初期『北米報知』から見る
シアトル日系人の歴史
By 新舛育雄
北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
第10回 日系人社会で活躍した一世
前回は二世の活躍を紹介したが、今回は日系人社会で活躍した一世についてお伝えしたい。
中河頼覚
中河頼覚氏は戦前、シアトル国語学校の校長として活躍し、大戦の始まった1941年12月7日にFBIによって逮捕された。アメリカでは、日系人の中にスパイがいないかをチェックするため、要職にある日系人を逮捕することが多々あったが、中河氏もその中の一人だった。戦後、シカゴに居住した際に執筆された、シアトルを懐かしむ投稿記事があった。
「年頭の感謝と希望、在シカゴ、中河頼覚」
1947年1月1日号
「日系人社会を見るに、鉄欄を出でて長きは第6春、短いものも第2春を迎えた。西したものも、東したものも、大体に於て安住の地を取還し、半世紀の苦心を以て築造した地盤の破壊も、悪夢に襲はれたと今はあきらめ去って、一意再建設の希望に燃えてゐる頼母しさである。尚進んでは、吾人の受けた戦禍は素より大きいけれども、これを故国内地同胞の蒙った災禍 に比べ、塗炭 の苦役の下から立ち上らんとして具 さになめて居る血の出る様な辛苦に比ぶれば、吾人は寧ろ彼等戦災民の苦難を分けて、これを援助すべき地位にあることを喜びつゝ、快く義損金品を多数日系人が醸出 されたことである。この義学は、シアトルは勿論、日系人の住む所、期せずして一様に行はれたことである。要するに、これ、吾人が将に再建の軌道に乗って、前途に希望を抱きつつ、漸く人心が平定した証拠と見られて感激に堪えないのである。幸いにして当シカゴは多数の日系人を迎へ、夫々職を与へ、生業を授けたので、家業を励みつゝこの地に一先ず腰を落ちつけんと決心せしむるまでに至った。また私が故郷の如く思ってゐるシアトルにても、時々刻々日系人の社会は再建設されて、今や週刊とはいえ、新聞紙までも生まるゝに至った。誠に慶祝至極である。茲に、1947年度も従来の順調な同胞の生活をそのまゝ引伸ばして行き、堅固な生活基礎を確立したいものである」
三原源治
三原源治氏は戦前、日本人会会長を務め、戦後は1949年発足した日系人会長として長く活躍した人物。1947、50年の年頭所感の記事を紹介したい。
「新年を迎ふ、三原源治」1947年1月1日号
「日米開戦直後の新年はモンタナ州ミゾラの収容所で迎へ、その翌年はローズバーグの陸軍管下の収容所、その後サンタフェ―抑留所、ミネドカ転住所と、年々新しい地で迎年した故か、昨年の正月はシアトルに帰って居ながら帰還早々、旅先にゐる感じであった。今年は漸く落着いた気持で、多くの同胞と共に此第二の故郷に帰り、再び新年を迎ふる事は、こよなき感謝である。在米の我等の生活と比べて祖国戦災同胞の現状を顧みる時、余りにも悲惨窮乏の様である。(中略)
建国以来負けた事のなかった国民の精神的打撃も想像される。先日三井勇氏の手記を読んだ中に敗戦に直面してゐながら、どうしても負けたといふ実感が浮ばなかった云々とある。民族の興亡は歴史の恒である。敗れた日本窮乏もどん底まで行った。これからは復興であり建直しである。その点に於ては太平洋沿岸の帰還同胞も同じである。希くば本年も祖国難民救済の手を緩めず益々努力し度いものである」
「新年を迎ふ、シアトル日系人会会長、三原源治」1950年1月1日号
「終戦後同胞が沿岸に帰還して早くも第5の春を迎へるのであるが、未だ日米の講和すら成立せず我等の祖国は依然として生活窮乏が続き、敗戦後の第6年を迎へた。在米日系人は幸いにも戦後の再建も着々と進拶しつゝあり、戦時に於ける二世兵士の武勲により、対日感情は年を追って好転し、帰化法の如きも、将来必ず我等日系人の為有利に修正されるものと信ずる幾多の根拠がある。(中略)
敗戦の日本にとり、又全民族にとりて、米国に十万の日系人が居る事が如何に大きな力となり、慰めとなり、唯一の希望であり、光明である事か。戦後在米の我等は種々の事情により、先ず永住を決定する者が大多数である。永住と決心する以上は事業に家庭生活に、宗教に、子弟の教育に悉 くその線に沿ふて米化すべきは勿論である。而して念願叶って帰化法修正の暁には一人でも多く市民権を獲得すべきである。また同胞協力の許に過去4年間故国の為めに奉仕してきた西北部日本難民救済会には300通を越ゆる感謝状が故国の各地から届いて居るが、殆どその凡てが米国の同胞のある事が実に助け神のある如く誠に嬉しく頂いた物資以上に、精神的の収穫を感謝しますと涙をもって綴ったものが多い。(中略)我がシアトル日系人会は同胞諸氏の協力により、第1年の会員募集には500名を越えた程の成績を示したが、何分各部を整えるにさへ数月を要する程度の牛の歩みであった。今年は虎年、緊褌一番駑馬 に鞭打ち同胞各位の協力を仰ぎ、同胞への奉仕を決意するものである」
奥田遍理 (奥田平次)
奥田平次氏(ペンネーム奥田遍理)は戦前、東洋貿易会社社長、日本人会長等を歴任したが、戦後も第一線で活躍し帰化権獲得期成同志会の運動資金募集委員長に就任した。また、戦前の日系人社会の歴史に関する記事を多く執筆した。それらの一部の記事を紹介したい。
「随筆、 閑居 、奥田遍理」1946年8月28日号
「我々の遭遇した最も徹底した閑居は4年間のセンターキャンプ生活である。この閑居を如何に過したかは静に回顧する値があると思ふ。英語を勉強した人、造花を覚えた婦人、詩吟や謡曲を卒業した先生、其他色々の技芸を習得して今日一角の満足を持って居る人もあるが、又朝から晩までランドリールームに陣取り、勝った負けたと小田原評定にタイムを過し3年1日でなく、4年1日の如く暮した連中も少くないが、是等か閑居の最なるものである。
キャンプを去って既に1年の今日では金儲けに忙しくて、閑の無い人もあるが、老齢労働にたへず恩給生活をして為すこともなく暮す閑人も亦た相当にある。是等の閑人や8時間働きで閑の出来る人々は真剣に人間生活なるものを研究して欲しひものである。誰か100年の齢を保つもあらんやだ。年々歳々花相ひ似たり、歳々年々人同じからずと唐人も歌って居る。明日を知らぬ一日の生命も俯仰天地に恥じざる誠心で生きたいものである。天地に恥じざる道とは天地の正道に従って社会に立つことであって、基督教も仏教も其の他の宗教も皆な此の正道を教示して呉れる。門をたゝけよ、されば開かれんやだ。閑居を有意義に過ごされんことを希望して止まない」
「古着類の寄贈、レントン同胞から」1947年2月19日号
「在レントン、ハイランドの諸氏の尽力で約千斤 (600kg)の古着類が去る土曜日、キング街の作業場に届けられた。古着類は毎月一回日本へ送り出すことゝなったゝめ、作業場では大多忙を極めてゐるが、此頃は80歳の奥田老人が辻田氏を扶 けて荷造りに大童 である。篤志家の奉仕が希望されてゐる」
日本難民へ送るための古着の荷造りする姿は奥田平次の人柄が伺える光景だ。
「銀の菓物鉢、奥田遍理」1947年2月19日号
「1935年8月、時のローズベルト大統領は全米の優秀なボーイスカウトをワシントン州に招待されたことがあった。其時ワシントン州高野山別院のボーイズ連も招かれる光栄に接し、ワシントン州に行き、帰途見学の為に西北部に廻って来た。一行は回教師に阿部スカウトリーダー他に二三の世話役とボーイズ45人で仲々盛んな旅行であった。シアトル日会でも歓迎の準備がされてあったが、一行の着いたのは午前8時、実業倶楽部に案内して来たが、朝食の用意がなかったので、僕はジャクソン街の同胞レストランを廻りスカウトボーイズに大にご馳走するよう頼んだ後ですっかりビルを払った。(中略)
一行がロサンゼルスに帰ってから『ロサンゼルスBSAグループ379より奥田平治君へ』と彫り込んだ、大きな菓物鉢を送ってきた。長い汽車旅行を終って久振りの同胞の洋食店で落付いて朝飯を取った快感は忘れることができぬと喜びの手紙が添へてあった。此の出来ごともすっかり其時きりで忘れて居たが、41年の暮れにミゾラのキャンプに収容されて居ると、或日僕のバラックに二人の同胞が訪ねて来られた。高野山別院回教師と阿部鶴彦氏でロサンゼルスから拘引されて来て居られたのである。過る日の好意を謝する為めであった。再び会ふなどと夢にも思って居なかった。此人々にこんな所で会ふとは不思議な因縁といふべきである」
「大学生倶楽部、奥田遍理」1947年3月26日号
大学生倶楽部はワシントン大学に接して便利な所にあって一世によってできた建物の一つである。立退き中は白人に貸してあったが、終戦後は二世のワシントン大学在学生も多くなったので、近き将来撤収されることゝ思ふ。此の時に当って倶楽部建築の経緯を書くことも意義あることと思ふ。1920年に有志家が集り協議をなし、急速に増加したる大学生の半数をも収容するに足らざる借家では我等第二期の継承者として同胞発展の崩芽たるべき学生を遇する道にあらず。遂に寄宿舎建築に着手すべきであると決し、予算2万5千ドルとし、一般同胞有志より募集し一か年以内に完成することゝした。同年4月35名の発起人の名にて趣意書発表と共に募集を着手した。資金募集には一世のみならず二世学生も暑中休暇を利用して、2、3人の組を作り、地方に出掛けて募集し、一方直に建設に着手したる為め、1921年に完成したのであるが2万5千ドルの予算は、約1万ドルの超過であった。其後20余年間、寄宿舎、休息所として学生に便宜を与え其の経費は在宿者が全責任をも持ってやって来たことは、建築の目的を達成したものである」
「古屋政次郎、奥田遍理」 1947年4月9日号
「古屋存命中は狸爺 だ、守銭奴 だと常に悪評の的となって居ったが、人々は彼の一個の信念を知らなかったのである。1914年1月23日東洋銀行と東洋貿易会社が命明日に迫り、破産に瀕した時、平生 敵であった古屋に山岡を通して救済を乞ふた。彼は高橋、築野、平出、荒井等の東銀組と会し、救済の手を伸すことを約した時の彼の熱弁は、彼の真の性格を表はして居る。曰く『諸君と運命を共にし、全財産を投じて救済方法を講ずべし。若不幸にして中途倒るゝの已むなきに至るも諸君にして一点の私心なく赤裸々になって同胞の急を救ふ誠意を示せ。余も亦赤裸々となりて一物をも残すこと無ければ、假令 其の責を完ふせざるも彼等の赤心のある処は社会一般之を諒とせん。余は赤手空挙 米国に来りしより、20有余年、此間一厘半銭を惜みて忍苦勤勉今日に至るは、徒に一家の私服を肥やさんが為ならず。一旦緩急あらば社会の為めに全財産を抛つは素より余の望む処なり』云々。当時東洋銀行の資本金4万ドル、損失20万ドル、東洋貿易会社の損失8万ドル、これを救済しては破産の悲境より免かれしめた。後年シアトル正金銀行を救済したるも同じ精神より出たのであった。終りに第一次世界大戦後の財界恐慌により古屋商店、太平洋銀行破産の悲境に陥つたるも、最後まで最善を尽したることは彼も亦た傑物であったと云ひ得る」
中村赤トンボ
中村赤トンボ氏は戦前シアトルに永く在住したが、釣の盟主として知られ、又『北米時事』1939年1月1日号に「メイン街盛衰記」でシアトル日系人社会の歴史を赤裸々に記した記事を投稿した人物である。
「シアトルを想ふ、在日本、中村赤トンボ」
1946年9月4日号
「是れは1946年6月25日の日付にて東京都大森の実居から中村赤トンボ氏がシアトルの知友に寄せた私信の一節である。ペンを持たせば無冠の帝王、竿を持たせば古今の釣師、在米何十年、言ひたい放題、悠々自適、贅沢三昧を尽して来た彼氏も、そのペンが崇って、彼の抱く思想の故に、開戦後当局の忌憚に触れ、インターメントキャンプから第二交換船にて帰国した。(中略)
一般読者の上にも祖国の現状を想ふ好個 の一資料成らんかと敢て本誌に掲載する所以。『シアトル市の皆さんが健在で昔の古巣へ立帰って居るといふ話は聞いて居る。不便な事、不愉快な事も多かろうが、何も是れ運命だと諦めて成るべくハッピーに其日其日を送ってくれ給へ。僕が帰ってから北米時事の川尻氏が病死したといふやうな話を聞くと、全く人事とは思はれず、シアトルの人達も一人減り、二人減り崩れてゆくかと思ふとうら淋しい気持ちに襲はれる。(中略)
終戦後大阪に居る友人の工場にもぐり込み、それから再び上京して田園調布に焼け残った家に厄介になって居る。何しろ夜具はなし、世帯道具はなし、厄介になる以外途はない。部室一つ借りるとしても先ず200円だ。それで中々無いんだ。全市焼土の今日、部室と称するものは三畳の板の間でも貴重な絶対品とでも称すべき実情である。(中略)
たまには好きな釣にでも出かけなければ生きる甲斐もない。と云って釣道具は無し、日本では今釣りと云った所で髪の毛のやうな本テグス一本が3円から5円だ。然しそれもない。人造テグスなど全つきりない。靴もほしい。釣道具もほしい。何も彼もほしいものだらけだ。佐野君一家、宮田主計君その他僕の知る人に宜しく。赤トンボ尚生きて居るとね。皆さんに宜しく。アメリカが懐しいよ』」
中島梧街
中島梧街氏は戦前、新聞社『新日本』に勤務し、『北米時事』1918年3月29日号に北米時事社の歴史を綴った「北米時事と私」の記事を投稿した人物である。
「初てのお正月、中島梧街」1949年1月1日号
「古い談で勿論かびが生えてゐるが、お正月を迎へる度に忘れ難い追憶である。1903年の夏渡米した私は山岡音高先生に面会した。先生は東洋貿易会社のオフィスに私を迎へ、一時間余に亘り米国の政治状勢や在留日本人の現状を説き去り、説き来った後、ろうろうと二通の紹介状を書き『当分、ここに泊って、ここに勤めなさい』と徐に説明。一週は岡崎さんの教会へ。そこに寝起きするのである。一通は河上清氏宛、『新日本』といふ日刊新聞にありつくのである。上陸の翌日食ふと、寝ると、働き口を穫たのは、私に取ってもつけの幸運だった。ジャクソン街を登って812の邸宅造りの二階家の新日本社を訪問すると、河上主筆は快諾、下階の編集室を案内し、萩村、飯野両氏を紹介、その日から校正や記事を手伝った。地下室は印刷工場、私より後に荻野君が入社した。(中略)
当時社では、同胞社会革新がモットーであったので、所謂財閥を向ふに廻して筆陣を張ってゐた。河上主筆は申すに及ばず、後援者には、東賀書記長、工藤今次郎氏(後に正金銀行支店長)などは教会を背景に、同胞社会の大掃除を鼓舞激励 して止まなかったのであった。(中略)
元旦社員一同バラーに集って、遥かに祖国に向って乾杯した。河上主筆は一切酒を口にしないが、荻村君は大酒呑み、私は一杯の御神酒で真赤になり、お雑煮のお代りに満腹、方面郎は卓を叩いて天下の形勢を論じ、荻村はニヤニヤ笑いながら盃を重ねる。(中略)
アメリカの初正月は山海の珍味、その豊富さと佳肴 は未だに眼にちらつき舌に残ってゐる」
本間睦子
本間睦子氏は1949年1月1日号北米報知社の社員一覧の社友として掲載されている人物。
「感謝 本間睦子」1949年1月1日号
「ロサンゼルスであったか、二世嬢が20名余り集ってゐた所に帰米青年がやって来て『よくもよくも大根足ばかり揃ったものだ』と得意顔に云った。そしたら二世嬢の二人がニコニコして『まあ!サンキュー、私たちの足はそんなに白い?』二の句の出なかった青年は私の所に来て『参っちゃった。人の好い奴らにはかなわね!』とこぼしてる様子お可笑しくてお腹の痛くなる程私は笑った。人生の幸福は自分で大部分築き上げねばならない。笑って暮すも、泣て一生を送るも大抵の場合、自分の心で左右出来る。女の世界は兎角何でも曲解して考へたくなるが此の二世嬢の如く総てを善意に解し得たら、世の中は随分変って来るだろうと想ふ。新しい年はこの二世嬢を手本に感謝の日々を送りたいと私は願ってゐる」
以上の一世の投稿を読むと、どの人物も日系人社会の土台を築きあげた人であり、回顧録はその経験の豊かさで溢れ、言葉の重みというものを感じることができる。
次回は日系人の日米往来についての記事についてお伝えしたい。
※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
■伊藤一男『アメリカ春秋八十年−シアトル日系人会創立三十周年記念誌−』PMC出版社1982年
『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。