Home 日系移民の歴史 初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史 第3回 日系人コミュニティ...

第3回 日系人コミュニティ組織の結成  − 前編 − 〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第3回 日系人コミュニティ組織の結成  − 前編 −

前回はシアトル日系人ビジネスの再興についてお伝えしたが、第3回はシアトルに帰還した多くの日系人によるコミュニティ組織の結成についての記事を、前後編にわたりお伝えする。

県人会の復活

第2回でお伝えしたように、戦後シアトルには多くの日系人が帰還し、それによって、多くの県で県人会が復活、同県同志の日系人の結束が図られた。1946年6月から1950年12月までに『北米報知』に掲載された県人会は次の通りである。

滋賀県人会、広島県人会、愛媛倶楽部、福岡県人倶楽部、神奈川県人、熊本県人、和歌山県人会、山梨県人会、静岡県人会、福島倶楽部、岡山倶楽部

▪️滋賀県人会

文献によると滋賀県人会が1946年10月、戦後では初めて「近江倶楽部」として誕生した。

「滋賀県人親睦会」1947年1月15日号

「来る26日玉壺軒で滋賀県人の新年親睦会が開催せらるゝが、出席希望者は準備の都合上なるべく早く申込んで貰ひたい。会費1ドル50仙、申込所、福原事務所、疋田家具商会、石田理髪床、徳田薬舗」

「滋賀県人親睦会」1947 年1 月15 日号

「滋賀県人会臨時総会」1947年5月28日号

「来る6月5日午後7時半より仏教会会館に於て本会臨時総会を開催、会計の報告及び今後の方針につき協議する筈」

▪️広島県人会

文献によると広島県出身者は1947年4月に「芸備倶楽部」を結成。『北米報知』に、「広島県人会」として発展していく様子を記した記事があった。

「親睦会 」1947年3月5日号

「最近広島県人で当地に帰還せるもの多数となったので、3月16日、仏教会食堂に集まって親睦会を開催することゝと決定した。当日は婦人方の御奉仕が希望されてゐる」

「芸備倶楽部の委員会」 1948年9月8日号

「芸備倶楽部では去る9月6日まねき亭に於て委員会開催、荒瀬、尾藤、藤井、細川、木原、下前の諸氏出席の上、次の事項につき協議した。

(一)芸備倶楽部を従前通り広島県人会に変更することを総会にはかること
(二)広島市援助の件は実情調査方を細川氏に依頼すること

其他県人懇親会等の件について種々協議」

「広島県人会の総会と新年会」1949年1月24日号

「広島県人会では昨23日マネキ亭に於て総会兼親睦会を催したが、来り会するもの80余名、会務会計報告承認後、議事の主要なるものは、従来の会務運営委員7名を必要に応じ12名に増員し、今後一層の発展と万般の世話に異論なきを期してゐる。(中略)因に当夜当選せる委員は次の通り。

尾藤生三、細川節吾、木原市松、荒瀬昌平、藤井寿人、藤井義人、下前仁六、谷口学、岡田義登、   増原謙市、宮原謙市、植田正人」

その他多くの県人会で親睦会開催等の記事が見られ、同県同志の親睦が図られたことが分かる。

ジャクソン街委員会

日系人が多く集まったジャクソン街を中心に出来上がった、「ジャクソン街委員会」の活動についての記事があった。

「ジャクソン街を中心に社会奉仕会を組織」1946 年6 月19 日号

「ジャクソン街を中心に社会奉仕会を組織」1946年6月19日号

「シアトルのコミュニティ・チェスト本部では従来、日本人部なるものを設け、日本人商業会議所内に事務所を置き、日本人関係の事務を執らせて来たが、開戦と同時に日本人部が解消したので、この復活方を請願中であったが、最近開かれた役員会に於てコミュニティ・チェストとは従前の如く日本人部と称するが如きものを設けず、社会部員を派遣して諸種の問題を処理せしめる方針に決定したので、ジャクソン街を中心とするコミュニティ・チェスト本部と連携を執り、ジャクソンコミュニティの奉仕機関たらしめる運動が擡頭し、数回に亘る協議会の後、去る6月12日ペリー・ゲザート公立学校に於て規約作成委員会を開き、名称を『ジャクソンコミュニティ・カンシル』と決定、愈々社会奉仕団体として乗り出す事になった。第5街から22街まで、デアポン街からエスラー街までの地域に住む者、又は同地域内に於て営業に従事する者、或は同地域にある団体を以て正会員有資格者となし、同地域の衛生、居住性、安全、運動其他の公共事業に従事する。この地域の多くは黒人なので、役員の大部分は黒人が占め、フィリピン人、日本人、支那人の順位で役員が選ばれる模様。日本人側からの出席者は三原源治、市川達也、藤井義人の三氏」

ジャクソン街委員会の特色として、ジャクソン街区域に住む少数民族、支那人、日本人、フィリピン人、黒人から成るコミュニティの奉仕機関であったという点があり、戦前とは大きく異なっていた。

▪️定期総会

「ジャクソン委員会の定期総会」1950年3月30日号

「ジャクソン街方面委員会では来る4月27日に第4回定期総会を開き、役員と評議員の改選を行うが、本年度の会長としてアレキサンダー・ビショップ氏等三氏が候補者に挙げられているが、日本人側からは藤井義人、原誠一、小田開教使、藤野晴男の諸氏が評議員候補者に挙げられている。因みに現会長松岡ゼームス氏は二期連続会長の地位にあったので、会則により今回は会長候補に向けられていない」

「ジャクソン委員長にビショップ氏」1950年4月28日号

「ジャクソン街委員会は設立以来4年、同地域発展向上に目覚しい努力をつづけてきたが、昨夜仏教会ホールにおいて第4回年会と晩餐会が催された。参加者約575名で料理に舌鼓をうったのちルーク夫人が司会し、市川開教使の祈禱、ボーイスカウト第252隊の国旗入場に続いて松岡ゼームス会長の挨拶があった。(中略)投票開票の結果、アレキサンダー・ビショップ氏が会長に選任された」

▪️ジャクソン街委員会の活動

「ジャクソン街の清潔週」1948 年5 月14 日号

「ジャクソン街の清潔週」1948年5月14日号 

「『町を綺麗に塗り替えましせう』と云ふスローガンの下にジャクソン街委員会ではジャクソン街を中心とする清潔週間を17日より23日まで行う事となった。清潔週間はシアトル・ヂュニア商議が主催し全市に亘って行はれるがその皮切りはジャクソン街一帯で右委員会が音頭をとって行ふ事になってゐる」

「ジャクソン委員会の大晩餐会 」1949年4月22日号

「ジャクソン街委員会の第3回年会は去る21日午後6時半から、メーン街と第18街角のネーバーフード・ハウスに於て開催せられ、出席者300名盛会であった。席上人種関係の向上、社会奉仕のために尽力する処があったエヌピー・ホテル主藤井義人氏の功労を表彰した。デビン市長を司会者とする討論会には5名の諸氏が意見を述べて聴衆に多大の感動を与え、各自山をなす御馳走に十二分の歓を尽して散会した」

「庭園開放計画、小供のために」 1949年6月22日号

「ジャクソン委員会の主催で第18街附近に住む各人種が集って各自の庭を開放して小供達を遊ばせるようにしてはどうかという計画をたて、目下その具体案を練ってゐるというが、この方法は既に東部地方でも実行され好成績を挙げている。尚ワシントン大学生間でもいろいろと計画されているがその計画についてはいろいろの意見もある様子であるから実行するまでには相当の日子を要するであらう」

「ジャクソン街の街頭装飾」1949年11月23日号

「愈々クリスマスも間近くなってきたので、ジャクソン街では今年も去年のように、街頭装飾を行うことゝなったが、費用は第五街から第十四街までの商人が負担し、ジャクソン区域委員会が装飾一斉を引受けジャクソン方面の商売に景気をつけようというのである。装飾委員長はビクトリー花店のヘンリー・チン君であるが、日本側からは原誠一君、堀隆君が委員にあげられている」

▪️ジャクソン街委員会への賞讃のコメント

「鳥飼太郎、鶏鳴録 土地と繁栄 」1948年10月8日号

「シアトル市ジャクソン区域委員会が紅羽根を標表としてゐるコミュニティ・チェストの一エピセンシーとして保健、体育を初め区内の美化に尽力してゐることは、土地と共に繁栄の一表現として、常に美しく感じている。昔は同胞街と称して独善気分にとらはれてゐたものが、今では時代に順応して白人、黒人、東洋人等々人種の如何を問はず一丸となって町の美化、町の衛生、町の体育に協力することは、一段の進境である」

戦前、日本人会会長等を務めた*奥田平治氏が奥田遍理のペンネームで次の投稿を行っている。
*筆者旧連載「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」第19回「伊東忠三郎と奥田平治」参照

「有志家の辯、奥田遍理」1949年3月1日号

「 ジャクソン・コミュニティ・クラブは良い仕事をしている。ジャクソン街を歩いて見る、八街より十一街までの鉄骨のバルクヘッド(隔壁)は同クラブの尽力で出来たものだ。しこうしてそれが有志家の仕事だ」

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
*参考文献は後編最後に掲載

後編に続く

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。