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『北米時事』の歴史(後編)〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史新年スペシャル

『北米時事』1918年4月29日号「本紙五千号運動会」

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

筆者:新舛 育雄

新年スペシャル  『北米時事』の歴史(後編)

前回に引き続き、シアトル日本人コミュニティを支えた邦字新聞『北米時事』について、当時の様子がわかる記事をお伝えしたい。後編では、1918年から1942年頃までの特筆すべき記事を取り上げる。

5000号記念

創刊から16年が経った1918年、発行5000号に達した『北米時事』は、その節目を大きく祝った。創刊時発行人だった隅元清(くまもときよし)から、会社の経営が有馬純清(すみきよ)へ引き継がれた1913年から5年後のことだ。

「5000号」1918年3月29日号

『北米時事』1918年3月29日号「第5000号」

この日の新聞は5000号記念ということで、本紙に関係記事と附録32ページが掲載され、5000号祝い一色となっていた。広告もすべてに「祝5000号」と書かれ、シアトル在住日本人をあげて祝した。

松永領事は「『北米時事』の第5000号を祝す」として「創刊以来16年経過し、今日の盛況は本紙の経営者と従業員の普段の努力に依るもので、敬意を表する。『北米時事』は在米同胞の大多数に対し智識と慰安を供給してくれ、同胞社会の発展に極めて大きな貢献を果たした」と評した。 後にアメリカ大使となる当時サンフランシスコにいた埴原正直通商局長からの祝辞もあった。

「本紙5000号祝会」1918年3月30日号

「3年前、4000号の祝会を日本館で開きたる時、会衆場外にあふれて、不満足の向きも少なからず。この経験によりて、今回5000号祝会は野外において園遊会を開く事に内決。追って天候を見て期日場所その他順序を発表予定。在留同胞全部そろっての来会を希望す」

「本紙5000号運動会」1918年4月29日号

『北米時事』1918年4月29日号「本紙五千号運動会」

「昨日開催した本紙5000号祝賀大運動会は朝来稀なる快晴で大成功という一語につき、本社の光栄とする処である。会場リバチー野球場はシチーリーグの発起で昨年建造せられ同胞間、多額の株を応募している縁深い会場であったが、同地開設以来、3000名もの入場者のあった事は記録を作った。(中略)宮崎記者の司会で、有馬社長の挨拶の後、連絡日本人会松見会長は『5000号が達成できたのは社員の奮闘、力の結果だ』と『北米時事』の社員を讃えた。来賓として松永領事夫妻、高橋東洋貿易、工藤正金銀行、菊竹正金銀行、古屋政次郎、郵船香取丸戸沢船長らが訪れた。(中略)子供から大人までの各種競技、仮装行列が行われ、特に野球大会は盛況であった。競技の合間にシアトル少年義勇軍が日米両国旗を振りかざして行進し、最後に綱引きと社員競争があり、祝賀運動会は終わった」

『北米時事』1918年4月29日号「シアトル少年義勇隊」写真

購読料値上げ

1918年4月29日号に、それまで1カ月50仙だった購読料を翌月から60仙へ値上げするという告知が掲載された。第1面掲載の「随感随筆」で「本日5000号を期して紙面を拡張したが紙代の著しい上昇、労働賃金も四五割上昇によりやむなく値上した」と説明している。50仙の購読料は創刊時からのものだった。

この頃の著しい物価上昇により同年12月1日より月間70仙となり、更に北米時事社、大北日報社共同で購読料を1919年12月1日より月間85仙とした。値上げ理由として「今後一片7仙と云ふ法外な高質の紙を使用せぬばならぬ」とある。

月間購読料85仙は当時の日本円で、約1円70銭。現在に置き換えると推計1700円ほど。この月間85仙の購読料は、1940年4月1日号でも同金額だった記述が残っているので、約20年間は同額を保っていたようだ。

1万号突破

「北米時事一万号突破、記念特別出版」1934年7月30日号

「昭和3年度を持って一時中断になっていた『北米年鑑』を復活し『西北部在留同胞住所録』を刊行し愛読者諸氏へ無料配布致す」

1934年7月2日号が10034号になり、同年5月下旬に1万号を達成したものと推測される。復活した『北米年鑑』1936年版を、この年に再渡米した2世の筆者の父、與(あたえ)は大切に保管していた。

日本人会長としての有馬純義

有馬純清(すみきよ)が社長を退いた後、長男の有馬純義(すみよし)が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーのためにも活躍した。

1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に有馬純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。

「有馬氏帰国」1938年3月4日号

「本社有馬純義は予て帰国準備中であったが、本日出帆の氷川丸にて家族同伴にて約3ケ月の予定で帰国」

「有馬氏へ留任勧告」1938年3月5日号

「昨日開いた日商臨時役員会で名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏の列席を求め、新たに選ばれた有馬会長辞任の件につき協議して、留任を勧告する事に決し、直ちにバンクーバーに今朝入港する氷川丸までその旨打電」

「北米春秋:離愁」1938年3月8日号

有馬純義は氷川丸船中からこの時の心境を次のように語っている。

「僕の出発に当たり、二三の人々から『日本人会をどうするのか』と質問され詰問された。それに対して僕は答える言葉がない。然し乍ら僕にはどういう責任があるのだろうか。一船延ばせぬかという忠告もあった。それには困るが又感謝もする。

僕は自ら不正はして居らぬと確信している以上、たとえ一時の誤解を招くとも、必ずその誤解は分明すると信じているからだ。何故自分の信念が人々にわかってもらえないのだろうかと憂ふることはない。やがて解る。(中略)

僕が時に日会に対して苦言を呈するのは日会を愛する故にだ。どうでもよいと思えば何を好んで苦言など呈しようか。僕に日会長たるの野心ありと、或る人々が云っているそうだが、そんなにまで思われる程、僕は不徳なのだろうか。勿論僕は何の弁明の必要は認めぬ。だが残念に思う。僕は会長に選挙されてそれを知らぬふりして日本に帰るのではない。僕は最初から今日の事情においてそれをお断りしてある。一体この無理は何処にあるのか。そして何故に追ってくるのか。僕は敢えて一部有志家諸君の猛省を促さざるを得ぬ。而して大多数の同胞諸君の正しき判断に信頼するものである。(3月4日、氷川丸船中にて)」

「本社の有馬氏帰米を延ばす」1938年 7月11日号

「有馬純義氏は健康を害し保養のため今春一時帰国したが依然健康を取り戻すに至らず。帰米を延ばす。(中略)今回帰米期を延期し健康回復の上で渡米する旨の通知があった」

「有馬会長の辞表受理」1938年 9月3日号

「日商臨時役員会が昨日開催され、有馬会長辞任の件に関し種々協議の結果、之を受理することに決した」

有馬純義が日本人会長職を辞退した真相は定かではないが、日本人会長職は本来奉仕機関のリーダーであるべきものが、名誉職化されていることへの反発が、辞任の原因ではなかったかと筆者は考える。有馬純義はシアトル日本人社会のために働きたいという強い奉仕精神を持っていたようだ。

新聞記者としての有馬純義

有馬純義が『北米時事』に投稿を続けた連載コラム「北米春秋」から、同氏の記者としての立場が分かる記事を紹介したい。

「北米春秋:移民地新聞記者の悲哀(一)」1935年10月29日号

「移民地の新聞は比較的自由である筈だ。日本のそれの如く、官憲の直接の圧迫、干渉もない。記事の禁止など云ふこともない。記者の自制—常識と見識の判断によって自ら制する以外に筆の自由の束縛するものはないはずだが、なかなかそうは行かぬ。『あそこの店は安くて品が良い』と書くと、こちらの店から不平が出る。あそこの店を除いて書くと『こちらのはまずいか』とおっしゃる。活動写真があったら必ず景気がよくて満員で、写真は文化的で教育的だと書かねば承知されない。この調子だと移民地の新聞記者はたいこ持ちでなくば務まらぬ。人口の年々減ずるこの時代には、誠実大儀に頭を下げるより他はない。編集の方は兎(と)に角(かく)、営業の方では喧嘩が何より禁物だ」

「北米春秋:一読者としての北米時事への注文」1939年4月22日、24日号 

「僕は今、日本からも毎日、本稿の原稿を書いては、船便ごとに送って居る。僕がポートランド支社で通信の筆をとるようになったのが1917年だから、それ以来北米とは二十何年かの関係だ。

僕は米国から送られてくる『北米時事』を一読者として読む。編集の諸君にも相談し、又一般読者諸君の要望はどうか、考えてみたいと思う一つの問題がある。最近、余りに日本のニュースのみを重く取り扱い過ぎることである。(中略)在米同胞が何より先に聴きたいのは日本からのニュースだ。それと同時に是非とも知っておらねばならぬのは米国の事情だ。前者に対しては、邦字新聞は今や百パーセントのサービス振りだが、恨むらくは後者に対して充分に手が届いておらぬのである。(中略)米国議会のニュース、経済界の動き、或はシアトル市政の模様、米人社会の動きなどと云ふことは米国に在住するものとして是非一通り注意し知って置かねばならぬ事柄である」

1939年頃は日米関係が悪化してきた時期だが、有馬社長は『北米時事』がシアトルに住む日本人にもっとアメリカの情報を提供し、日本人が米国と共存共栄していけるようにすることが邦字新聞の役目だと主張している。

日米大戦突入と、社員による発行継続

1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。

「社告」1942年1月2日号

『北米時事』1942年1月2日号「社告」

日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。

「米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思ひ、その筋の諒解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。

其の間本社は資産一切を封鎖されましたので直ちに特別ライセンス下附方を願ひ出し、許可のあるのを一日千秋の思ひで待ち侘びましたが、遂に昨年中の間に合はず、集金は勿論、広告の整理等全くなし得ない儘(まま)に越年したのであります。従って新年号の発行も全く不可能となり、其の上読者並びに広告主に非常な不便迷惑をかけました事に対しまして甚だ恐縮して居ります。併し今日まで本社員は殆ど無給料の状態で朝となく夜となく大きな犠牲を払って日本人社会の利益の為活動して居るのでありますから、其の点御了承の上、御寛容願ひたいと思ひます。尚新年号に代へまして1月2日より平常通り本紙の発行を継続する方針でありますから、読者及び広告主の理解ある精神的、経済的後援を願ふ次第であります。本社員一同」

当時の発行を続けた社員ら状況と、その思いが伝わる内容だ。

大戦開始の翌日に発行ができた理由は文献に、「北米時事社の編集責任者代理となった日比谷隆美氏がアメリカン・ジャパニーズ・コーリア紙(週刊英文紙)のジミー坂本氏に依頼して、ワシントン州検事総長の諒解をもらった」からだと記述がある。

「元気に自治生活」1942年1月30日号

開戦直後から連行されて、モンタナ州のフォート・ミズーラ抑留キャンプへ収容された人達が、役員を設けて元気で自治生活を営んでいる記事が掲載された。記事によれば、北米時事社でタコマ支社に勤務していた山口正氏が購買部長として役員の一員を担っていた。

日系人強制収容と最後の発行

2月19日には、フランクリン・ルーズベルトによる大統領令9066号が発令されて日本人及び日系アメリカ人の強制収容が現実化することとなった。

そんな中、読者へ経済支援を切望する社告を度々と出しながら、社員らは発行を続けた。手を差し伸べる人々もあったようで、2月24日号には「療養所内同胞患者からの後援に感謝」という旨の社告、2月25日号に「某氏から本社員へオレンジ一箱寄贈」という記事などがあった。

3月6日号から11日号まで「経費節減と一日でも長く発行を続けるために発行部数の削減し、一部の読者に発送の停止をせざるを得ない事態である。経済的後援を日比谷隆美宛に送付してほしい」との社告が出された。

『北米時事』1942年3月6日号「社告」

「これが最後の発行 」1942年3月12 日号

『北米時事』1942年3月12日号第一面「 This is our last shot in writing」

1942年3月12日、遂に『北米時事』の発行は終止符を打つこととなった。シアトル市内の日本人全てへ立ち退き命令が下された4月21日の1カ月ほど前だ。同日号第1面に、その終止符を打つ英文が掲載された。日本文に直すと次の通りだ。

「明日から、『北米時事』は休刊となる。どの位休刊が続くかよくわからない。しかし、今朝、米国財務省から『北米時事』の発行を中止せよとの命令がきたため、最終的な決定に達した。

日本人住居の活動を正確に説明するために、『北米時事』の記事を常に楽しみにしてきた北西部の何千人もの読者にとって、非常に残念なニュースだ。

1902年に創立された『北米時事』が北西部で最も古い日本語と英語のファミリー新聞であるのに、出版を中断しなければならないことに、私たちは落胆している。

米国司法省、戦争担当省、その他の政府機関に対して、貴重な情報を公開する媒体として日本人に奉仕することができなくなったことに、私たちはより失望している。

少なくとも日本人が強制収容されるまでは、アメリカの理想と民主主義国家市民として軍や政府役人への忠誠をそのまま維持できるように『北米時事』を続ける必要があると思っていたので、その失望は大きい。

この版は、『北米時事』は「30」と言い、「30」の結末で、編集者は心底、新聞の日本人読者が米国への信頼を失わないことを望み、米国の国策としての戦争を支持し続けることを望んでいる」

「30」とは筆者の推測だが第1面英文の記事項目数「30」(大文字見出し総数に該当)と見た。30総てが『北米時事』が精魂こめて書いた記事だった。英文の最後に「bf」と書かれており、英語編集者のバド更居(ふくい)が筆者だと推測される。

同日号第三面には日本語で、「本紙は一時休刊」と題して次のように掲載された。

『北米時事』1942年3月12日号第三面
「本紙は一時休刊」

「本社は米日開戦以来悪戦苦闘、今日まで同胞社会への奉仕を続けて来ましたが遂に本日政府の命令により一時休刊せねばならなくなりました。同胞社会にとって最も重大な時局に於て発行を一時でも停止します事は本社員一同今日までの苦闘に鑑みましても此の上なく残念なのでありますが、政府の命令とあれば如何とも出来ないのであります。

併し本社としましては直ちに各方面の発行許可を仰ぐべく交渉を開始して居るのでありますから、この難関打開の道が開けるものと信じて居ります。若し再刊の許可がありました際には再び全読者の御愛読を御願ひしたいと思います。

最後に今日まで精神的に又財政的に御後援を願ひました読者、広告主諸氏に対し深く感謝の意を表すると共に前途の多幸を祈るものであります」

『北米時事』最後の号は、第1万2278号だった。約40年間にわたりシアトル日本人社会を支え続けた同紙が1つの歴史に幕を閉じた。日米大戦という難局時に、長い歴史で培った強烈な使命感を持って発行を続けた社員らには感服する。日比谷氏と狩野氏はその後、『北米報知』としての戦後の再生に加わり、北米報知編集長を務めることになる。

次回は1918年から1920年頃に掲載された写真結婚についての記事についてお伝えしたい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献

①伊藤一男 『続北米百年桜』日貿出版、1971年。②伊藤一男『アメリカ春秋八十年-シアトル日系人創立三十周年記念誌-』PMC出版社、1982年③『北米報知』創刊百周年記念号、2002年秋。④有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年。

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。