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名物バーテンダーは88歳 創業115周年を迎えるまねきレストラン

シアトルで現存する最古の日本食レストラン「まねき」(304 6th Ave. S., Seattle, WA 98104)が、今年で創業115周年を迎える。おふくろの味を思い出させる家庭料理と、どこか懐かしい店の佇まいで、今日も多くの人に親しまれる同店には、56年にわたりバーテンダー兼ホステスとして店に立つ女性がいる。「ふーちゃん」ことフサエ・ヨコヤマさんだ。インターナショナル・ディストリクトがまだ日本町だった頃を知る生き字引のひとりで、今年88歳になる。

「子どもの頃、レストランは私にとって巨大で美しいお城のような存在だった。そこで遊んだことも、当時習っていた日本舞踊を1度踊ったこともあったね」。フサエさんは、日本町育ちの日系3世。まねき近くのトウゴウ・ホテル(現在はパナマ・ホテル隣の駐車場)に暮らし、家では日本語を話した。1世だった祖父母から、日常のカジュアルな日本語から敬語まで、話せるように教えられていたという。

第二次世界大戦でアメリカ本土の日系人強制収容が始まり、フサエさんも家族とアイダホ州のミニドカ収容所へ送られた。まねきも閉店を強いられた。日系アメリカ人にとって辛い時代だったが、「実を言うと、私たち子どもは楽しんでいましたよ」とフサエさんは言う。「私の父と祖父は、仕事を含む全てを失いました。でも子どもたちにとっては、収容中みんなで一緒にご飯を食べたり、学校や教会に行ったり、とても良い思い出。1日3食が与えられ、3時にはおやつもあった。聞こえが悪いかもしれないけれど、私たちは食糧難だった戦時中の日本にいた人々よりも、ずっとましだったと思う」

かつての日本町の様子についても教えてくれた。現在、パイオニア・スクエアとなっている海側付近までが日本町で、多くの日系人経営の商店やレストランが並んでいた。「午前1時か2時に歩き回っても怖いと感じることはなかった。誰も自分の車や家を施錠するなんて考えなかったよ」

1948年、フサエさんは17歳の時に、かねてから好意のあった日系人男性と結婚。6人の男の子に恵まれた。「主人は昔、歌舞伎をやっていて、私が9歳か10歳の時、恋に落ちたの」。まねきに勤務し始めたのは、1960年代初頭。フサエさんの息子たちも全員、レストランで手伝いや皿洗いとして働いた。「17人の孫のうち3人も、まねきで働きました。みんな、まねきが好きだったし、女性スタッフも彼らをかわいがってくれました」

当時カラオケもあった同店は、午前2時まで満席(現在、バーは午前12時まで営業)。バーテンダーとして働くフサエさんが客に「もう閉店の時間だから早くお酒を飲み干して帰りなさいよ」と言っていたほど、活気に満ちていた。1960年代後半には、しろう寿司の創業者で現在も寿司かしばで握り続けている加柴司郎氏が、寿司職人としてまねきに入る。そしてシアトル初の寿司カウンターを持つと、すぐに人気となった。フサエさんは今でも加柴氏と家族ぐるみで親しくしている。

まねきには、日本の映画スターなど数々の有名人も訪れた。昨年亡くなった有名シェフ、アンソニー・ブルダン氏も来店している。「(マイクロソフト創業者の)ビル・ゲイツに、IDを見せてくださいって言ったんですよ。お酒を注文する全員に身分証を見せてもらわないといけないから。するとボスが私に、ビル・ゲイツに身分証を尋ねたの?と、驚いて聞いてきましたよ」と、フサエさんは笑いながら当時を振り返る。

フサエさんは現在、日曜と火曜の週2日、来店者を笑顔で迎えている。シアトルの日本町で人生の大半を過ごし、成人してからほとんどの時間を、まねきで過ごした。インターナショナル・ディストリクトの至る場所に、思い出の多くが詰め込まれている。「良いことも悪いことも両方あったけれど、ほとんどが良い思い出だね」と、フサエさんは微笑む。「インターナショナル・ディストリクト、日本町は私の人生。私は町もまねきも愛しているし、今後も変わらないでしょう」

(文:ブルース・ラトリッジ、翻訳:小林真依子)