北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者:新舛 育雄
新年スペシャル 『北米時事』の歴史(前編)
前回は日本人ホテル業の発展についてお伝えしたが、今回はシアトル日本人コミュニティを支えた邦字新聞について、とくに本紙前身にあたる『北米時事』についてお伝えしたい。前編では、1902年創刊の頃から1920年頃までの様子がわかる記事を取り上げる。
北米時事は、鹿児島出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。
邦字新聞の誕生
20世紀に入ると、シアトル日本人コミュニティの発展と共に多くの邦字新聞が誕生した。北米時事は、歯科医だった隅元清(くまもときよし)、平出商店創業者の平出倉之助(第4回「一日一人人いろいろ、平出亀太郎」参照)、矢田貝柔二、山本一郎の4名が出資、山田作太郎(さくたろう)(鈍牛)(すみぎゅう)を最初の主筆として、1902年9月1日に日刊邦字新聞として創刊した。当時のオフィスは、ジャクソン・ストリート沿いにあった平出商店の階下におかれた。
『新日本』も同年に創刊。続いて1905年3月1日『旭新聞』、1910年1月1日『大北日報』が創刊された。邦字新聞はシアトルに住む日本人にとって、なくてはならない重要な情報源だった。
創業時の主筆たち
中島梧街(ごがい)「北米時事と私」1918年3月29号
『新日本』に勤務した中島梧街が、ライバル紙『北米時事』の創刊当時の様子を、回想しながら克明に語っている。
「私が米国に来たのは、1903年7月だった。(中略)その頃シアトルには『北米時事』と『新日本』という日刊新聞があって、『北米時事』は繁栄派を代表し、『新日本』は廊清(ろうせい)派ともいう格であったが、勿論シアトルを挙げて、黄金万能の時代だったから『北米時事』の勢力はなかなか強大だった。私は上陸した翌日、東洋貿易会社に山岡音高(おとたか)社長を訪ねて、威勢のいい説教を拝聴させらた後、新日本社に入社した。『新日本』の黒幕は山岡先生が大御所で、河上主筆初め他に二三の記者がいた。
『北米時事』は初鹿野梨村(はつがのなしむら)が総司令官役、今でこそ俳陣に隠れて活社会に顔を出さない梨村先生も、当時は飛ぶ鳥も落とす勢い、青年文士の喜髄するところだった。
忘れてはならぬのは、『北米時事』の隅元社長でその経営惨憺(さんたん)たる中にあって執着力の強い奮闘振りはめざましかった。今は故人となられたが、『北米時事』の今日あるは隅元社長の寝食を忘れた努力の賜物であると信じる。
(中略)『北米時事』は突飛的社会廓清(かくせい)には反対だった。むしろある時は急進派の計画を打ちこわしにかかることもあった。よく言えば温和主義、悪く言えば対嬰(たいえい)主義。其処に行く道を異にする二つの日刊新聞の筆戦が開かれた。(中略)私は梨村君の悪口を書くため毎日職工に言いつけて、名誉誹謗(はいぼう)の熟語を文選してもらい、取り換え引き換え使用した。梨村君と私の茶話にはよくこの事が話題に上がって、大笑いすることもある。
(中略)私が筆硯(ひっけん)を遠ざかって東華州(ワシントン州東部)に赴いた間に、『北米時事』は一大変化を遂げて昔の下町新聞から解脱し、真面目な立派なデイリーペーパーとなった。私の記憶に残っているのは、藤岡鐵雪(てつゆき)(紫朗)(しろう)君の主筆時代の北米である。穏健で真率(しんそつ)で同胞の諸問題を真面目に取扱う誠意は確かに紙面に躍如(やくじょ)としていた。今日の同紙面の基礎は、否な形式は藤岡時代に積まれたものだと思う。
今から9年前(1909年)に東華パスコに住んでいた頃、藤岡君に一書を送りパスコ開発、同胞発展のために応援してもらいたいと頼んだ。すると藤岡君は直ちに、快諾の返事を送ってきて私は喜んでパスコ開発の記事を『北米時事』に連載してもらった。新聞の効果は驚くべきもので、あの砂漠のような荒野に『北米時事』の記事を見たといふて来訪する同胞は意外に多かった。洗濯屋、雑貨屋が来る。料理屋、支那飯が開店。一時は広告の本尊である所の私もその応接に忙殺されて底気味が悪く感じたこともあった。新聞紙が地方開発のために貢献した功績は大きかった。(中略)『北米時事』の悪戦苦闘と同胞の発展のために貢献した努力に対して、満腔(まんこう)の敬意を表したい
「本社故人追悼会」1918年7月29日号
1918年には、創業者らの追悼会が行われた。
「一昨日『万新楼』にて本社創立者前社長故隈元清氏、矢田貝柔二氏始め本社関係者で故人になった人々の追悼会が開かれ本社友諸氏を招待。有馬社長の挨拶と山田純牛氏の追悼談ありて盛会なりき」
有馬家の活躍
創刊から10年ほどが経った1913年に、『北米時事』のオーナーシップは隅元から有馬純清(すみきよ)へ受け渡される。有馬家は、同紙が日米開戦後の日系人強制収容でその幕を下ろすまで、純清の息子である有馬純義(すみよし)と有馬純雄(すみお)の代に渡って発行を続けた。社長と主筆を長年に渡って務めた純義は、日本人会会長になるなど日系コミュニティーの中心人物となった。
純義は1941年10月頃に鹿児島で療養していた純清を見舞いに行ったまま開戦でシアトルへ戻れず、弟の純雄が社長を引き継いだが、純雄も真珠湾攻撃と同時にFBI連行されることになる。純雄は、戦後の『北米報知』創刊メンバーとして、再開後初の編集長を務めた人物でもある。
東良三「三昔前の憶ひ出」—シアトルと北米時事と僕と— 1938年1月1日号
1910年代に北米時事社に勤務した東良三(あずまりょうぞう)が1938年1月1日号で、有馬家が北米時事を受け継いだ頃の様子を次のように語っている。
「僕が初めて『北米時事』にご縁を持つようになったのは1909年頃、隈元さんが社長の時代で、今、ロサンゼルスに居られる藤岡紫朗氏が主筆であった。(中略)当時、有馬桜岳(おうがく)(純清)先生は明治学院教授の職を辞して渡米され牧師としてタコマに在留されて居たが非常に文章家なので、『北米時事』や『大北日報』なんかから「タコマ山人(さんじん)」というペンネームで盛んに、随筆物を寄せて僕達文士仲間の相手となっておられた。(中略)
その後暫くたって有馬桜岳先生は隈元氏から『北米時事』を譲り受けて社長兼主筆となった。(中略)現社長の有馬純義(すみよし)氏が父君経営の『北米時事』の人となったのも確か其の頃(1917年頃)であって、ポートランドのカレッジを出たばかりのチャキチャキの青年学徒であった。一寸素破抜いておくが、いまの有馬さんのマダム(当時福田環(たまき))とのロマンスはポートランド時代に芽生えた」
広がる寄稿者の輪
『北米時事』が有馬家が受け継いだ後も、創業メンバーや初期の主筆らは、同紙と深くかかわっていたようだ。また、元社員の多くが、その後も各地から記事を寄稿していた。
「北米時事社 名簿」1918年1月1日号、1919年1月1日号
1918年1月1日号及び1919年1月1日号に当時の北米時事社社員名一覧がある。この一覧を見ると、シアトル本社に20数名、ロサンゼルス、ニューヨーク、バンクーバー等に10数名、日本にも数名の社員がいた。有馬純清(すみきよ)社長は1919年には一時東京にいたようだ。1930年代には有馬純義(すみよし)が社長を受け継いでいるので、20年代のどこかで日本へ帰国したのかもしれない。
『新日本』記者だった中島梧街、また同紙創業者の山岡音高の名前が、社友として並んでいるのは興味深い。中島梧街はこの頃に多くの記事を投稿している。
また、創業期に主筆を務めた初鹿野梨村が社友として、藤岡紫朗はロサンゼルス駐在として記されている。主筆を退いた後の初鹿野梨村と藤岡紫朗について書かれた記事を紹介したい。
「初鹿野氏帰る」1918年9月9日号
「アラスカ・オーカキャナリーへ赴きたる初鹿野氏は、詩囊(しのう)を肥して昨日来沙」
上記の記事に対して、初鹿野梨村氏自身が1919年4月19日号「発するに望んで」として投稿記事を書いている。
「北米紙が僕の北征を『詩囊を肥やす』と書いたので知人が『独り詩囊を計りか』と揶揄(からか)ふので、僕も利かぬ気の、早速一絶をして見せたら『はヽヽ』と笑って引き下がった」
同号で初鹿野氏が投稿した「一絶の詩」は筆者の勝手な解釈であるが、「アラスカの荒海の恐怖にうろたえ鴎に笑われ詩嚢を肥やすどころではなかった」という内容ではないかと推測している。からかわれた知人とは、ひょっとして中島梧街ではなかろうかと想像する。北米時事社創立時に二人で行った激しい筆戦の延長のようなやりとりの気配を感じる。
「初鹿野氏帰沙」1919年10月28日号
「アラスカ遠征中なりし初鹿野梨村、昨朝帰沙せるが、本年は終わり頃になって鮭群寄せ来大漁なりしと語り居たり」
初鹿野梨村はこの頃には、毎年の鮭漁獲のシーズンにアラスカへ行って、その醍醐味に人生を謳歌していたようだ。
「藤岡紫朗氏新就職」1918年2月5日号
藤岡紫朗は、カリフォルニアへ渡って、農園家として活躍する一方で、『北米時事』へ寄稿していたのだろうか。1918年2月5日号によると「羅府日本人会書記長を辞任後、日加農業組合幹事に就任」とある。
藤岡紫朗が1939年3月29日掲載の「排日法案」の中で、自身の過去の様子について、次のように語っている。
「当時(1913年頃)私は北米時事記者生活の8ヶ年を了え、志を農園方面に立てて、ヤキマへ行った。しかし事業に失敗し1年後にシアトルに帰り恥をさらしていた。それを哀れんだか、古屋、松見両氏がカリフォルニア州行を世話してくれ、私は二つ返事で服装を整え翌日直ちに出発した」
「シアトル総まくり」1918年1月1日号
中島梧街についての記事もある。
「北米日本人会の会員様にして口も八丁手も八丁、筆も合わせて二十四丁程の技術を有す。(中略)三男一女の父として模範的家庭を造る。其宰する『ホーム誌』は彼がステートホームの副産物にして家庭の人としても亦八丁の手腕あるを証す」
文筆家であると同時に、家庭を大切にする人物であったことがうかがえる一文だ。
社員についての記事も多彩
『北米時事』の記事には、社員の移動や家族の状況を詳細に掲載している記事も多くみられる。社員を大切にする、思いやりのある新聞社だったのだろう。
例えば、1918年1月22、28日、2月1、13日号には、濱野末太郎(はまのすえたろう)の退職についての記事が掲載されている。同氏は親族の事業継続のためニューヨークに行くため1月末の退職となった。3年間の勤労を労うために、本社員20数名で送別会を盛大に行った。同時期に退職した広告係の平井修一郎氏の送別会も兼ねたいたようだ。濱野氏が大陸横断鉄道で出発の際には、「停車場に多数の人が見送り、数日後に無事にニューヨークに到着した」と記されている。
なお、東良三による1938年1月1日号への投稿記事によると、濱野末太郎氏はその後に南満州鉄道の東亜経済調査局の幹部となり、戦火の上海に特派された。そこで、戦後経済の組み立てを準備をする役職について活躍した。
1918年2月8日号には、永戸政治氏がサンフランシスコ『新世界』記者より入社した記事が掲載。同上の東良三の投稿記事によると、永戸政治氏はその後に『東京朝日(現・朝日新聞)』の論説覧の専属となった。
「木下利氏結婚披露」1918年5月6日号、「中川本社員迎妻」7月26日号
本社員木下利氏、中川丘氏が結婚し、妻が渡米した記事が掲載されている。両氏は、写真結婚により妻が渡米してきたのではと推察される。中川氏については、1919年5月17日号に男子出産の記事もある。
「本社員ピクニック」1918年7月29日号
「昨日日曜日、本社員ピクニック。プレザントビーチにピクニックを催し、山に遊び或は三々五々海辺に出て貝拾いで楽しく一日を送れり。同地にグリーンハウスを有する北山、木村両氏は我等一行の為、種々の便宜を与え大いに歓待せられ一行は満足感謝して午後7時当地発の小蒸気に乗じて帰途につきたり」
社員20数名が多忙な毎日の片時の休日に、和気あいあいと楽しい一日を過ごす様子が目に浮かぶ記事だ。
「漢口シアトル会」1919年7月21日号
「シアトル人士の漢口に在るは北京公使館に栄転せし田村貞次郎(1918年北米時事社の名簿に、在漢口として記載)、郵船出張所主任蛯子磯治、住友支店支配人名村豊太郎(前住友銀行シアトル支店支配人、第4回「一日一人一いろいろ」で紹介)、茂木商会支配人酒井浩七、三菱商事会社日𠮷朝郎の諸氏及び本社漢口支店長、前本社員平井修一郎(前項「退職記事」でお伝えした本社広告係)等にてシアトル会を開き居れりと六千マイル外にて斯くシアトル出身者の落ち合えるは、広いようで狭いものなり」
1938年1月1日号、東良三投稿記事によると田村貞次郎氏は1914年頃ワシントン大学に通いながら日曜版『北米時事』の編集主任をしていたが、外交試験官試験に合格して総領事とまでなった人物。
日本郵船、住友銀行、三菱商事などは、『北米時事』の広告主であった。シアトル日本人社会の発展を支え、同紙とも関わった人達がその後に中国で活躍する中、北米時事社の元社員と一緒にシアトルから遠く離れた異郷の地、漢口でシアトル会をつくり親睦を深めていたのだ。
女性社員の投稿記事
高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」1918年3月29日号
「私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望致したい事がある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油がきれては廻せないから如何に聖職である教師も御飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私達はそれに報ゆるに援助を以てしなければならないだろうと考える。
(中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左手のテーブルの上に小新聞ばかり六七種もあったのを見た。しかもこの紙を除き同シアトルで発行する新聞が二三種もあったように記憶する。このような小さい新聞ばかり発行する必要はないだろうと考える。それをもし合同して一つの物にしたら立派な新聞ができて経済的にも有益なものになる。
(中略)当地には日本人会というものがあって、有給幹事などを置いて同胞の統一を計っていると聞いている。所々に日本人会を置く費用を以て新聞記者を増し、同胞のいる場所には必ず記者をおき、現日会幹事のする仕事をさしたらどうか。同胞が直接日会費を納める金で少し高い新聞を購読することにする。
領事の権威を以て津々浦々一人も残さず強制的にでも新聞を売りつけるようにしたら記者を置く費用は購読料から出てくる」
高谷しか子は1917年に渡米し、モンタナ駐在員として活動。渡米してまだ半年だが、自身の率直な意見として、移民地において日本人のために貢献的な役目を果たす新聞社に対する公的援助をいろいろ奇抜な具体案を上げ訴えている。
以上の記事を読むと、『北米時事』の発展は多彩な卓越した能力を有する社員一人一人の努力の結集によってもたらされたものだと強く実感した。
次回は「日本人コミュニティを支えた邦字新聞」の後編として1918年頃から1942年頃までの『北米時事』の特筆すべき記事についてお伝えしたい。
『北米時事』1918年1月1日号及び1919年1月1日号に、北米時事社社員一覧として掲載された人物名。文献などにより筆者が作成。緑字は、本文に登場する人物。カッコ内の日付は、参照した北米時事の号
所在 | 名前 | 備考 |
シアトル本社 | 有馬純清(桜岳) | 北米時事社社長1913年に隈元清から引き継ぐ |
宮崎徳之助 | 北米時事5000号祝賀大運動会の接待委員(1918-4-15)、 司会者(1918-4-29) | |
濱野末太郎 | 1918年1月末退職(1918-1-22) | |
木下 利 | 令嬢渡米、結婚披露( 1918-5-6)、 大正観光団副団長として帰朝(1918-9-10) | |
桝居伍六 | ワシントン大学講演 (1918-3-15) | |
井口順一 | 「工場勤務青年の日記」(1920-1-1) | |
前野邦三 | 連載「歳の暮」(1917-12-26~28)、 「主婦と家庭教育」(1918-1-1)を執筆 | |
平井修一郎 | 広告係1918年1月末退職(1918-1-28) | |
宮内平 | スポ―ケン支社主任(1918-1-30 ,3-8)、本社事務部(1918-4-21) | |
中川丘 | 妻、鹿島丸で米上陸(1918-7-26) | |
永戸政治 | 桑港新世界記者より入社(1918-2-8)、 大運動会新聞委員(1918-4-15) | |
有馬純夫 | 兄純義を次いで日米開戦直前に主筆になる有馬純雄(推測)、1918年に渡米。戦後、北米報知創刊時の編集長 | |
その他の名前 | ||
三澤直助 | 井上義隆 | |
杉之尾一栄 | 武元以能子 | |
浦川治平 | 中澤謙太郎 | |
大橋源三郎(印刷部) | 先山信夫(植字工) | |
石田千代子 | 川上太吉 | |
岡ノ上よし子 | 古川藤太郎(植字工) | |
有馬千里 | 橋口良雄 | |
深山庄作 | 山上利 | |
西尾正雄 | 西川いちよ | |
西宮豊年 | 中尾佐 | |
村上藤介 | 西田征司 | |
中川てる | 山本きぬ | |
中川吉野 | ||
東京 | 隅元 基 | 初代社長隅元清親族(推測) |
隅元政枝 | 隈元未亡人(推測)東京で転居(1918-7-13) | |
杉之尾正一 | 初期経営者の一人 | |
日本 | 濱野末太郎 | 帰国(1918-10-25) |
東 良三 | 寄稿「三昔前の憶ひ出 ―シアトルと北米時事と僕と」(1938-1-1) | |
その他の名前 | ||
吉田興山 | 荒井達彌 | |
ポートランド | 有馬純義 | 1917年渡米、ポートランド支店主任(1918-8-24)。パシフィック大学通学の傍らで働く。後に父を継いで社長・主筆 |
ロサンゼルス | 藤岡鐵雪(紫朗) | 1906年11月より北米時事社に務めていた、寄稿「戦後の米国」(1918-1-1) |
清澤 冽 | 退職後帰朝(1918-9-23)、宮川生糸商会入社(12-3)。1927年に朝日新聞社に入社。後に日米関係の評論で知られるジャーナリスト | |
サンフランシスコ | その他の名前 | |
山中曲江 | 高村経徳 | |
山本宗兵衛 | ||
オークランド | 翁六溪 | 大谷花壇 |
ニューヨーク | 江之澤謙治 | 佐々木指月 |
モンタナ | 高谷しか子 | 「5000号記念」寄稿(1918-3-29) |
バンクーバー | 胎中橋右衛門 | 来沙 (1918-2-11、3-21) |
山本一郎 | ||
漢口 | 田村貞次郎 | 元北米時事社員、その後に漢口領事館補(1919-2-14)、北京公使館(1919-7-21) |
社友 | 山田純牛(作太郎) | 創業当初の主筆 |
初鹿野梨村(詮次郎)(せんじろう) | 初期北米時事総合指令役、後に寄稿者「発するに望んで」(1919-4-19) | |
高畠淡影(虎太郎) | 「一日一人人いろいろ」(1919-2-18)、 国語学校校長、以前に北米時事記者 | |
中島梧街(勝治) | 寄稿「北米時事と私」(1918-3-29)、 「シアトル総まくり」で紹介(1918-1-1) | |
山岡音高 | 1902年『新日本』創刊 大学生倶楽部で講演(1918-3-2) | |
その他の名前 | ||
藍澤崇山 | 大澤保次郎 | |
佐々木黄瓦洞 | 松本秋堂 | |
東不泥 | 阿部雄三 |
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
① 加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年。② 在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年。③有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。