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語り継がれる、戦時中の収容所での暮らし~アイリーン・マノさん~

文:長谷川美波

アジア系移民の歴史を伝承するウィング・ルーク博物館のシアターで、家族の移民の歴史と戦時中の収容所での生活を語り継ぐ女性、アイリーン・マノさん。ケン・モチヅキさん著作で、アイリーンさんの家族の戦時中の収容所での生活を綴った記録「Minidoka Memoirs」にも登場するアイリーンさんの話を、今日はユダヤ人学校の生徒およそ30名が真剣な眼差しで聞き入っている。「収容所では何を食べていたの?」「どうやって生活に必要なお金を稼いでいたの?」と小学生たちからの質問はつきない。

アイリーンさんの両親が広島から移民した1920 年代は、日系1世たちの農業や自営業での成功によって、日系社会が大きな経済的繁栄を遂げた時期でもある。1930年のシアトルには最大で8,500人の日系人が住み、ロサンゼルスに次ぐ北米最大規模の日系人口だったと言われている。シアトルを代表するパイクプレイス・マーケットも、当時は販売者のおよそ75%が日系人だった。

しかし、1929年の世界恐慌と日中戦争の時代から日米関係の雲行きが怪しくなってくると、日系社会も厳しい立場に追い込まれた。戦争が始まる前の日本人に対する差別は凄まじかったとアイリーンさんは語る。

「戦争前の時代は戦後よりもずっと強いアジア人に対する差別がありました。ヨーロッパ系移民とは見た目が違って見えるというだけで、仕事は無いし、土地を持てなかったり、特定の区域に住まなければならなかったり、夜8時以降は危なくて出歩けませんでした」

そんな状況下で勃発した1941 年のパールハーバー攻撃。FBIはアメリカ在住の日本人をスパイ容疑で次々に逮捕し始めた。アイリーンさんは「Minidoka Memoirs」の証言でこう語る。

「今日はこの人が、今日はあの人が(連れていかれた)って、私たちはまるで生き地獄に住んでいるかのようでした」

そして1942年2月に日本人と日系の血を引く子孫全員に強制収容命令が発令されると、アメリカ在住の日系人は10日以内に荷物をまとめて収容所へ向かわなければならなかった。収容命令はアメリカ在住の日本人のみならず、アメリカ国籍を持つその子孫たちもその対象となり、その数は12万人にも上った。

「収容所へ持っていくのが許されたのは、1人につき1つのスーツケースのみ。生活に必要なものを詰めました。衣服はもちろん、お皿とかも。必要だと思ったからね」

全米には10か所の収容所が建設され、アイリーンさんとその家族はアイダホ州にあるミニドカ収容所に送られた。荷物を抱え、どこに行くのか、いつ帰って来られるのかも知らされないまま古い列車に乗り込み、不安と恐怖と共に到着まで2日と1晩を過ごした。

「アメリカ政府はそんな厳しい差別から日系人たちを『保護』するためだと言いました。でも実際のところは、日系人たちが農業や自営業で繁栄しすぎていたというのも強制収容された理由の一つだと思います」

「私はまだ若かったから、あまり影響は受けませんでした。でも両親のような日系1世にはとても残酷なことだったと思う。移民してきてから必死に積み上げてきた土地や財産を全て取り上げられた訳だからね。両親はとても怒っていた。だけど文句を言わずに我慢していた。文句を言わずに勤勉に働くいつもの日本人のように」

夏は太陽が照り付け、砂漠の中に隔離されて建設された収容所は、厳しい環境にも関わらず、やがて日系人のみが生活し、日本の習慣が残るもう一つの「日本町」と化した。じゃがいもや豆などの食糧は配給されたが、収容所の周りに日系人が新しく水を引いて多くの畑を開拓したり、庭師によって日本庭園が造られたり、大工が家具を作るなど、多くの日系人が主体的に自治に関わった。現実を受け入れ、何とかして生活を切り開こうとする日系人たちの姿がそこにはあった。

収容所の生活中、アイリーンさんはどんな気持ちだったのだろう。

「両親は日本人だけど、私はアメリカで生まれ育ったアメリカ人。それなのに収容されないといけないのは変な感じがしたし、プライバシーなんてものは何もなかったけれど、徐々に現実を受け入れつつあった」

収容所内の各ブロックにはアメリカ政府と住民たちの連絡伝達のために自治会が設けられた。アイリーンさんの父は日本語と英語のバイリンガルだったことから自治会の理事として関わったが、様々な問題に直面したという。特に、若い日系二世をアメリカ軍隊に召集しなければならない時には住民から非難の矛先が向けられ、家の近くに父の名前が刻まれた墓石を置かれたこともあった。

「もうすべての財産を失っているのに、それを取り上げた国のために子どもまで失わなければならないのかって。ほとんどの二世部隊は生きて来られなかったから」

日系移民が経験した、第二次世界大戦。私にとっては全く新しく学ぶ歴史だった。日本で勉強した戦争の歴史とは全く異なる。日系1世とその子孫たちはどれだけの恐怖と困難を経験してきたのだろう。私は想像することしかできないが、アイリーンさんの隣に座って聴く体験談にはリアリティがある。日系移民150年の歴史を振り返る上で、通り過ぎることはできない、第二次世界大戦の歴史。日系移民たちの軌跡を辿ることは、日本人としても強いつながりを感じると同時に、その記憶が語り継いでほしいという気持ちになる。

【ビデオ】ミニドカ収容所の様子、家族の移民についてを話すアイリーン・マノさん(音声英語)

上智大学文学部新聞学科在学中。シアトル大学で交換留学生として1年間ジャーナリズムを学ぶ。日本のテレビ局でのインターン経験から、留学中もメディアを極めに北米報知の門をたたく。日系移民の歴史に関する「ファミリー・ヒストリー」の連載を担当。バスケ歴10年で、ワシントン州でハイキングに目覚める。ラトルスネーク・トレイルがお気に入り。