Home 日系移民の歴史 初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史 第4回 シアトル日系人会の...

第4回 シアトル日系人会の創立〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第4回 シアトル日系人会の創立

前回は日系人コミュニティ組織の結成についてお伝えしたが、今回はコミュニティ組織の要となるシアトル日系人会の創立についての記事を紹介したい。

中央機関結成の願望と準備

1946年頃、帰還した多くの日系人から、日系人社会を束ねる中央機関の創設を望む声があがった。この声は『北米報知』創刊号から1週間後の第2回記事として早速掲載された。

「報知春秋 団体組織について」1946年6月12日号

「我々の社会に何らかの中央機関が必要だと叫ばれて居る。それは二世を主体とするものでも、又は一、二世合同でも差し支へぬとの声を聞くが、正にその通りである。何らかの連絡機関が欲しいのである。我々は過去に日本人会なるものを組織して居た。日本人会は社会奉仕機関と連絡を兼ねる機関であったが、偶々たまたま 、その運用を誤る点があったかの如くに解されて、今日では解消してしまって居る。元来、日本人会は在留民の福利増進を目的として組織されたものであるが、漸次、政治団体の如き印象を与へるに至った。然し依然として社会奉仕機関としての任務は遂行して居たのである。(中略)
我々の社会は、一世の時代から若き者への時代に移ったのである。若き者自らそれを意識して起ち上る時が来たのである。我々の社会再建は、二世諸君の双肩にかかって居るのである。二世諸君に社会奉仕の熱意が欠如して居るとは思へない。また手腕が無いとも思へない。奮起する秋ではないか。一世には過去の経験がある。この経験を相談役として、二世自ら陣頭に立て、それだけの熱意を断乎、示して欲しいのである。吾人は『社会奉仕会』の誕生を鶴首かくしゅして待つ者である」

「 一二世団結し中央団体結成へ」 1948年8月11日号

「シアトル地方に帰還せる日本人並びに二世は今や6000人に達っしてゐるにも拘わらず次々と起きてくる種々の同胞間の問題を統一的にさばく中央団体がなく、色々と不都合を感じ、その必要が痛切に感ぜられてゐたので過般来一世二世有志が会合し中央団体結成の件につき協議してゐたが、二世側は去る5日夜仏教会に会合し、団体結成に満場一致賛意を示し、全幅的に促進することになった。更に10日夜一、二世合同協議の結果愈々中央団体結成へとの第一歩を踏み出すことに決定。会員10名を選出、一世側より三原源治、原誠一、沖山栄吉、伊東忠三郎、辻本和橘の5名、二世側より民部ウイリアム、野添マック,坂原亨、松岡ゼームス、服部フランクの5氏が選ばれ創立まで仕事を急速に行ふことになった」

日系人会の創立

『北米報知』1949年3月2日「日系人会成る」

「シアトル日系人会憲章の起草なる」1948年10月6日号

「去る5日午後8時仏教会会館に於て中央団体憲章起草委員会を開く。出席者20名、三原氏座長となり、坂原、民部両弁護士に依って作製せられた草案を坂原、原両氏より説明、逐次検討修正の結果、不日ふじつ組織委員会を開き承認を得た上、州法より公認を受け具体的に進行する事となった」

「日系人会成る」1949年3月2日号 

「日系人会発起人会は昨夜午後8時仏教会に於て開催、規約及び会則の審議を行ったが、来る3月16日から一二世合同発起人会を開催、会則により参事員35名の選定行ふことゝなった」

「シアトル日系人会 決定せる規約と会則」1949年3月12日

『北米報知』1949年3月12日号「シアトル日系人会 決定せる規約と会則」

「去る2日午後8時より仏教会ホールに於て、シアトル日系人会の委員会が開催せられ、憲章の審議を行った結果、決定した憲章は次の如くである。

 規約

▪️第一条 本会をシアトル日系人会と称す
▪️第二条 目的 本会は米国建国の精神に基づき日系人の福祉を増進するを目的とす
▪️第三条 所在地 本会は事務所をワシントン州シアトル市に置く
▪️第四条 組織 本会は非営利団体にして本会会則に従い入会せし会員を以て組織す
▪️第五条 参事員 本会運営の主体は参事員会に存す。参事員会は会長一名、副会長二名、
理事二 名、会計二名及び会則に依りて定められたる参事員を以て組織す
▪️第六条 規約及会則の修正 本会規約又は会則の修正は総会出席会員の三分の二以上の賛成を要す
▪️第七条 発起人 発起人は州法に従ひ第一回発起人に於て会則を作製し参事員並に役員を選挙す

 会則(詳細は割愛)

▪️第一条  会員▪️第二条 会費▪️第三条 参事員会▪️第四条 役員▪️第五条 部門の設置▪️第六条 会議▪️第七条 選挙▪️第八条 議事法」

『北米報知』1949年3月12、14日号
「謹告 シアトル日系人会創立総会」

「シアトル日系人会創立総会」1949年3月14日号

「去る2日午後8時仏教会に於て開催せられた日系人会創立委員会に於て決定せられた会則により来る3月16日仏教会に於て日系人会創立総会が開催され役員及び参事員の選挙、並びに重要事項につき協議されることゝなってゐるが、同胞福祉のため日系人諸氏の出席が希望されてゐる」

3月12、14日号にシアトル日系人会創立総会の開催案内が謹告として掲載された。

北米報知』1949年3月14日号「シアトル日系人会創立総会」

日系人会創立についての意見

「鳥飼太郎、鶏鳴けいめい 録、日系人会組織」1949年3月9日号 

「日系人会は愈々具体化され、規約及規則の審議を終り、発起人大会を開く段取りにまで進んだ。一世二世の協力的機関であるからその精神と運営とよく織り込まれてあるように受取られる(中略)
日系人会の一貫した精神は、一二世即ち老若の協力である。戦前の日本人会のやうに、議論に疲れて実行に遅れ、ボス政治の真似をするやうなことは、既に時代遅れとなり、復興の黎明れいめいに済する日系人社会に用はない。昔の日本人会も二世と事を共にする必要を認め、色々と工夫を凝して二世の招致に努めたが、どうしても気合が融和せず、又一世達の議事振りが余りに文化遅れがしてゐるので、早くも惰怠だたい 気分になり、少しも気乗りがしなかった。今は時代も変わり一世の心構へも違ひ、且又二世の年齢も加わり世故に馴れると共に、老若協力の精神は燃へ、融和に都合がよくなったから双方面目を改めて、賢い握手に日系人会は幸ある門出をすると思はれる。(中略)
日系人会のなすべき仕事は山積してゐる。部門を定めて一つの事業を完成するのも容易でない。教育と言ひ、社会と言ひ、商工と言ひ、労働と言ひ、一として日系人社会の文化向上、復興の成否を左右せぬものはない。一世も二世も理屈は言はずに実行に忠実な人物を選び、運営の成果を挙げることだ」

当時東京にいた戦前の北米時事社社長、有馬純義すみよし がペンネーム花園一郎で自身のコラム「東京雑記」に日系人会の創立について次のようにコメントした。

「東京雑記、花園一郎、日系人会の成立」1949年5月6日号

「シアトル日系人会の創立委員会が開催されその憲章が決定したと近着の本紙が報じてゐる。在米同胞再起の力強い第一歩、その逞しい足音が聞こへて来るやうである。日系人と云ふ新語はたしかに戦後の同胞社会の変貌を端的に語って居る。戦前までの所謂『在米日本人』とは思想的にも経済的にも日本とのつながりを強く意識した存在であった。それは飽くまで『日本人』であった。その『日米親善』も従って、多分に便宜的手段であった。日系人とは勿論日本人であるが、米土を我が安住の地と決心した日本人である。『永住』と云う言葉もあったが、今日の日系人には単に永住と云う以上に米国への深い融和感がある。またこの米国を構成するものゝ一員であると云う自覚もある。その上この日系人には二世が完全に融和されて居る。(中略)
一世と二世は水と油が融合しないやうな関係にあるのではないか、との疑念が一時我々の社会にあった。一世はよく二世を理解せず、二世も一世に不満を感じて居たのである。それは矢張り時期の問題であり時がいまそれを解決しつゝある。一家でも同じこと、僕などでも、子供が成長した今日では家の問題などなにかと子供等に相談もし、彼等もまた進んで協力するのである。家はやがて子供の代に変って行くのである。(中略)
こうして日系人会が出来た。それは決して嘗ての日本人会の復活ではない。旧日本人会は発展的解消をして新時代に適応する日系人会が生れ出て来たのである。日系人会の目的は『米国建国の精神を基とし日系人の福祉を増進する』と明記してある。旧日本人会とて決して無用の長物ではなかった。その時代の要求する任務を果して来たのである。ここで一つの対照となるのが、日系人会が米国建国の精神をうたって居るのに対して旧日本人会は日米親善を大きな旗印としたのであった。この場合の『日米親善』に於て在米同胞は日本の側に立っての親善運動であった。日系人会は小なりと雖もその存立の意義に於て米国の公共団体の一つである。日系人会の前途を祝すると同時に旧日会関係者の多年の奉仕に対する謝意表明を忘れることが出来ない」

『北米報知』1949年5月6日号「東京雑記、花園一郎、日系人会の成立」

有馬氏によると、戦後の日系人はアメリカに融和された存在で、日系人会は日系人の福祉増進を目的とするアメリカの公共団体のひとつであると主張している。

会費募集活動

『北米年鑑』1936年版
三原源治氏

「会費募集について、シアトル日系人会長 三原源治」1949年6月11日号

「帰還後数年間の懸案であった我等日系人の中央団体が一、二世協力の許に組織され、来る6月14日正午から会員募集に各委員が各区に別れて一斉にお願ひする事になって居る。(中略)
一般同胞福祉の為に一、二世の中枢機関たる新時代に適応する日系人会が組織された。茲に同胞諸賢の協賛を仰ぎ奪って御参加下さる様切望する。因に本年度の会費は3ドル」

三原源治氏(右写真、『北米年鑑』1936年版より)は戦前も1935、38年に日本人会会長を務めた人物である。

 

参事員会、役員選挙について

「日系人会定期参事委員会、重要事項を決議す」1949年10月11日号

「昨10日午後8時より仏教会館に於て日系人会定期参事委員会が開かれ出席者22名、沖山氏議長となり、原氏より前参事員会、山口氏より会計法報告、三原氏よりケヤーによる日本救済品取援を開始せし事と1950年3月15日より3ケ月間、神戸市に於て兵庫県神戸市主催の貿易博覧会に共調方申出し件につき報告あり。更に11月28日開催の定期総会に参事員会案として、次の会則修正案を提出する事に決定、
一、本会に顧問を置く事
一、現行会則に参事員定員数35名から50名に修正
以上満場一致を以て可決」

「日会選挙委員会、参事員候補を推薦」 1949年11月22、23日号

「昨21日午後8時仏教会館に於て日系人会選挙委員会開催、近村改蔵氏を委員長に互選、49年度会費納入済の会員より次の参事員候補を推薦(氏名掲載)
参事員候補者94名、 役員候補者 会長候補2名、副会長候補4名、理事候補4名、会計候補4名(氏名掲載)」

『北米報知』1949年11月29日号
「日系人会定期総会、会長に三原源治氏再選」

「日系人会定期総会、会長に三原源治氏再選」 1949年11月29日号

「シアトル日系人会定期総会は昨夜午後8時より仏教会館に於て開催、沖山栄吉氏議長席につく、三原源治氏の挨拶があって、原誠一氏は事務を、山口正氏は会計を報告したが、満場異議なく承認、引続き会則改正に関する幹部提出の議案を審議、大多数を以て原案を可決 一、本会の運営は50名よりなる参事員によって之を行う。
二、本会の目的を達成せんがため次の部門をおく。教育、商工、財務
三、本会は参事員会の議決により顧問をおく。
役員改選で次の諸氏が当選 会長 三原源治、 副会長 沖山栄吉、民部快哉、 理事 原誠一、戸田トランス、 会計 山口正、堀降 参事員当選者50名(氏名掲載)」

参事員会において、戦前日本人会会長を務めた奥田平次氏が顧問に推薦され可決されたことが、12月13日号に掲載された。

事務所の設置

12月13日号の参事員会で事務所設置研究委員を推薦し幹部と共に研究し、その結果を参事員会に報告する事となった。その研究の様子についての記事が掲載された。

「日系人会事務所設置研究委員会」1949年12月21日号

「昨20日午後8時仏教会館で日系人会事務所設置研究委員会が開かれた。出席委員は渡部、佐々木、疋田、松田、内藤、辻本の7氏及び幹部で三原会長より簡単な挨拶後委員長の互選を行い、渡辺與三氏当選、委員各自より個人的意見を述べ、更に山口氏が会計の立場より意見を披露、相談の結果次の如く1月9日開催の定期参事員会に報告する事となった。
一、 事務所の位置は当分の間、国校(国語学校)内に置く。
二、 国校へ家賃として年間50ドルを支払う。
三、事務費の年額を500ドルとす」

旧日本人会の遺産整理

1950年4月14日号によると戦前の旧日本人会(北米日本人会商業会議所)の遺産は6300ドルあった。この遺産整理についての記事が掲載された。

「旧日商議遺産整理総会」1950年7月11日号

「国校内に同胞シビックセンターを置き、校舎の改装を即時着手する条件の下に全財産を日系人会に移管する。満場一致でこれを承認した」

日系人会運営 についての意見

日系人会運営について『北米報知』創刊に携わった前野邦三氏が次のような意見を述べた。

「日系人会とその運営について 前野邦三 」1950年1月1日号

「辛うじて生れたばかりのシアトル日系人会にもはや創立当時の機構上に、大なる変化をみせておることは見逃しえない現実である。最初の創立委員会では『同胞の福利の増進をはかり且社会の清浄を期し対米人社会との協調をはかる』といったような抽象的なことが創立の基礎として述べられた。そこで今日まで社会人としてこうした団体にたづさわってきたいわゆる有志家達と更に新進気鋭の二世を加え、かくして役員会に於ても参事員会に於ても、同数に網羅すべきであるとの意見に対し、一方から異なった説がでた。それは大戦のもたらした新情勢にかんがみ、日会の運営をすべて二世に廻し別に相談部をおき、所謂経験のある一世をもってこれに充てて時に応じ妥当の助言をなすことにすべきであると。こうした二つの全然異なった意見は数回に渡る、意見の交換により、遂に一世、二世協力してゆくという最初の案が決定され今日にいたっている。
ところが幾多の集会が重ねられる連れて、我が社会の将来を背負ってたつべき前途のある二世の欠席者が集会毎に目立ってきてゐる。その理由は『どうもおやぢさんと差し向って議論をすることが何となく面映ゆいしく言ひにくい、そのうえにおやぢさんの多くには吾々の話しが徹しないやうに、吾々もまた一世の話しが回りくどくつか みにくい、言いかえれば心の底に流れるスピリットの相異といったものがお互いにはっきり溶けあうことができないので、出席しようとする気分が浮んでこないのだ』と欠席理由の一端をほめかした二世もゐる。また二世には二世だけの市民協会もあり、帰還兵会もあるので、おやぢさんとの同席をさけてスピリットを向うする方面にかたむくことは頗る自然であると思ふ。(中略)
幸いに同胞社会の一財産として国語学校の校舎があるから、これを改装し、図書室、娯楽室、社交室、会議室などを設備し其處で一世、二世の座談会もやる。月に一回茶菓子の懇談会を催し、老人自慢の昔話,青年の希望や抱負などをかたりあうことは無意味でないと思ふ。そのため相互共済米人社会との緊密なる提携といったことを徐々に遂行すれば、たとえ一時は倦怠症状になりかけた二世も遂にはこの団体の性格を認め、存立の意義を解し、積極的に力を入れてくる秋があると考えられる。自己の生活する社会のために力を尽すといふ奉仕の観念を二世のあいだに培ふということは、ひとり同胞社会のためばかりでなく、将来米人社会に進出するうえでは最も重要なことではなからふかと思はれる。かく一世も二世も何等のわだかまりもなく、協調しうる社会をつくりだすべく努力することが一世としての最高の使命であらふ」

日系人会の運営には一世、二世がお互いに協調して運営していくことが必須であると前野氏は主張している。

日系人会の活動

「日会商工部会」1950年3月11日号

「日系人会商工部会が開かれ、シアトル商議主催の日本蜜柑ミカン と華州産アップルの交換船による輸出入する事業に参加する事となった」

『北米報知』1950年7月25日号「日系人会主催の日系児童野游会」

「日系人会主催の日系児童野遊会」1950年7月25日号

「昨夕午後8時仏教会館で日系人会主催の日系児童野游会委員会が開かれた。来る8月27日リンコルン・パーク北側の入口近傍に於て開く事となった。各係の担当者が決定された。自動車係、会場係、運動係(氏名掲載)来る31日、各協会日曜学校、各団体の召集により具体的な相談会をひらく。招待状を送る諸団体を招き相談会 諸団体は次の如し。市民協会、二世在郷軍、美似教会、組合教会、浸礼教会、メリノール、日蓮、シアトル高野山、天理、セブンスター等」

「日系人会の病者慰問」1950年12月21日号

「日系人会社会部では参事員会の決議に基き、去る18日松田、東海林、深野、沖山、植田の五委員が、アランド国立病院日系人62名を慰問、見舞品を贈ったが、昨20日も松田、沖山両委員が平林療院入院患者19名に対し前日同様に夫々慰問を行った」

戦後の日系人会は、奉仕団体として創立され、一世、二世が協力し、戦後の日系人コミュニティを支えていったことが随所に伺えた。

次回は領事館設置の記事についてお伝えしたい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①伊藤一男『アメリカ春秋八十年―シアトル日系人会創立三十周年記念誌―』PMC出版社、1982年
②ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年
③有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。
新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。