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インタビュー ポップアーティスト ケン・タヤ(Enfu)さん

異文化問題を浮き彫りにしたり、綿菓子のように甘くライトなモチーフを描いたり。ファンからは  Enfu(猿風)の名で知られる、ケン・タヤさんのポップアートは、シアトル地域の街角、レストラン、ショッピングバッグなどで、多くの人の目に触れている。アメリカで日本人両親の元に生まれ、日米文化の狭間で育った自身の体験談と、その影響を受けたアート作品について語ってもらった。

 

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:渡辺菜穂子

ポップアーティスト
ケン・タヤ (Enfu)さん
Ken Taya(田谷健太郎)■ シカゴで生まれ、デラウェアと仙台で育つ。シアトル地域を拠点として活躍するポップアーティスト。アーティスト名はEnfu(猿風)。Blue C Sushiレストランの壁絵、宇和島屋のショッピングバッグ、インターナショナル・ディストリクトのゴミ箱など、地域に根ざした作品に加え、ポスター、ステッカー、印刷物、帽子、ヘアバンド、画集なども販売されている。KOBO at Higo、Kinokuniya、Pink Gorilla、Giant Robotなどで購入が可能。ジャパンフェスティバルや西海岸のコミック・コンベンションなどに積極的に参加している。また、「Scribblenauts」や「Halo 3」などのヒットゲームを手がけたベテランのゲーム・デザイナーでもある。現在は、妻のイクコさんと娘のエリカちゃんと共にベルビュー在住。

自分の道を見つける

アジア系のポップカルチャー雑誌『Giant Robot』と、その編集長であるエリック・ナカムラ氏(雑誌は現在廃刊、エリック氏は同名会社を経営中)との縁がなければ、アーティストになっていなかったと思います。ワシントン大学在学中、たしかシニアの年に『Giant Robot』を目にして、アジア系アメリカ人のアーティストが存在するのだと知りました。私は美術館に足を運ぶような人間ではなく、それまで知らなかったのです。この時初めてアジア系アメリカ人によるポップカルチャーの世界を発見し、「私にもできるかもしれない」と思ったのが、自分の道を考え始めるきっかけとなりました。当時は運送業者として働いており「時計を眺め、5時になるのを待つ」ような仕事に疑問を感じていました。かといって別に目的もなく、何をしていいか分からず、ただ毎日が過ぎていく。一つ確かなことは、親に言われるがままの人生は嫌だと思っていました。

子どもの頃からアートが好きでしたが、大学を卒業してから本格的に始めました。アートを志し、自分が好きなものを2つ考えました。日本のモノとゲームです。それで何ができるのか、どんな会社に需要があるのかを考え、任天堂にたどり着きました。そして、任天堂(Nintendo of America)に就職する近道として、デジペン工科大学(DigiPen Institute of Technology)を見つけました。デジペン工科大学に2年間通い多くの絵を描きましたが、卒業はしませんでした。アートの世界では、学位はポートフォリオほど重要ではありません。それよりも自分自身の作品を仕上げることに時間を費やしました。

以来、15年間ゲーム業界で働いています。これまで所属した会社はゾンビ(Zombie Studios)、NST(Nintendo Software Technology)、モノリス(Monolith Productions)、 バンジー(Bungie, LLC.)から、 5th Cell、DoubleDown Interactive、NC2 Mediaまで。ゲーム業界は変化が多いので、多くの人が会社を転々とします。実は、ワシントン大学時代に建築にも興味を持ちましたが、建築科の学生がいつも机の下で寝るほど忙しそうなのを見て、そんな生活を送りたいとは思いませんでした。しかし、結局3D 環境のゲーム制作を手がけ、建築分野の最も楽しい部分であるコンセプト設定、モデリング、構築の仕事をしています。

デラウェア州から仙台市へ

私が小学生の頃、父が東北大学に就職し、7年生の時に家族で仙台に引越しました。アメリカ生活を引き上げ、日本に永住するつもりでした。子どもだった私は「やっと自分の国で暮らせる」と思い、とても嬉しかったものです。でも、甘い考えでした。日本人コミュニティのないデラウェア州で育った私は、それまで十分な日本語教育を受けていませんでした。私の日本語力は同年代の子と比べて遅れていました。

日本では、今考えると自分でも不思議なほど多くの失敗をしました。登校初日に、校舎内には靴を脱いで入ると教えられたとは思うのですが、真っ黄色のコンバースのハイカットを履いたまま4階の教室まで行ってしまいました。周りからは反抗期だと思われたけれど、ただ無知だっただけです。また、先生を呼ぶための「you」という日本語を考えていて、授業中に先生に向かって「キミ(君)」と言ってしまったのです。クラス全員が絶句し、まるで「ちびまる子ちゃん」のワンシーンのように冷たい空気が流れました。

ガタイが良くパンチパーマをかけた 体育の先生に呼ばれて、「英語のスラッグを教えろ」と言われたこともありました。「スラング(slang)」のつもりだったのでしょうが、私は「ナメクジ(slug)」だと思って、変だなと思いながらも黒板にナメクジの絵を描くと、先生はイライラして「違う、違う、違う」と 。

そんなこんなで日本に馴染むことができず、だんだん心が壊れていきました。ただ今思うと、この時の経験から私自身のアイデンティティを構築し他者に共感する力が養われたと思います。後にアメリカの高校で インターナショナル・クラブに関わり、英語にアクセントのある留学生と交流するようになります。

小学6年生から中学1年生までを過ごした仙台の生活は、キツかったです。小6の時の美術クラスでの出来事をよく覚えています。絵を描く時間でした。先生の絵の具を借りて描いた絵を、「本当に初めてなの? それにしては 素晴らしい絵だ 」と褒めてもらったのです。とても印象に残っています。深いうつ状態にある時のささやかな光でした。絵を描くことはそれまでも好きでしたが、その時の先生の言葉で、よりアートの世界に目を向けるようになったのかもしれません。

学校で一度、泣き叫んで先生に訴えたこともあります。「みんなボクのことを笑っている。これ以上ここにはいられない 」と。すると先生は放課後にクラス全員を集め、しかし私を廊下の外に待たせて、ドアを閉めて怒鳴りました。「みんな、英語が話せないよな。その状態で、アメリカに引越してみろ。今すぐ荷造りをしろ」。とても強い口調でした。「みんながアメリカで、どれほどうまくやっていけるか見てみたい」と。

私はどうしていいか分からず、その場から離れました。すると何人かの男子生徒が探しに来てくれて、「ごめん。僕たちが悪かった。先生の言う通り、日本語や日本文化に慣れていないのは、キミのせいじゃないのに」と、態度を一変させました。そこからいい方向に流れが変わりました。先生は全面的に擁護してくれ、私の肩の荷はすっと軽くなりました。私の絵を褒めてくれた先生と同じ先生です。

しかし結局、私の父が仙台での生活は子どもにとって良くないと考え、アメリカに戻ることになりました。そして、デラウェア州の学校で 8年生を始めました。しかし、今度は英語が混乱していました。簡単な言葉まで忘れていて、「of」を「uv」とつづったりしたのです。恥ずかしくて、ますます臆病になり、内にこもるようになりました。最終的には克服しましたが、アメリカに戻っても私には逆カルチャー ショックが待っていたのです。

Enfuさんの作品「Niko Niko Boy」

絵を描くことの意味

モノを作ることで、私は元気になります。楽しみであり、リフレッシュの手段です。絵を描くのはとても孤独な作業です。多くの人が私のことを外向的でおしゃべりで陽気な人間だと言い、そういった面ももちろんありますが、白か黒かと両極端に判断できるものでもありません。私たちはみんな、いろいろな色が入り混じった性格で、そんな絵を描くことで私は自分自身でいられます。

インターナショナル・ディストリクトの日本町( Japantown)のプロジェクトのように、120から150時間かかるような大規模な制作をしていた時のことです。永遠に続く広いキャンバスに向かって絵を描き、その後朝方までゲーム「Scribblenauts」の制作に取り組むような生活で、疲れきっていました。それでも描く体力は残っていて、ささやかな達成感が欲しくて小さな作品も作り始めました。そして、「ハムスターホーク(Hamster Hawk)」のようなキャラクターが出来上がりました。数百の小さなモノが何千もの小さなモノになります。そのパターンを作るためのツールセット「Enfusoft」も作りました。城ではなくレゴのブロックを作り始めたのです。そして、それらを集めた世界「Enfutown」も作りました。

「芸術は自分のためだけにある」と言われたことがあります。「本当の意味で芸術家になりたければ、作品を仕上げて自分のガレージに保存するべきだ」と。しかし、アートは実用的で、みんなが楽しめるべきものだと私は思います。壁にかけたり、ゲームにしたり。そのためには街角や、レストランや、ノートパソコンや、携帯電話などの身近な場所やツールに作品が現れ、人の目に入ることが大事です。そこで初めて人と人が関わりあう輪の一部となります。何かを作って自分だけで楽しむこともできるけれど、他の人を楽しませることもできるのです。誰かに花をあげたら、その人が笑顔を返してくれるのと同じです。私が積極的にコミコンに参加する理由は、リアルタイムでそんな反応を得られるからです。

私が最初に描いた「Blue C Sushiレストラン」の壁絵は、アジア的なモノで満たされています。宇和島屋も背景に入っています。当時、 多くのアジア人が集まる唯一の場所で、アジア人にとっては安全で居心地の良いスポットでした。

「絵のアイディアは、どこから来るのか」と聞かれることがよくあります。それをうまく説明するのは難しいですが、私は何も書かれていない白い紙が好きです。何にでもなれます。私の可能性でもあるのです。

Bruce Rutledge worked as a journalist in Japan for 15 years before moving to Seattle to found Chin Music Press, an independent book publisher located in Seattle's historic Pike Place Market.