北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者: 新舛 育雄
第17回 日系人社会を支えた日本人会
前回は県人会についてお伝えしたが、今回は日系人社会を支えた日本人会についてお伝えしたい。『北米時事』では毎日のように日本人会についての記事が掲載されていた。それだけ日本人会はシアトル日系人社会にとって繋がりの深い重要な機関だった。その記事の一部を今回紹介したい。
日本人会の歴史
日本人会が創立40周年を迎えた時、当時の日本人会会長の三原源治氏が日本人会創立からの歴史を次のように述べた。
「日商創立40周年を迎えて会長、三原源治」1939年5月24日号
「本会の創立は1900年2月11日で当時の会員は50余名、同胞の権利伸長、権利増進を目的とし、役員3名、評議員15名であったが、1905年に『ワシントン州日本人会』と改め代議員制とした。越えて1910年5月1日に分裂して別に『シアトル日本人会』が生まれた。1912年5月1日に両会互譲して合併し『北米日本人会』を創立し、役員4名、参事員50名は一般選挙を以って組織した。1926年に代議員制とし、1931年2月19日『商業会議所』と合併して『北米日本人会商業会議所』と改称し、役員6名、参事員75名は一般選挙と改めて、今日に及んだのである。(表1参照)
本会が遂行した仕事は広範に渡り一々列挙し得ないが、其の主なものを挙げれば、欧州戦争当時船腹の獲得、日米条約改正運動、帰化訴訟、排日土地法対策、州議会対策、18年間継続したコミュニティ資金応募、練習艦隊歓迎、石灯篭寄附斡旋、支那事変対策等々であった。常に同胞の中心機関として同胞体位の向上、家庭教育、社会教育の指導、商工業、産業其他一般経済の発達等大いに同胞の福利増進に貢献してきたのである。
今日、過去40年間回顧し特に今昔の感を堪へざるものあり。此間本会の役員、参事員として活躍した各位は勿論、本会会員として協力せられた各位に対し哀心から敬意を表すると同時に今後益々一致協力以って同胞社会の福利増進を計られん事を望んで止まないものである」
(表1)日本人会役員選挙制度の推移
『北米時事』その他文献により筆者作成
北米時事社社長の有馬純義氏が「北米春秋」で日本人会の歴史について次のようにコメントした。
「日商創立40年の祝賀会」1939年7月20日号
「日本人会の歴史、或は日本人会に対する同胞の態度の変遷はその儘、同胞社会の変遷の歴史である。日本移民の入国時代を背景とする初期日本人会の政治的争い、その党派的対立、やがて商業的発展時代の日本政府への請願運動、更に米化運動、次いで永住論の時代となり日本人会はその頃からその立場と職責に漸次変化を見るやうになって来た。日本人会と商議会議所の合併するに至ったのもその頃のことであった。その頃は経済的発展と云ふより経済的整理の時代に入る時であった。人口の漸減も既に現れ来り進んで取らんとするより、退いて守らんとする傾向が自然に動いて来たのであった。而してその頃から起こってきたのが第二世問題である。それより日商はその存在を奉仕団体と自他ともに許すところとなった。社会部、教育部などと云うふのは出来て昔の外交、矯風と云ふ部などに代わった。この間日本人会関係の人物の変遷も少なからざるものがある。(中略)
我々は同胞社会建設に就いての先輩の労苦とその犠牲に対する感謝の念を忘れてはならない」
北米日本人会の役員選挙
「北米日本人会総会議事録」1918年2月4日号
「2月3日午後2時、日本館ホールにて開会。有馬議長、出席者94名、各部委員の報告、選挙による参事員50名の当選者(氏名掲載)。役員選挙当選者として会長候補、高橋徹夫、奥田平次、古屋政次郎の3氏が当選、以下副会長、会計、理事候補者も各々3氏が当選した」
「北米日会臨時参事会, 新役員決定」1918年2月6日号
2月5日に当選した参事員により、北米日会参事員会で次の決定が行われた。
①議長、副議長の選挙
②役員の決戦(会長、副会長、会計、理事候補の決戦)
③連絡日会代表の選挙
④部長、副部長選挙
この結果、議長:伊東忠三郎、副議長:高橋宗房、会長:高橋徹夫、副会長:有馬純清、理事:柴垣清朗、会計:菊竹経義が決定した。
参事員会の投票結果につき、当時の北米時事社社長の有馬純清氏が自身のエッセイ「随感随筆」で次のように語った。
「随感随筆」1918年2月6日号
「伊東忠三郎君の議長は、温厚で常識に富んで居るから適任である。副議長の高橋君、理事の柴垣君は新進気鋭の青年。今後に其の技量を発揮する事であらう。高橋徹夫君の会長、菊竹経義君の会計は既に定評あり、敢て記者の発言を加うる必要なし。松見、築野二君が年寄を気取って引退した事余輩の甚だ遺憾に思ふ所である。余輩を副会長に選んだのは参事員会の失策である。昨年の春誤って議長に選ばれ一年間ヤットの事で其職を務めたが、本年は新進の有力者にお願いしたく希望し、早々と議長に意なきを宣言した。然るに参事員会は余輩の固辞するに係はらず副会長に選挙した。余輩は甚だ不満である。余輩は新聞に筆を執り、二六時中批評を事とする者である。故に矢張り第三者の位置にあって日会幹部を監視し、批評し、激励するが可いのである。幹部に席を置く時は、種々事情に影響されて思ふやうに批評が出来なくなる。これ余輩が副会長たるを辞する所以である。
議長は幹部員ではない。行政者ではない。単に参事員会又は総会の議場を整理する丈の務めであるから、新聞記者であっても別に窮屈又は不自由を感ずる事はない。今後新聞記者は議長には選挙しても幹部の一人には出来得る限り選挙せぬ様にするが善い。やはり自ら進んで会長なり副会長なり理事なり会計なりに成りたい人達を選挙するが得策である。さすれば当選した人達の大に満足して充分に活躍するからである」
1919年3月6日、11日号にて1919年の参事員選挙、議長及び役員選挙の結果が掲載された。議長に有馬純清氏が当選した。これは有馬純清氏の望み通りだったようだ。会長には岡島金弥氏、副会長に伊東忠三郎氏、会計に平島又太郎氏、理事に柴垣清朗氏が選任された。
証明保証料の分配の廃止
日本人会の財源は会員の会費と領事館から委託を受けた証明保証料の分配金だった。このためシアトル領事館内のシアトルの北米日本人会を始め、各地方の日本人会を束ねる北米連絡日本人会が1913年に設立され、この分配金を各日本人会へ分配した。しかしこの各日本人会への分配金は1918年に廃止され、領事館からの保証料は北米連絡日会が財源確保のために取り込んだ。北米連絡日会は領事館にこれまで50%だった手数料を全額下附してくれることを要求した。
「北米連絡日会実行部委員会」1918年1月13日号
「12月15日附を以って証明料全額下附に関する請願書を再び領事館に提出せり」
「社論、連絡日会望む」1918年2月8 日号
「明後10日連絡日本人会が当シアトルに於て開会せらるゝ筈である。昨秋スポーケンで開かれた連絡日会が証明手数料分配の廃止の決議をしたので、種々の異論が沸騰した。特にシアトル日本人会は連絡日会が斯かる専横な決議を敢てする様ならば、宜しく之を連絡を断つべしといふ決議案を通過した。その結果北米日会参事員は数名の委員を選定して連絡日会の実行部と交渉さした。而も未だ円満な解決を告ぐるに到らず、該交渉は多少行き詰まりの姿にある。されば今回の連絡日会に於て必ずや何等かの建議案文又は緊急動議が現れ、議場に一花咲かすであらう。特に北米日会の代議士の中には手数料分配停止に猛烈に反対する人々があるから、此の問題に関連して種々の議論が闘はされるであらう」
北米連絡日本人会にはシアトルの北米日本人会初め、タコマ、べリングハム、タマス、ヤキマ、白河、ファイフ、ベルビュー、オーバン、スポ―ケン、サウスパーク、グリーンレーキ等の地方日本人会の出席により開催された。
「北米連絡協議会」 1918年 2月11日号
「前協議会決議の証明手数料分配廃止は1月1日より実行する事に改めたるに就き事後承諾を実行部より請求し議論百出したるも結局承認を与えた」
連絡協議会では、手数料分配廃止につき北米日会から激しく反対の意見を出したが、結局押し切られてしまったようだ。連絡日会は手数料の全額下附の返答を領事館からもらった。
「領事館証明料を北米連絡日会へ全部下附」1918年6月14日号
「北米連絡日会では従来領事館より証明書の半額を下附されゐたるが、先頃之が全額下附方請願したるに対し、去る6月10日付を以って松永領事より松見連絡日会会長宛の全額下附に関する示達が来た」
日本人会の経費予算実績
北米日本人会は商業会議所と1931年に合併し、北米日本人会商業会議所(以下日商)と名称変更した。
「日商のお台所」1940年2月17 日号
「日商『会報』第18号によって日商のお台所を覗く。14年度収入予算、3050ドル、実収入、3114ドル50仙、席料その他雑収入を加えて、4543ドル15仙、それに繰越金633ドル4仙、加えると5116ドル19仙、実支出、4040ドル29仙を引いて、1128ドル90仙が15年繰越金となっている」
(表2参照)収入総合計の5116ドルは当時の日本円で約2万円で、現在に置き換えると約2000万円である。
(表2)1939年 日商の経費予算実績(ドル)
『北米時事』1940年2月17日「日商のお台所」より筆者作成
日商の活動(1931年以降)
日本人会の活動組織として、社会部、教育部、商工部、財務部などの各専門部を作り、緻密な活動を行った。1934年には二世の活躍を期待し、青年部を新設することが決定した。また1937年の日中戦争開始後は、時局対策委員会を設置した。
「日商総会、青年部の新設」1934年8月28日号
「1935年2月より実施。青年部は本会会員の青年を以って組織す。青年部役員は部長1名、副部長1名、幹事2名とする。役員代表1名が本会役員会に出席して発言すること。青年部は本会参事員2名を選挙す」
「日商、時局対策委員会の陣容」1937年11月23日号
「第1回会合で委員長に前野邦三氏、以下、副委員長、理事、会計の責任者を決定し、基金募集部、講演部、社交部、情報部を設置し、各々責任者、部員を決定した。有馬純義氏は情報部の部員となった」
「昨日の日商の時局対策委員会」 1937年12月15 日号
「日商の時局対策委員会は昨日午後2時より開かれ左の事項を協議決定した。
①事変に対する放送は当分見合す。
②時局講演会は従来通り臨時開催
③ハイスクール、大学生徒の英語懸賞演説会に於て、一二等の当選した演説は他日広く放送する講演演説に希望す。
④今後は毎週火曜日時局対策委員会を開く」
「昨夜の日商総会」1938年2月24 日号
「日商が自由選挙を行う歴史的総会は昨夕日本館で開催された。総会出席者は200数十名、傍聴席3、40名の近年にない活気に満ちた総会であった。会長候補者、有馬純義氏他3名、副会長、会計、理事候補者も各々数名づつ選出された。参事員当選者氏名掲載」
この時の選挙で、北米時事社社長の有馬純義氏が会長に選出されたが、本稿、新年スペシャル号後半でお伝えしたように、有馬純義氏は1938年3月に会長職を辞退し、日本へ帰国した。翌年1939年8月にシアトルへ帰ってきた。その頃に有馬純義氏が日本人会についての意見を述べた記事があった。
北米春秋 花園一郎
「日本人会とはどんなものか」1939年10月11日号
「僕が帰米して聞くところは、日本に於て想像せる以上に今年の役員選挙に関して無用な紛争が行なはれていた。僕はかかる紛争惹起のやがて必然的なるを察して、その対案を提案した。それを一言に尽くせば役員選挙を巡っての党派の対立は既にその時機でなく、その必要もないのであるから、選挙委員会の組織を改め、その権限を拡大してこれに役員候補者を推薦せしめ、それを総会に提出せしめてはどうか、と云ふのである。これによって、今日に於ては既に無用の党派的感情を一掃し大多数の適任と考へられる候補者を推薦し得るからである。(中略)
日会とは何ぞや。それは奉仕機関である。果して然らば役員の選挙にもっと奉仕精神を持って臨むべきでないか。そして日会を余りに大袈裟に考えぬがよい。選挙を政治運動の如く考えるのは愚の骨頂である」
弱者救済活動
日本人会社会部は毎年年末に生活困窮者を訪問慰労した。
「社会部で患者慰問」1937年12月27 日号
「日商社会部沖山、田房両氏、入院中日系人の19名入院ジョージタウン病院、他3つの病院を訪問。亦恵まれざる邦人家庭18軒、独身者3名に対し、24日年末の慰問代を配布した」
「恵まれぬ家庭へ感謝祭贈物」1938年11月25日号
「日商社会部では毎年同胞の恵まれざる人々へ感謝祭のビスケットを送っているが, ロータス青年会、オリンピアードクラブ、ボールメーカーズクラブ、国校クラブ等より野菜、果物、各種缶詰、肉、鶏卵其他の寄付があった。又8ドル10仙(芙蓉会)、5ドル(シアトルガールズクラブ)等から贈物購入金として寄附があったので、社会部ではこれら按分し24日の朝、9家庭と6人の老、病者へ各配布した」
「クリスマスの慰問」1939年12月26 日号
「日商社会部では、21日、22日の両日、ファーランド、ジョージタウンの病院の同胞者患者へクリスマス慰問品を贈り、又郡立、市立病院其の他関係方面を訪問してクリスマスの挨拶を述べ、次いで23日、24日の両日に渡り恵まれざる同胞家庭11軒と独身の老病者10名へクリスマス慰問品を配布した」
日商が生れて40年のお祝い
「日商が生れて40年のお祝い」1939年5月26日号
「北米日本人会商業会議所が創立されて40年になるので、昨夜6時過ぎからマネキ亭で盛大なる記念会が催された。出席者は85名、白石副会長が司会し、三原会長の挨拶後、帰米日系市民協会代表、狩野輝光、市民協会会長、野垣健雄、米国西北部日本人会協議会委員、沖山栄繁、帝国領事、佐藤由己諸氏の祝辞あり。それより、三原会長が名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏に記念品と表彰状を贈呈した。(中略)
それより前会長、沖山、三原、前野三氏及び20年以上活動した参事員、橋口長策、岩村次郎、宮沢保太郎、(岡村正一氏欠席)築野豊次郎、英米一、平島又太郎諸氏に表彰状を呈した。(中略)
歴代日本人会長は次の通り。内故人になった人が5人、帰朝した人が6人、ロサンゼルス在住が1人である。
初代 荒井達弥(1900) 2代 山岡音高(1901) 3代 佐々木徳次郎(1903)
4代 服部綾雄(1904) 5代 高橋徹夫(1905) 6代 服部綾雄(1906)
7代 高橋徹夫(1908) 8代 岡島金弥(1919) 9代 奥田平次(1920)
10代 伊東忠三郎(1921) 11代木村正次(1924) 12代 奥田平次(1925)
13代 平出亀太郎(1926) 14代 伊東忠三郎(1928) 15代 曾和徳三郎(1929)
16代 沖山栄繁(1930) 17代 有馬純義(1932) 18代 伊東忠三郎(1934)
19代 三原源治(1935) 20代 前野邦三(1937) 21代 有馬純義(1938)
22代 三原源治(1938) 」(代数、就任年は文献による)
以上のように日本人会は多くの卓越したリーダーシップを有する人達により、日系人社会の発展のために、尽力したことが伺える。
次回はコミュニティチェストとポトラッチ祭についてお伝えしたい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
①在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年
②伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年
③坂口満宏 『日本人アメリカ移民史』不二出版、2001年
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。
『北米時事』について
鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。