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第4回 理髪業組合と白人組合の関係〜シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業 発展の歴史

シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業
発展の歴史

By 新舛しんます 育雄いくお

初めに 

1900年の初め頃、多くの日本人が一稼ぎするために海を渡りシアトルへ向った。シアトルという地で日本人が挑戦し、大成功を収めたビジネスの中に理髪業とホテル業があった。
日本人によるこの二つのビジネスの水準はいずれも白人社会を驚嘆させる、非常に優れたものだった。 日本人経営の理髪店は夫婦共稼ぎの仕組みが多く、中流階級の白人たちに大変な好評を収めることができた。また日本人が経営したホテル業はシアトルの大型ホテルを次々と手中にし、白人経営のホテルを圧倒した。
本連載は、日本人が大成功を収めた理髪業とホテル業の歴史についての概要を題材とする。また、この二つのビジネスに挑戦した一人である筆者の祖父の新舛與右衛門についても取り上げる。 本連載を通して当時日本人がアメリカという異国の地で、どのようにして理髪業やホテル業を成功させたのかをさまざまな角度からお伝えしたい。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を基に、北米報知での連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」と「『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史」を参考に作成を試みたものである。

第四回  理髪業組合と白人組合の関係

白人組合との協調による料金値上げ

理髪料金の値上げに関して、『北米時事』に次のように掲載されている。

『北米時事』1918年4月24日号「法外な理髪値上」

「現在45仙の理髪料金を明日から突然75仙(理髪料50仙、髭剃り25仙)に値上げするとは思いきって上げたものだ。日本人理髪業組合は白人のユニオンと行動を共にするという認諾にんだくはあるが、実際そこまで上げなくてもよい。やむを得ず値上げするとはムズ痒い話。物価騰貴の際、値上げもやむを得ぬが、突飛至極とっぴしごくだ」

本稿第一回でお伝えした『大北日報』掲載の1916年4月の理髪料金と、今回の『北米時事』掲載1918年3月、4月の理髪料金の推移をまとめると次のような表になる。(以下「理髪料金推移」参照) 

理髪料金45仙は当時の日本円で約90銭、現在に置き換えると推計900円ほど、また75仙は当時の日本円で約1円50銭、現在に置き換えると推計1500円ほど。

「理髪値上げに就て」『北米時事』1918年4月26日号

「組合長伊東氏来社し語るところによれば、白人家持当業者にて最低75仙で決着したと日本人側に通知があった。当方も余り突飛なれば先ず、60仙にし、次に75仙に値上げを交渉したが応ぜず。若しこれに反すれば、ユニオンの客が来なくなるので突飛としりつつやむを得ず値上げせしなり」

伊東の提案は当初白人組合幹部の理解はあったが、組合内での総意を得ることはできなかったようだ。4月30日号には「独立理髪計画」で組合を離脱して日本人だけのお客に限定して営業しようという動きまで起こった。しかし、最終的に伊東は、白人社会との協調を計るため、苦渋の選択として、やむなく白人側と同じ値上げに踏み切った。

営業時間も同調

『北米時事』「北米日会協議会」1919年7月31日号

「日本人理髪業組合は従来、白人同業者組合と連絡し、一致の歩調を取ってきた。今回、現在実行しつつある白人同業者組合の営業時間に共同方を勧誘してきた。審議の末、時勢の要求に適応すると同胞の態度を明瞭にするため、次の通り決定した。1919年7月末日 シアトル日本人理髪業組合。『開店午前8時、閉店午後7時、土曜日に限り閉店午後9時、8月4日より実行す』」

それまで、日本人理髪店は毎日朝7時から夜9時まで営業した。白人側から見れば日本人は働き過ぎで、自分達のビジネスの邪魔をすると考えた。そのことが排日の一つの原因ともなっていた。これを防ぐため、日本人組合は白人側の要求を受け入れ営業時間短縮に応じた。

白人同業者との円満な関係

理髪業組合が白人同業者と円満な関係にあることは『大北日報』1916年の「職業調らべ」(右下画像参照)の中でも次の通り記載されている。

「理髪業組合は同胞の同業組合中最も基礎の強固なものと云って好い。毎年一月と七月には総会を開いて白人の試験官をも招待して盛んに活動する。創立以来この三月で満十ヵ年になるので運動会でもこの下相談があるといふ。*⒈組合長は伊東忠三郎が十年一日の如く献身的に努力して居るので氏はただに*⒉組合だけのためのみならず同胞社会で人格と公共のために尽くす点に於いて第一人者に属すべき人で同業者間に於ける徳望とくぼうは非常なものである。日本人理髪業組合が今日の如き強固なる基礎を築き対白人同業者と円満に提携して居るのは一に氏の賜物と云っても好い。これ筆者が同胞の職業調べに於て劈頭へきとう*⒊同胞理髪業の現状を紹介し理髪業現状を叙述じょじゅつし終るに臨んで特に伊東組合長を表彰せんとする所以ゆえんである。其他の役員としては副組長権藤宗吉、会計原実三、取締国行幸十、書記岩見三代次郎の諸氏で何れも斯業しぎょう*⒋の先輩で熱心に同業者の利益を計って居る」

この『大北日報』での、シアトルにおける日本人の職業として一番目に理髪業を挙げた理由は、当時理髪業組合がシアトル日本人独立業者組合の中で、最も強固な組合だったからだと評している。

*⒈1916年に理髪業組合は設立10周年を迎え祝賀を兼ねて、ゼハーソン公園で理髪業大運動会を開催した。

*⒉「啻に」とは「単に」「もっぱら」という意味

*⒊「劈頭」とは物事のいちばん初めや冒頭という意味

*⒋「斯業」とはその道の仕事、本業を指す言葉

理髪業組合新年会の様子

伊東忠三郎は白人同業者との協調関係を構築するため、毎年新年宴会に白人同業者の幹部を招待した。1911年1月7日の『大北日報』に「床屋組合の新年宴会」として次の記載がある。

「市内床屋組合にては明日(日曜)午後一時より日本館に於て定期総会を開き終りて午後六時より新年宴会を催す由、当日は説田商店より凡百弗ほどの景品を福引にて各会員へ配布する由、右は本年より説田商店が床屋の使用する道具一式を安価に売さばくを以て其披露の為めなりと又白人の床屋試験官及び同業者日本人新聞記知友等も招待し盛大なる宴会を催す計画のよし」

白人同業者と協調関係にあることが組合結成4年目にして十分伺うことができる。

『北米時事』に次の記事がある。

「理髪店組合総会」1918年1月14日号

「昨日午後より日本館ホールに於てシアトル日本人理髪店組合総会が開かれ午後7時より新年会が開かれた。参加者は男女の組合員約200名に達し、来賓としては松永領事、北米日会の高橋、築野、菊竹、大北日報の竹内、北米時事社の宮崎*、白人側は理髪試験官、白人組合副会頭等夫妻数名にて『まねき』の仕出しの料理、折詰等の宴席があった。伊東忠三郎が司会者として松永領事を紹介し、日英両語の演説をおこなった。次に前試験官レイ、高橋北米日会長、白人組合副会頭アイビイ、大北日報の竹内、現試験官マックゴーヂ、北米時事社の宮崎らが逐次所感を述べた。片山通弁は組合顧問として英語演説を和訳し、何れも大喝采を博した。第一式終わり第二式に移り、各種演芸は来会者の大喝采を博し、近来稀なる盛会なりき」

*宮崎徳之助氏は1918、19年当時北米時事社の社員で、1918年4月に開催された北米時事社大運動会で接待委員と司会を務めていた人物である。(「『北米時事』から見る日系移民の歴史」の2022年新年スペシャル「『北米時事』の歴史」https://napost.com/ja/north-american-times-new-years参照)

このように、伊東を中心とする理髪業組合のリーダーシップの下で、多くの日本人理髪業者が新年会に出席し、皆の親睦を図り結束を高めていっただけでなく、白人同業者とも協調しながら安心して仕事ができる環境を構築していった。

同日号の「見たり聞たり」で理髪業組合について、解説された。

『北米時事』1918年1月14日号「見たり聞たり」

「理髪業組合は現有会員175名で男子88名、婦人87名。婦人が男子より一人少ないだけで、それが皆理髪業の免状を受けて立派に行なっているとはすこぶる意を強くする。かかる強大な同胞理髪業組合を有する処は米国の何処にもあるまい。前試験官レイ君は昨夜の新年会に記者の隣席に居って耳言しごとにていわく。『斯く多数の日本婦人理髪業者があろうとは意外であった。日本婦人は用意周到、清潔丁寧であるから白婦人のバーバーより評判がよい。就中なかんずく男子より手が柔らかいから、一度日本婦人に顔を剃らせた白人は必ず華主かしゅになる』と云っていたが至極尤しごくもっともである」

この記事から1918年1月時点では約87軒の夫婦共稼ぎの日本人理髪店があったと推測される。筆者の祖父、與右衛門も1918年にはワシントン街163に夫婦共稼ぎで理髪店を開き、多くの白人客で繁昌していた。

1925年の理髪組合総会、および新年宴会の様子が『大北日報』1925年1月26日「理髪組合総会 労働組合幹部列席」として次の記載がある。

「昨日午後四時日本館に於てシアトル日本人理髪業組合総会諸般の報告後役員の選挙を行ひ六時から盛大なる新年会を開らき大橋領事夫妻……を初め理髪業組合幹部はいづれも夫人同伴 邦字新聞代表者及び松見大八、岡村正一、片山確一氏も出席した。日本食の馳走後伊東理髪業組合長は”日英両語  ”にて組合創立十九年の総会を見るに至り日本人は百パーセント加盟せる旨を述べ大橋領事、ヂャクソン労働組合組長、フライ西北部理髪業組合幹事長、ポアーシアトル理髪業組合幹事の諸氏及び有馬純義氏の卓上演説あり終って三升会の日本少女の踊その他の余興あり福引を分配し主客歓喜の裡に散会した当夜は組合員は家族同伴全部出席し白人の来賓は四十名近くあった」

白人40人を招待したこの新年宴会では、組合長の伊東忠三郎が日本語と英語の両方で挨拶をしている。伊東の英語力は相当なものであったことが伺える。

またこの新年宴会には白人の来客のみならず、理髪業組合の全家族が出席しており、理髪業組合の強い結束が見られる。伊東の対外交渉力と一般庶民への思いやりを伺わせる新年宴会である。

『北米年鑑』1928年版でも、シアトル日本人社会の実業組合の紹介文の中に白人組合と協調関係のある組合として、理髪業を挙げている。

「進んで利益擁護を目的とするは勿論であるが、進んで同業者と提携し営業上同一の行動に出んとする者は少ない。理髪業組合のみは労働時間及び料金等に就き白人同業組合と協調の方針を取り(中略)両者の関係も円満であると云はれている」

この時紹介されている理髪業組合の会員数は125名で、ホテル業組合の137名に次ぎ二番目に多い会員数を誇った。

以上のように理髪業組合は伊東忠三郎の強力な指導力により白人同業組合と非常に強固な協調関係が構築され、日本人理髪業者は安心してやっていける体制にあった。

※記事からの抜粋は旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

◼️ 『北米年鑑』北米時事社、1928年版

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門—祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」、2023年9月から2025年2月まで「初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史」、2025年3月から2026年2月まで、「二世新舛與の生涯」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。