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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル 第6回 與の教育 

新舛與右衛門(しんます よえもん)ー 祖父が生きたシアトル

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

第6回  與の教育

前回は與右衛門がワラワラで営む理髪業の絶頂期についてお伝えした。今回は與右衛門のもう一つの課題であった、與の教育を取り上げることにする。

二世の教育

ビジネスの成功に加えて、與右衛門のもう一つの大きな課題は、長男である與の教育だった。與の名前は、與右衛門の一字をとって「すべてを與える」という意味で名付けた。娘二人は日本に残したが、長男の與はアメリカで教育したいという強い気持ちで日本から呼び寄せた。そのかわいがりようは尋常ではなかった。與右衛門はアメリカの地で與を教育して、自分の後を継いでもらいたいと思っていた。

シアトルでは、1912年頃から1920年まで続いた写真結婚により多くの日本人女性が渡米。次々に二世が誕生し、日本人家庭ができあがっていった。二世はアメリカに生まれたアメリカ人で、家では日本人の子供として一世の親と暮らすが、家を出ればアメリカ社会の文化に浸る時間が圧倒的に多かった。このため、ほとんどの二世は日本文化のことはよく解らず、日本生まれの一世とは全く違うキャラクターをもつことになる。日本語や日本文化が解らない二世の教育が、シアトル日系人社会の大きな問題になっていた。

シアトル市年齢別人口グラフ、1920年10月(『米国西北部在留日本人発展略史』より、アメリカ出生と日本出生のグラフは『北米年鑑』1936年版からの推測値)

1920年はシアトル市の日本人人口が9066人と歴代で最も多い年だった。21から37歳の壮年期の日本人が4143名に達し、シアトル日本人町を支えていた。そのほとんどが日本生まれの一世だった。一方で、14歳以下の子供が2248人おり、そのほとんどはアメリカ生まれの二世だった。與もこの調査時には6歳で、日系二世の一人だった。

二世の教育のために、シアトル日本人会は1908年にシアトル国語学校を設け、小学生を対象に日本語の読み書きを教え始めた。シアトル国語学校は二世の増加と共に拡大されていった。1920年にはシアトル市公立小学校に通学する学童総数4万1809名のうち806名が日本人学童で、その内251名が公立学校の放課後に国語学校へ通学していた。日本生まれの一世は、アメリカで生まれた二世に、日本語と日本文化の習得を望んでいた。

二世である與は、1920年9月の6歳の時に日本へ帰国し、3年半という短期間ながら蒲井での生活を経験して日本文化に浸ることができた。地元の小学校へ通い、読み書きも習得し、近所の子供達と遊んで自然と日本語を学ぶことができた。蒲井での3年半の生活で、シアトルの国語学校と同じことを実践で学べたことは大きく、與は当時のシアトルにいた多くの二世とは違う経験を積んだといえる。

ワラワラ公立学校への入学

1924年夏に與右衛門がワラワラへ転居し、與はワラワラの公立学校に入学した。この時、與は9歳。当時のアメリカ公立学校は6歳で入学だったから、與はほかの子供より3年遅れたことになる。與にゼロからアメリカの教育を受けさせた方がいいという與右衛門の配慮があった。

入学した公立学校はベイカー・スクール(Baker School)。通学した当時の記録が詳細に残っている。與は1年生として入学してから、1928年までの4年間在学した。

ワラワラ公立学校在学時の成績表。「Pupil’s Report」1926-1927年

ベイカー・スクール在学期間中の学業成績表「Pupil’s Report」計8通には、左上に與のアメリカ名John Shinmasu と、学年、クラス名、先生のサインがある。左下にはクオーター毎のY,Shinmasuのサイン、右上には出席状況記録も見られる。右中央から右下にかけて各教科の評価がされている。算数(Alithmetic)、英語(Language)、地理(Geography)、歴史(History)、読み方(Reading)、書き方(Spelling)、音楽(Music)、図画(Drawing)、体育(Pysical training)の計9科目。評価は、90点以上がExcellent、80点以上が Good、70点以上が Fair、60点以上がPoor 、60点未満はVery Poorとなる。與の評価を見ると、1年生のころは普通の成績だが、だんだん成績があがり、2年の後半以降はほとんど90点以上の成績だった。全く日本語環境がない現地学校でアメリカ人と同じことをやらなくてはならない環境にあったが、驚くほどよい成績であった。與にしてみれば、生まれて6歳まではシアトルにいたため、自分が日本人という感覚よりも、アメリカ人と同じという感覚であり、難なく周りの児童にとけこんでいたようだ。與は3年半ほど日本で日本語の勉強もしたため、日本語も英語もわかるバイリンガルで、当時としては珍しい存在だったかもしれない。

與はワラワラ公立学校の2年生の時から3年間、無遅刻、無欠席の皆勤賞を3回もらっていた。その皆勤賞の表彰状も残されている。表彰状には5年生であることが記されており、ワラワラ公立学校4年目には5年生になっていた。與が学業優秀で、体も元気だったことが窺える。

シアトル公立学校への転校

與右衛門は1928年夏に本拠地を再びワラワラからシアトルへ移した。この時、與は慣れ親しんだワラワラを離れることがいやだったようだ。ワラワラで家族ぐるみでつきあった友達との別れはつらかった。しかし、與右衛門に従って1928年9月にワラワラからシアトルの公立学校へ転校した。

1928年9月からのシアトル公立学校での成績表が残っていた。ワラワラの時ほどはよくなかったが、與は1929年1月から6Aクラスへの進級が認められていた。與は13歳で6Bクラスに入り、9月6日に誕生日を迎え14歳になった。このころ写された写真が残されている。

與14歳、シアトル公立学校在学時の写真 1928年

当時の生徒集合写真もあり、二列目中央付近に與がいる。筆者はこの写真を見て、驚くことがあった。それは小学校高学年の男女の生徒が一緒に並び半数以上を占める女の子が前列の中心におり、男の子は後列にいたことだ。当時の日本の小学生高学年ではありえないことだった。與は同じクラスのアメリカ人の男の子と親しくなり、友人同士となった。與は新しい環境になじむのが早く、友達もすぐに作ることができたようだ。その友人とは家族ぐるみの付き合いをした。このアメリカ人の母親と兄弟姉妹の写真が、後に與がシアトルを離れた時、送られていた。

シアトル公立学校在学時の成績表「Quartely Report」 1928-1929年

成績表裏の一番上には出席日数が記載されていたが、気になる点がいくつかあった。無欠席が続いていた與の出席表に、1928年の11月と12月に休みが7日あった。1929年1月以降は出席日数5日のみだった。その下に親のサインがあり、それまでの與右衛門のサインから、11、12月にはアキのサインに変わっていた。そして一番下の欄には、2月1日に転校、退学の証明書が書かれてあった。1928年の年末に與の周囲で大きな異変が起こったことを示すものだった。

與右衛門は、與が少し遅れて入学して、アメリカの学校でやっていけるだろうかと心配したが、與は自然に学校にとけこみ、しかも優秀な成績であったことで安心した。

與右衛門が與に無理を言って1928年夏にワラワラからシアトルへ転校させたことには大きな理由があった。それは、與右衛門の新たな大きなビジネスへの挑戦だった。與右衛門は、シアトルでホテル業をやろうと準備を始めていた。

参考文献:竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。米国西北部連絡日本人会編算『米国西北部在留日本人発展略史』1923年。奥泉栄三郎監修『シアトル版日本語読本1920‐30』文生書院、2012年

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。