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♦︎ 新連載 ♦︎ シアトル移民日本人による理髪業とホテル業発展の歴史〜第一回 シアトル移民日本人理髪業の繁栄

シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業
発展の歴史

By 新舛しんます 育雄いくお

初めに 

 1900年の初め頃、多くの日本人が一稼ぎするために海を渡りシアトルへ向った。シアトルという地で日本人が挑戦し、大成功を収めたビジネスの中に理髪業とホテル業があった。
日本人によるこの二つのビジネスの水準はいずれも白人社会を驚嘆させる、非常に優れたものだった。 日本人経営の理髪店は夫婦共稼ぎの仕組みが多く、中流階級の白人たちに大変な好評を収めることができた。また日本人が経営したホテル業はシアトルの大型ホテルを次々と手中にし、白人経営のホテルを圧倒した。
本連載は、日本人が大成功を収めた理髪業とホテル業の歴史についての概要を題材とする。また、この二つのビジネスに挑戦した一人である筆者の祖父の新舛與右衛門についても取り上げる。 本連載を通して当時日本人がアメリカという異国の地で、どのようにして理髪業やホテル業を成功させたのかをさまざまな角度からお伝えしたい。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を基に、北米報知での連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」と「『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史」を参考に作成を試みたものである。

第一回 シアトル移民日本人理髪業の繁栄

1916年頃、シアトル での日本人経営理髪店

『大北日報』1916年4月1日から5日にかけて、「シアトル同胞職業調べ」の最初の連載として「理髪業の現状」に関して、大北日報記者の田村湖東ことうが4回にわたり解説している。この解説によるとシアトルの理髪業は「チョキンチョキンの床屋さん」としてシアトル日本人社会の名物となっていた。当時シアトル市内には76軒の日本人経営の理髪店があり、従業員は160人で、うち男が84人、女が76人であった。これらの理髪店はシアトル市のエスラー街以南の日本人居住区域はもちろんのこと、第一、三街のワシントン街、エスラー街の白人密集地域から北はバイキ街の先の方まで発展していた。シアトル市内には白人の経営する理髪店が多くあり、その軒数は325軒に及んでいた。従業員は1250人おり一軒平均3.8人で経営していた。日本の理髪店は少しでも多く利益を上げるため夫婦2人で営業し、椅子2つがあるだけのような、こぢんまりとした理髪店が多かった。(以下表「シアトル理髪店」、及び右円グラフ「シアトル理髪店軒数」参照)

シアトル理髪店(1914年)
シアトル理髪店軒数︎

当時のアメリカ西部の他市の日本人理髪店の状況を見ると、(以下グラフ「アメリカ西部の日本人理髪店軒数」参照)ロサンゼルス76軒、バンクーバー34軒、サンフランシスコ28軒、タコマ21軒、ポートランド15軒とシアトルはロサンゼルスと同数ではあるが、日本人人口を考慮するとシアトル理髪業界における日本人の多さは抜きんでている。外務省資料によると1917年での日本人人口はシアトルで6718人、ロサンゼルスで1万6440人だった。

アメリカ西部の日本人理髪店軒数(1916年)

日本人理髪店の特色

シアトル理髪店の客のほとんどがドイツ、イタリアなどの欧州移民の白人で、日本人専門店はわずか10軒でほとんどが白人相手の理髪店であった。当時の白人男性の生活習慣として、毎日の髭剃りは必ず理髪店に行き行うという習慣があった。このため理髪料金は散髪代金、顔剃かおそり代金、頸剃くびそり代金の三つに分かれていた。

シアトル理髪店の大きな特色は、中流階級の白人の間で非常に好評を博していた点であった。多くの白人を引き付けたのは、理髪店の夫婦共稼ぎのしくみであった。白人社会においてはこのしくみがない。シアトルにある多くの白人経営の理髪店では、大きな不細工な手でもって、非常に鋭利な薄い剃刀を使ってジョリジョリと行うので、客の方は非常に痛くて、また逆剃りをしないため、髭がきれいに剃れないというようなことがよくあった。ところが日本人理髪店では髭剃りは女房の役目で、柔らかい手先を巧みに使って優しくかつ丁寧に剃るので、白人客にとっては非常に心地よかった。日本人は手が非常に器用なため、理髪業は日本人にとって、得意とする分野のビジネスであった。もちろん日本人理髪店は白人の理髪店に比べると資本も少ないため、設備の上ではとても白人理髪店に及ばなかった。そのため上流階級の白人客は利用しなかったが、中流階級の白人と日本人全員を客にして、家賃の高くない適当な場所を選んで開業している人にはそこそこ稼げる非常によい職種であった。

日本人理髪業者の出身地は山口県が60%で、福岡県、広島県が後に続いていた。山口県でも大島郡の出身者が多く、理髪業組合長の伊東忠三郎の出身地であった。日本人理髪業者が山口県に多いことを多くの研究者が指摘している。

日本人理髪業の注目される点は、白人理髪業と比較して夫婦共稼ぎのため、低コストで運営されていることである。日本人移民は当初男の単身移民であったが、1910年代に盛んに行われた写真結婚※により家族が形成され、多くの人が理髪店を経営した。筆者の祖父、與右衛門と祖母、アキも山口県出身で理髪店を経営し大きな成功を収めることができた。

※移民した日本人男性が、日本に住む女性と写真や履歴書のみを交換して婚姻し、その後夫が妻を米国へ呼び寄せる結婚のこと。

理髪業ライセンスの取り方

理髪業のライセンスを取得するためには州の実施する理髪試験を受験する必要があった。受験料として5ドル、外人の通訳料3ドル、手数料として50セントが必要であった。理髪試験の手順としては、まず理髪業組合の予備試験があり、年一回州の理髪試験があった。白人試験官の前で頭髪用のはさみを使う様子、剃刀かみそりの研ぎ方についての実地試験があり、試験官から衛生面関連の質問があった。この試験に合格するとライセンスを取得することができ、毎年6月にライセンスの更新が行われた。ライセンスを取得すると、ライセンス一枚に対して見習弟子一人を雇用することを許可された。この見習いの給料は食事つきで男が40ドルから50ドル位、女で25ドルから35ドル位であった。

理髪店の開業資金と純所得

理髪店を開業するための資金は夫婦共稼ぎで理髪椅子二つが主な構成となっている。各設備の資金は理髪椅子 120ドル、壁鏡かべかがみ 170ドル、プラマー(電気材料)、電気引 100ドル、鏡前棚及び床100ドル、サイン(理容所を示す細長い円柱形の看板)その他備品 100ドルで合計590ドルは最低限必要な資金となる。シアトルの76軒の理髪店の平均投資額は、約800ドルを要したコンパクトで綺麗な理髪店だった。

店自体は白人から借りるが、その家賃は理髪椅子一つに対して15ドルが相場になっていた。理髪料金は散髪代金25セント、顔剃代金10セント、頸剃代金5セントで散髪と顔剃であれば35セント、剃るだけなら15セント、髪香水代は無料であった。散髪料金は1915年から16年にかけて値上げし、35セントになっていたが、お客が来なくなり、また元の25セントに戻した経緯があった。

理髪店の営業時間は朝7時から21時30分まででこれに違反するとペナルティを課せられた。職人一人当たりの稼ぎは一日2ドルから3ドル、月に60ドルから90ドルであった。

理髪店にかかる費用としては剃刀、ソープ、クリーム、タルカムパウダー(粉末状の化粧品)、ベーラム(香水)、ヘアートニック、タオルなどにかかる費用などで椅子一つに対して月に7ドルから8ドルを要した。理髪業従業員一人一つの椅子だと想定すると、理髪師一人当たりの純所得は38ドルから67ドルとなる。(純所得=収入—家賃—操業費用) (以下表「シアトル理髪業純所得試算」参照)

シアトル理髪業の純所得試算(1916年) 『大北日報』1916年4月1日~5日連載記事

シアトルの理髪業につき立本昭博氏は次のように述べている。

「たとえば、1909年には、理髪店や靴修理などは500ドル※もあれば開業できた。事業を経営することによって、その所得は賃金労働の2倍から3倍の増加を望むことができた。日本人事業経営者の平均年間所得は1200ドル、最も年間所得の少ない理髪業でも約700ドルの所得があった」

※1916年当時の500ドルは当時の日本円で約1000円、現在の日本円に換算すると約100万円程度となる。(以下「為替比較表(1916年)」参照)

為替比較表(1916年)

同氏の述べる理髪店開業費500ドルは『大北日報』記載の開業資金590ドルに相応、又理髪業所得700ドルは『大北日報』記載の月60ドルから90ドルの稼ぎ、つまり年間所得は720ドルから1080ドルに相応するものである。

シアトル理髪業の1916年頃の実態を『大北日報』の記事から数値的にまとめると、上の「シアトル理髪業の純所得試算」の表の通りとなる。この表は理髪師一人当たりの月間の純所得を試算したものである。理髪業はシアトル日本人にとって、安い資金で高い所得を得ることのできるビジネスであったことが推察される。

参考文献

◼️外務省通商局編『海外各地区在留邦人職業別人口表1916年 —1929年』

◼️立本昭博「アメリカ合衆国における日本人移民と都市、1890年代—1920年代」1997年

◼️森永卓郎『物価の文化史辞典』展望社、2008年

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門—祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」、2023年9月から2025年2月まで「初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史」、2025年3月から2026年2月まで、「二世新舛與の生涯」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。