Home 食・旅・カルチャー 地球からの贈りもの~宝石物語~ サファイアの秘密

サファイアの秘密

6月と言えば、言わずと知れたジューンブライドの季節。そして誕生石はパールだ。よく国花とか国鳥とかいうものがあるが、パールは日本の国石といっても過言でないほど、日本人には馴染みの深い宝石である。調べてみると、日本の国石はどうやら水晶らしい。昔は良質の水晶が日本で沢山採れたからだそうだが、それは聞かなかったことにしたい。やはり、パールは日本に住む私たちが一般的に楽しめる宝石だ。そして、その裏には御木本幸吉(みきもと こうきち)氏が100年以上前に成し遂げた偉業がある。ミキモトの歴史を思えば、どうしてもパールをひいき目に見てしまう。

今年6月1日、銀座4丁目のミキモト本店がリニューアルオープンした。地上12階地下2階で、1階から7階までがミキモトの店舗になっている。ジュエリーサロンやブライダルサロンはもとより、4階はパールのネックレスのみを販売するギャラリーがあるなど、まさしくミキモトパールを堪能するための場所だ。5階にはハイジュエリーが鎮座し、その中にはあの「矢車」も含まれる。言わずと知れた、ミキモトの最も有名なジュエリーと言えるだろう。1930年代を象徴するアールデコ様式のデザインで、1937年のパリ万博に出品され、ミキモトの名を世界的なものにしたジュエリーだ。基本形はブローチなのだが、部品の組み合わせ次第で12通りにもなるらしい。

1906年に建てられた本店ビルは、白い石造りの洋館で、当時「真珠色の店」と言われたそうだ。リニューアルした本店の外観は、真っ直ぐに上に伸びるブルーグリーンの建物。4万個のガラスピースを用い、穏やかな春の海の輝きを表現したそうだ。現在のミキモト真珠島(元の鳥羽の相島)を抱く、伊勢志摩の海を表現したのだろう。しかし、その海に幸吉は何度も打ちのめされた。

幸吉の真珠養殖成功への道のりは、伊勢志摩の海の赤潮との戦いであった。美しいブルーグリーンが赤潮で染まり、真珠貝が何度ともなく死滅。養殖が成功するまでには、幸吉は全財産をなげうち、親戚に借金をしてまで挑戦し続けた。赤潮に何度もやられ、「この海に身を投げよう」とまで追い詰められたという。もちろんそこで諦めなかったからこそ世界のミキモトの現在あるわけだが。「世界中の女性の首を真珠の首飾りで飾りたい」という幸吉の思いの強さがどれ程のものだったか想像に難くない。新しい本店は、諦めることのなかった幸吉を包み込むかのような穏やかな海の色をしている。

私自身のファーストジュエリーと言えるのが、ミキモトのペンダントだ。ゴールドのハート型の中央に、少し揺れるように一粒パールが付いている。18歳の時にプレゼントされたものだが、その後、ほとんど身に着けないまま今に至る。まさにタンスの肥やし。この体験があり、他の人の意見に左右されると、やっぱり無駄になってしまうというのを実感した。このペンダントを購入するとき、母と一緒に店を訪れた。大まかな予算を言われ、色々見ていたのだが、18歳の娘には娘らしいペンダントという母の思惑があった。まあ、当時18歳の娘であった私にはパールのリングなんておばさん臭く思われたし、パールのピアスという選択も考えなかった。よって、ネックレスという母の意見に特別不満はなかった。しかし最終的に二つまで絞り込んだ時、私が選んだ方を「それは大人っぽいデザインじゃない?」と反対する母に結局折れてしまった。18歳でありながら、20代後半にしか見えない、やけに老けていた私だったが、母にしてみれば娘らしいハート型が相応しいと思ったのだろう。

タンスの肥やしと化した私のミキモトパールのエピソードであったが、人はあまり学習しないという例を、最後に一つ。元夫に指輪をもらった時も同じ過ちを繰り返し、結局はリフォームを3回して、今のリングになった。無駄な装飾が嫌いなミニマリストだと確信するきっかけになり、結果オーライ。そうか、ミキモトのハートのペンダントもリフォームすれば良いのだ!

80年代のアメリカに憧れを抱き、18歳で渡米。読んだエッセイに感銘を受け、宝石鑑定士の資格を取得。訳あって帰国し、現在は宝石(鉱物)の知識を生かし半導体や燃料電池などの翻訳・通訳を生業としている。