル市ではレント統制法は1951年6月30日迄延長となったが、一定額の値上げができるようになった。たとえば賃料月額100ドルのアパートの場合、1950年7月31日迄は105ドル、同年9月25日以後115ドルに値上げが可能となった。(以下画像表2参照)

国際カーニバルへの参加

1950年8月10日号によると、シアトルの*「海の祭り」に合流した南部区域の国際カーニバルに、日系人は積極的に参加した。
*現在も続く夏の祭典「シー・フェア」のこと。

「ドッと出た人波10万 国際カーニバル大盛況」1950年8月15、18日号

「三日間にわたる国際カーニバルは昨夕のパレードをもって華々しくその幕を切って落とした。(中略)日系人側からこのパレードに参加したのは二世女王の筒本メイ嬢をクイーンとする一行が市民協会会長高木ハリー君の提供するジープカーに乗っていた。また仏教会附属ボーイスカウト252隊や、仏教会日曜学校幼稚園部も参加し沿道のカッサイを浴びていた。(中略)日系人側は服部フランク君が司会し、糸井ミュー夫人の『蝶々夫人の独唱』、初音会の『古鼓』が演出されたが日本独特の衣装をこらした踊子十数名には拍手の渦がまき起った」

『北米報知』1950 年8 月15日「ドッと出た人波10 万 国際カーニバル大盛況」二世女王の筒本メイ嬢

1950年8月12号によると、筒本メイ嬢は、本連載第2回の薬店開業で紹介したステート薬品主筒本信一氏の長女で、国際カーニバルの二世女王に選ばれた。

日系人は多くのコミュニティ組織を作り結束を強めることで、白人社会とも協調を深めるべく、国際カーニバル等へも積極参加していたことが記事から鮮明に伺える。

次回はコミュニティ組織の要となるシアトル日系人会創立の記事についてお伝えしたい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①伊藤一男『アメリカ春秋八十年―シアトル日系人会創立三十周年記念誌―』PMC出版社、1982年
②『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。