Home 日系移民の歴史 初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史 第8回 帰化権獲得問題...

第8回 帰化権獲得問題 〜初期『北米報知』から見る シアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第8回  帰化権獲得問題 

前回は立退損害賠償問題についてお伝えしたが、今回は日系人にとって立退損害賠償問題と同様に最重要事項である、帰化権獲得問題についてお伝えしたい。


帰化権獲得の重要性

『北米報知』1947年2月12日号           「日系外人に帰化権を与えよ、マイヤー氏の最後報告」

戦前アメリカへ移民した一世は帰化権のないままアメリカに居住した。次の記事は一世(記事内では「日系外人」と記載)の一刻も早い帰化権の獲得を訴えている。

「日系外人に帰化権を与へよ、マイヤー氏の最後報告」1947年2月12日号

「『日系人に帰化権を与へよ』と元戦時転住局長最後報告を内務長官クラッグ氏に提出した。右報告は直ちに全米通信網によって発表せられ、本朝の全米諸新聞に掲載されてゐる。戦時中日系人11万人を収容、管理の任にあたったマイヤー氏はクラッグ内務長官に提出した再転住局閉鎖最後報告に於て、同氏は日系外人の帰化権問題について左の如き意見を述べてゐる。『在米日系外人約4万人の大部分は在米25年以上の記録を有し、彼等は帰化権を熱望してゐる。之等日系人の挙動は、我々に安全なる保証を与へてゐる今日、帰化権の付与は立退き賠償の一部として当然行はれるべきもので、米国の市民権は何れの人種を問はず付与さるべきものである』と言ってゐる」

「時の問題 市民権獲得問題」1947年6月18日号

「これは現行帰化及移民法より人種及国籍といふ字句を削除し、且つ又他の外国人と同等なる立場に於て他の外国人が享有するすべての恩恵にあづかるといふにあって、これが一度議会を通過した暁に於ては、帰化不能外人といふ烙印が日系人から除去され、西部沿岸12州にある外人土地法は無効となり日系人は他人種と同様に土地の売買及び譲渡、農業又は商用のためにリースすることが出来るやうになり、且つ米国の如何なる地に於ても自己の好む職業に従事することが出来ると同時に営業鑑札かんさつ 下附問題についても何等のトラブルも発生しないことになるのである」

帰化権獲得問題の歴史

日系人会顧問の奥田平次氏が、ペンネームの奥田遍理へんり を使い帰化権獲得問題の歴史について次のように述べた。

「帰化法、奥田遍理」 1947年7月9日号

1879年に制定された帰化法によれば、米国の市民権を得るものは、白人に限ることになって居たが、南北戦争の結果、黒人奴隷が解放されたので、アフリカ人『黒人』にも帰化することを許した。東洋人(黄色人)に帰化権を与へることの可否は明瞭ではなかったので、其間に在留日本人で第一証を受けたものもあり、市民権を与へられたものや、各地法廷判事の解釈で市民として地方の選挙にたづさわったものもある。1906年サンフランシスコで学童問題が起った時に、司法省は日本人に市民権を与へることを止めたとの布令を発したので、其後は第一証すら受けたものもなかった。併し司法省で拒絶されただけで大審院の判決があった訳でないから、在留民としては将来の発展の為めにこの問題を解決する要ありと考えて居ったが1917年夏ロサンゼルスで開催された沿岸日本人会協議会で此の問題が挙げられ協議の末、大審院まで持出し判定を受けることに決議され山岡音高氏が委員長に選ばれた。(中略)
1921年末に大審院は審理の結果白人又は黒人でない日本人は帰化する権利が無いと判決を下した。故人山岡音高氏は松見大八君と協力して殆ど四ヶ年余の歳月努力したが、時利あらず不成功に終った。併し現今では周囲の事情が当時と異なり総てが有利に発展して居り、帰化権獲得に努力してゐる人物はマイク正岡であることは適材適所に得たわけである。(中略)
遅ればせながら正岡を後援して何処までも有終の美を挙げさせることに協力したいものである。言ふまでもなく帰化権獲得は我々一世の為のみならず将来日本より来らんとする同胞の誰もが同じ権利を得る途を開くことゝなることを見逃してはならぬ」

帰化権獲得期成同志会帰化権獲得期成同志会きかけんかくとくきせいどうしかいの結成

「帰化権獲得期成同志会」 1947年7月2日号

「 予ねてより西北部帰化権獲得期成のため後援会組織の必要を感じてゐたが、遂に機熟し、去る6月25日仏教会社交室に於ける同胞有志の会合にて帰化権獲得期成同志会なる名称の下に運動資金を募集する事に決定、委員長として奥田平次氏が挙げられた」

「期成同志委員会 資金募集に着手」1947年7月16日号

『北米報知』1947年7月16日号「期成同志委員会 資金募集に着手」

「予ねて西北部に於ても帰化権獲得期成のため後援会組織の必要を感ぜられてゐたが、機熟し去る6月25日仏教会社交室にて、左の諸氏集合して組織することに確定、直ちに運動資金を募集することゝなれり。尚当夜の出席者は奥田、三原、沖山、山口、民部、川部、湊小市、藤井義人、窪田、木野本、志賀、小野寺、細川、湊ジョージの諸氏、決議事項
一、名称は帰化権獲得期成同志会とする事
二、委員長一名、会計二名選び、幹事は委員交代にて其の衛に当る事
三、事務所は当分の間メーン街518東郷リアルテー会社内に置く事
以上であるが、席上出席委員によって奥田平次氏を委員長に推薦し、会計は互選で木野本豊、川部惣太郎両氏が挙げられ、幹事は当分の間、細川、藤井(義)両氏が当ることゝなった」

帰化権獲得期成同志会の運動資金募集委員長になった奥田平次氏は、ペンネームの奥田遍理を使い次のように述べた。

「在留同胞の協力を望む、運動資金募集委員長 奥田遍理」1947年7月2日号

『北米報知』1947年7月2日号「在留同胞の協力を望む、運動資金募集委員長 奥田遍理」

「委員会で帰化権獲得等の運動資金募集委員長に祭りあげられた。本来米国議会で一つの議案を通過又は否決させるには並大抵のことでない。(中略)
永年『帰化不能外人』と銘を打たれ虐待されて来た我々日本人は、第二次大戦に当って二世兵士の偉大なる犠牲と在留者の忠誠表示により帰化権を付与せんと言ふ法案が今次議会に提出されたのであるが、是には不賛成者もあって法律となるまでには仲々の難航路である。成功さす為めには運動者が必要であるが、数十人の代りにマイク正岡唯だ独り奮闘して居る。所謂孤軍奮闘である、加之しかのみならず資金の不足を叫んでゐる。個人として帰化権を希望するとせないとに拘はらず、民族発展のため『帰化不能』の汚名を打ち消す為めには随分の助力をすべきものであると信ずるのである。僕が委員長の重責を引受けたのも此の誠心に外ならぬ」

「上院議員マグナソン氏より奥田氏へ電報」1948年6月7日号

「帰化権獲得法案と立退損害賠償法案は今議会に上程されることとなってゐるが、西北部帰化権獲得期成同志会委員長奥田平次氏は去る5月22日ワシントン州選出上院議員マグナソン・ケーン両氏に対し該案の通過に尽力せられたき旨の書状に多数の署名を得、正岡氏を通じて送達せしところ6月1日付を以て上議マグナソン氏より左の如き電報が奥田氏の許へ届いた。
『正岡氏よりもらった5月22日付の書簡、正に拝見候。御承知の如く小生はHR3999には好意を持つものに御座い候へば、本議会に於て全力を尽して法案の通過を計る考へにて遅くとも本週中には好結果をお知らせする確信有之候。右署名者へ御伝達を乞ふ。 ワーレン・マグナソン 奥田平次殿』

HR3999とは、前回お伝えした立退損害賠償法案と今回の帰化権獲得法案のことである。

帰化権獲得支持の意見

「日系人の忠誠は試験ずみの筈だ」1948年5月7日号

「戦時中司法省敵国外人統制部長で現在帰化平等委員会々長のエニス氏は在米日系外人の総計を紹介し、該案に依って恩恵を受ける四分ノ三の日系人は30年来米国に住居し、其半数は40年以上米国に永住して居る。日系人の出生率は一般人口に比して低く、彼等は一般に教育あり。犯罪率は多人種より遥に少ない。日系人に就いて最も大切な事は、彼等の戦時中の行動である。立退は彼らを隔離する事に依って試す過酷な忠誠の試験であった。立退が必要であったかが問題でなく、それより重大な事は隔離された彼等の反動であった。中には少数の人々の間違もあったが、大多数は絶対的忠誠を示した。軍部の立退命令に従応する彼等の協力は実に感嘆に値するもので、他に斯様な民衆があるかと思はれる程特別なものであったと証言した」

『北米報知』1948年9月10日号「一世に帰化権を与えよ。日系復員兵の努力でカリフォルニア州郷軍が支持決議」

「一世に帰化権を与えよ。日系復員兵の努力でカリフォルニア州郷軍が支持決議 」 1948年9月10日号

「アメリカン・リージョンカリフォルニア州支部第13回年会は去る2日よりサンフランシスコに於て開催せられ、4日間の最終日、二世復員兵によって組織せられたサンフランシスコタウンセンド・ハリス小隊43人の動議に基づき、米国に永年居住する日本人一世に帰化権の付与を促進する決議を行った。
『アメリカン・リージョンは、合衆国の安全保障に最高の関心を払ひ、合法的に米国居住権を許容せられたる人々に資格獲得と同時に米国化と帰化を奨励してきた。かるが故に、今次の大戦に於て欧州の戦線に偉勲を樹てた442部隊、太平洋戦線に於ては陸軍情報部に勤務して米兵の犠牲を少くし、且つ又日米戦の短縮に貢献した日系兵3万3千人の両親に帰化を許容すべく現行移民法を改正すべきである。ここに於てアメリカン・リージョンカリフォルニア州支部は、公正なる米国主義に則り日本人に帰化権を付与することに賛意を表し、併せてアメリカン・リージョンがこの決議を採択せられんことを要請するものである。右決議す』
かつては排日の急先鋒きゅうせんぽうであったアメリカン・リージョンカリフォルニア州支部が、時代の推移に目覚め日本人の帰化権問題に好意を示したことは注目に値するが、タウンセンド日系復員兵の努力も又見逃すことは出来ない」

帰化権獲得の議会の様子 下院通過

『北米報知』1949年3月4日 号                              「人種を差別する帰化法下院通過」

「人種を差別する帰化法下院通過」1949年3月4日号

「全在米同胞の注視の的となってゐる帰化法案は本日正午12時下院本会議へ上程され、約二時間余に亘って該法案に対する討議質問は行はれたが投票の結果、満場一致で可決した。(中略)人種的に差別待遇する移民帰化法を抹殺する帰化法案が下院本議会で可決されたのは今回が初めてで、法案が上院を通過したら、1924年制定の移民帰化法上の人種的差別条項は全面的に排除され、日本人が9割を占める在米の帰化不能外人、朝鮮人、マレー人、インドネシア人等85000人の東洋人に帰化権を付与される途が拓かれ同時に、日本人に対し年185名の歩合移民が米国へ入国許可される事になる」

下院通過への意見

「米国の諸新聞の社説で帰化法案支持」1949年3月11日号

「米国諸新聞は社説欄に於て我等の帰化法案について左の如く論じてゐる」

■ ニューヨーク・ポスト(訳:北米報知社)

「我等は下院本会議に採択された帰化平等案を上院が単に該法案擁護者が支持しているからと云ふ理由でなく、該法案の真の価値を認めて、可決せん事を切望する。下院議員は心からなる好意と抜目のない策略を以て該法案の通過は亜細亜アジアに対する冷戦に効果があると論陣を張った。若し米国が人種差別撤廃を標識として移民帰化政策を取り上げたら我等の極東の友人をより一層我等の側に引付ける事になるであらう」

■ ロサンゼルス・タイムズ (訳:北米報知社)

「帰化法案の通過は単なる正義の発動である。上院も躊躇せず、該法案を採択し我等の国籍法より人種的偏見と差別の汚点を削除せなければらぬ。今次大戦に錚々そうそうたる武勲を樹てた二世有志の両親に市民権を与えないことは不公平である。彼等は立派によき住民として税を払い団体生活に貢献している。米国への忠誠は人種、宗教、皮膚の色に非ずして、各自の覚悟によって決定されるべきである」

戦前北米時事社の社長で当時日本在住の有馬純義すみよし氏は、花園一郎のペンネームで帰化法案下院通過について自身のエッセイ「東京雑記」内で次のようにコメントした。

『北米報知』1949年3月14日 号                                                          「花園一郎、東京雑記、違った意味での『重大なる結果』」

「花園一郎、東京雑記、違った意味での『重大なる結果』」
1949年3月14日号

ワシントン州電は米国下院司法委員会が全会一致で移民法の人種的差別を撤廃し日本移民を毎年185名受け入れる法案を可決したと報じた。提出者ジャッド氏はこの法案が成立すれば日本進駐の六師団に相当する程の影響があると語って居る。その日本人の心理に影響するところ大なるは疑ふべくもない。『帰化し得ざる日本人』の入国を拒否する移民法が制定されたのは1924年であった。(中略)
当時の埴原大使はこの法案が通過すれば『重大なる結果』を生ずると抗議し、その抗議がまた米国民を刺戟しげきして埴原大使の更迭こうてつともなった。(中略)
今回の改正法案の下院司法委員会通過はかつて米国民を刺戟したと全く異なった意味に於ける『重大なる結果』を日本国民の対米理解の上に齎らさんとすることになった。過去を顧みて誠に感慨無量なものがある。同時に時勢の変遷が人力を超越し、あらゆる問題をいつの間にか解決して行く無言の魔力を痛感せざるを得ない。(中略)
この法案の提出までには在米同胞のかくれた努力のあったことも見逃すことは出来ないと思ふ。我々はジャッド法の最後的成立を心から期待するものである」

有馬純義氏は、日系人の帰化法案が議会を通過することで、日本国民の対米理解は大きく向上する、という『重大なる結果』をもたらすと主張した。

帰化権獲得期成同志会委員長の奥田平次氏がペンネームの奥田遍理で、次のように述べた。

「帰化法案 奥田遍理」 1949年4月1日号

「待望の帰化法案は下院を通過して上院に廻附された。上院委員会で日系人のために証言した人々の名を見て時代の変化が痛感させられる。カリフォルニア州選出下院ジョージ・ミラー氏は曰く。『自分の選挙区には多数の日系人が居る。自分は学生として、牧師として、州会議員としてあらゆる方面より彼等に接する機会を持って居た。彼等は勤勉家で、法を守る住民、子弟には高等教育を与へる。所在地の公共事業には進んで協力する。日米開戦中には一人の不忠ものも出ない。実に模範的市民である。しかも半世紀も米国に住んで居る。遂に彼等に米国市民たる権利を与うべきである』と。排日本家本元たるカリフォルニア州議員にしてこの言あり。(中略)
上院に廻った法案は無条件に通過すると考へるものは日系人の考えであるが、そこがデモクラシー議会政治の厄介な処で、上院は上院の見識を持って居りオイソレとパスしない。再び下院と同じ様に委員会、本会議を通過せねばならぬ。そこに一段の運動が必要となり、遠くより上院議員をプッシュする電報もいるのである。市内運動資金募集準備も出来たそうであるが今度はほんとうの協力一致、小異を捨てゝ大同に就ての精神にて成績を上げられんことを希望する」

上院審議の様子

「帰化法案の通過危まる。議会休会を控えマッカラン上議帰還せず」
1949年10月7日号

「上院移民帰化分科委員会に採択され司法委員会に廻附されてゐるウオルター帰化法案はマッカラン上議の欧州視察から帰還を待って、第一司法委員会に採択されるものと期待し、万端の準備を整えてゐる、ワシントン州市協、反差員会はマッカラン上議の帰還が不明で少しく焦燥しょうそうの気持に閉ざされてゐる。(中略)
正岡氏は帰化法案が今議会を通過するに左の必須条件があると語った。
一、マッカラン上議が議会休会前に帰還すること
二、上院司法委員会が議会休会三日前に採択すること
三、ウオルター帰化法案が上院議事日程に記録されること
四、上院本会議を絶対多数で通過すること
五、大統領が署名すること」

「人種差別撤廃を規定するウオルター帰化法案、本日両院通過」
1950年8月15日号

「本日両院は帰化権取得の条件として人種差別撤廃を提案するウオルーター帰化法案の原案を復活する上下両院共同委員会の報告書を多数決により採択したので、法案は直ちにトルーマン大統領の署名を得るため白亜館に廻附された。ウオルター帰化法案は昨年6月6日下院を通過、上院では本年6月8日帰化権許容は日本人のみと修正したのであるが、下院は米国の帰化法から人種的差別条項を全面的に削除しなければウオルター法案の主旨に反するとの見地から、これを突返したのでこれが調整を図るため上下両院共同委員会にかけていたもので、この法案の通過によって各国外人にも人種の差別なく帰化権が付与せられることゝなり、米大陸及びハワイに居住する八万の日本人もこの恩典に浴することゝなった」

突然の大統領署名拒否

『北米報知』1950年9月9日号「ウオルター帰化法案にトルーマン大統領署名を拒否」

「ウオルター帰化法案にトルーマン大統領署名を拒否」1950年9月9日号

「在米日本人の帰化を主眼としたウオルター法案は9日トルーマン大統領によって署名を拒否された。ウオルター帰化法案はマッカーラン移民帰化法案の一部である国家補償条項が挿入されていたことが、トルーマン大統領の拒否の原因である。トルーマン大統領は拒否したことについて次のように説明していた。『本案に国家補償条項が追加されたことは本来の目的をアイマイにし、悪意があり、アメリカの帰化法を弱化混乱せしめるものである。さらに帰化市民の権利を脅威する。よって議会は直ちに再考慮を加へ、国家補償条項を除去すべきである。国連軍が朝鮮にあって自由と民主主義の本義に向って勇敢に戦っている時にあたってアメリカに居住する全ての人種の市民権を拒否することはわれわれの伝統をキズつけるものである』よって市協反差委員会ではトルーマン大統領の要請にもとづき国家補償条項を削除したところのウオルター帰化法案の原案を11日議会に提出する旨を発表した。国家補償条項とは共産主義または全体主義に関係する者には帰化権を与えないことを規定したものである」

『北米報知』1952年6月27日号移民法遂に成立、通過との快報に抱き合って泣く」

帰化権獲得に至るまでの議会の審議には、非常に多くの時間を要した。1952年6月、シアトル在留日系人は悲願であった帰化権をついに獲得した。同月27日号には「移民法遂に成立、通過との快報にみな嬉しさのあまり抱き合って泣いた」と掲載された。

次回は二世の活躍についての記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

■ 伊藤一男『アメリカ春秋八十年―シアトル日系人会創立三十周年記念誌―』PMC出版社、1982年
■ 『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。