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INTERVIEW:プロ野球選手 岩隈久志さん

「クマ、7年間ありがとう! 」
ファンに惜しまれる中、マリナーズ退団

 

9月26日にセーフコ・フィールドで行われた、対オークランド・アスレチックス戦の試合。始球式に登板したのは、シアトル・マリナーズで数々の輝かしい戦績を残した右腕、岩隈久志投手でした。マリナーズの粋な計らいで用意された、最高の花道。自身も「引退をするわけではないのに」と驚いたという異例の登板が物語るのは、岩隈投手に向けられるチーム、そしてファンからの深い愛情です。そんな岩隈投手の人となりに迫ります。

取材・文:ハントシンガー典子
写真:栗原澄也

 

「今の野球人生があるのは、
ファン、家族、みんなのおかげ」

現役を続けていく決意

急きょインタビューが決まったのは9月10日、退団発表の前日だった。場所は、ベルビューの閑静な住宅街にある岩隈邸。インタビューの質問をじっと静かに聞きながら、言葉少なにポツリ、ポツリと答える岩隈投手からは、実直で真面目な人柄がうかがえた。この間、翌日のことがどのくらい頭の中を占めていたのだろうか。しかし、悲壮感のようなものは全く感じられず、むしろ何かが吹っ切れた、清々しさをまとっているように見えた。今季所属したマイナーリーグの試合は、すでに全て終わっていた。今からのメジャー復帰も、時期的に難しいだろう。この先の進路を尋ねると、思わず笑いが漏れる。「まだ僕もわからないですが、オファーがあればどこにでも行ってチャレンジしたいです」

それは、現役の野球選手を続けるという強い意思表示だった。現役を退いて、選手ではなく役員やスタッフとしてマリナーズに残る道もあったはずだが、岩隈投手はそれをしなかった。現役へのこだわり。妻のまどかさんはこう語る。「けがをして、手術をして、何もないところから、ようやく実戦に
出るまでになった。それが本当にうれしくて……。あの日、試合のあとは家族みんなで大喜びだったんです」

家では3人の子どもの優しいパパ。愛妻家としても知られる。義父は、元プロ野球選手で現在は楽天イーグルスアカデミーでコーチをしている広橋公寿さん

岩隈投手は右肩の負傷で2017年のシーズンに故障者リスト入り。同年9月に右肩を手術して、2018年のシーズンはマイナー契約でスタートし、メジャー復帰を目指していた。マリナーズ傘下のマイナーリーグ、1Aエバレット・アクアソックスの一員として、8月31日にトロント・ブルージェイズ傘下の1Aバンクーバー・カナディアンズとの対戦で先発し、2回を無失点に抑えた。8月26日に続く登板で、「試合で投げられる」感触をつかんだ瞬間だった。

「今の野球人生があるのは、ファン、家族、みんなのおかげです。これからも野球を通して恩返ししていきたいと思っています」

 

野球と共にあった半生

岩隈投手が野球を始めたのは小学1年生の頃。テレビのプロ野球中継を見ていて、自分で言い出したことだという。「プロ野球選手のユニフォームやプレーが、すごくかっこよく見えたんですよね。将来の夢はプロ野球選手だと、幼稚園の頃から言っていました」。草野球をしていた父の理解もあり、すぐに地元のリトルリーグに入った。あとから兄も一緒に野球を始め、リトルリーグ以外でも、友だちと公園で野球をして過ごす毎日。「今はサッカーなのかもしれませんが、昔はまだ、みんな野球でした」

ずっと野球が続けられたのは、環境に恵まれたことも大きいが、何より「野球が好きだから」のひと言に尽きる。「いろんなポジションでプレーして、どれも楽しかった。でも、ピッチャーがいちばんかっこよかったですね」。小学3年生になると、上級生の試合にも出るようになり、その頃から「自分はプロ野球選手になれる」と思っていたと話す。「とびぬけて野球がうまかったわけではないと思います。ほかにも『スーパー小学生』みたいな子は、いっぱいいましたから」。それでもプロになれたのは「たまたま」だと謙遜する。

堀越高等学校3年生の時、春の大会で勝利投手となり、相手チームの選手を見に来ていたスカウトマンの目に留まった。これがプロとなるきっかけに。「甲子園に出ないと、メディアからは全く注目されませんから。プロになるのは、運ですね」。ドラフト5位で大阪近鉄バファローズに入団するも、最
初の3年は育成期間だと言われたそう。「まずは体力を、ということで。1年目は試合にも出ませんでした」。それでも、この野球好きな少年は地道に体力づくりを行う。その結果、技術は明らかに向上した。2軍から始め、プロを抑え、勝てるようになってからは自信も付き、2年目には1軍に昇格した岩隈投手。先行きが見通せない中の体力づくりの期間、そのモチベーションはどこから来ていたのだろうか。「プロになるという夢は叶いました。あとは1軍のポジションまで這い上がっていくために、体力、技術を付けること。そうすれば、どこかでベテラン選手と世代交代があると信じていました」。今後もプロ野球選手として生きていくという実感が出るまでには3、4年かかったと明かす。

インスタグラムやブログでは、家族旅行などプライベートの写真も公開。「野球だけでは伝えられない部分を届けるようにしています。ファンからのコメントは励みになります」。日本だと家族の顔出しはしないものだが、アメリカでそれでは不思議がられると、エージェントからアドバイスをもらったそう

人生観を変えた出来事

2004年、合併問題、球界再編の時代の波が岩隈投手にも降りかかる。大阪近鉄バファローズからオリックス・バファローズへ、そこからさらにトレードで新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスへの入団を決めた。「何もないところから始めるのはとにかく大変だし、春先の仙台は寒いし……(笑)。でも、実際に住み続けると、とてもいいところで、ファンも温かかった。最初は負けっ放しだったのですが、東北の皆さんはずっと粘り強く応援してくれました」。合併問題の中で野球を続けていたオリックス・バファローズでの日々を経て、新たな気持ちで戦えた2005年からの楽天時代。「野球選手としても、人としても、いろんな成長ができました」と、岩隈投手は振り返る。

楽天に入ってから3年は、とにかくけがに泣かされた。「それまでは、ただ好きな野球をやっていました。でも、投げられない期間ができて、初めて身を切られるような思いを味わいました。それでもファンは応援し続けてくれる。僕が復活、成長することで、野球をやらせてもらっている感謝を伝えた
いと、心から思うようになりました」。そうして芽生えたのが、「メジャーリーグにチャレンジしたい」という気持ちだった。

2009年にWBC(ワールドベースボールクラシック)優勝を経験し、世界レベルの野球を目の当たりにしたことで、その野心は現実味を帯びてくる。「日本の野球とどう違うのか、肌で感じたいという思いが強くなりました。仙台で震災を経験したことも、ますますアメリカ行きの実現を目指すようになったきっかけのひとつです。僕がメジャーリーグで成功することで、東北の人を応援し、元気付けられたらと考えました」

2012年、マリナーズと1年契約を結び、ついに岩隈投手は家族と共にシアトルへ。「イチローさんがいるマリナーズだと、決まった時はうれしかったですね」。シアトルの印象を尋ねても「イチローさんがいる街」と、イチロー選手への憧れを隠せない岩隈投手。空気がきれいで、どことなく仙台に雰
囲気が似ているシアトルは過ごしやすく、すぐに気に入ったという。実際にプレーしてみて、メジャーリーグは岩隈投手の目にどう映ったのか。「日本のは野球、アメリカのはベースボール、全くの別物です。まずパワーが違う。スピードも違う。そもそも、選手の体つきや筋力が違います。あと、メ
ジャーは個人の結果が全ての世界。結果が出なければ、すぐにクビです。日本はそれほどではありません」

親しいマリナーズのチームメートとして名前が挙がったのは、フェリックス・ヘルナンデス投手。「キング」と「クマ」の愛称で親しまれたふたりは同時期に先発ローテーションに入り、一時代を築いた活躍ぶりは記憶に新しい。

「親日家で、日本も寿司も大好きなんですよ」と、顔をほころばせる。メジャーリーグで日本人選手が増えている中、アリゾナでの春季トレーニング・キャンプでは、ダルビッシュ有投手、前田健太投手など日本人選手で集まり、よく食事に出かけていたそうだ。メジャーリーグでの7年間は、けがに悩まされるなどつらい時期もあったが、日本とは違う選手生活を楽しんでいた様子が伝わってくる。

まどかさんも、こんなエピソードを教えてくれた。「マリナーズの選手たちがよく夫にテキストでメッセージをくれていたんです。2016年、プレーオフ進出をかけた試合で、夫が先発した際に勝てずに終わったら、わざわざ日本語で『くまげんきだして』『くまなかないで』とくれて、感激でした。2015年にロサンゼルス・ドジャースではなくマリナーズと再契約が決まった際もすごく喜んでくれたんですよ」。マイナーリーグでのリハビリ調整からセーフコ・フィールドに練習に戻るたびに、選手たちが必ず「お帰り、クマ!」と声をかけ続けてくれたそうだ。

「シアトルにはいい思い出しかない」。そんな言葉を残して、シアトルを後にする岩隈投手に、チームからも、ファンからも、SNSなどを通じて感謝や惜別のメッセージが寄せられている。

 

今後も日本で続けられる社会貢献

オフシーズンには、自宅やまどかさんの実家がある仙台に帰っていたという岩隈投手。楽天時代はもとより、シアトルに来てからもたびたび岩手県沿岸部の被災地に足を運び、支援を続けていた。「一体、何時間いるのと言われるくらい、いつも長時間滞在します。毎年行っていると、道が整備され、街がきれいになっていくのがわかり、1歩ずつ前進しているんだなと実感します。まだまだ心の傷は癒えていない中で、少しでも元気になってくれたらと活動しています」。仮設住宅を訪れると特に喜んでもらえるのだそう。支援する側もパワーをもらい、野球にも良い影響があると、岩隈投手は言う。震災孤児の支援や、熊本の被災地慰問も行っており、各地で野球教室を開催しては、子どもたちを笑顔にしている。

いじめ撲滅プロジェクトによる講演とディスカッション。反響が大きく、日本全国の学校、市や教育委員会から毎年依頼が届く

近年、そうした支援に同行するのは、岩隈投手が共同オーナーとして監修し、2016年3月に開校したスポーツ・トレーニング施設、IWAアカデミーの約15人のスタッフだ。「子連れでも、高齢者のリハビリでも、老若男女問わず、気軽にプロのトレーニングやトリートメントを受けられる場所を提供することで、社会貢献になればと考えました。野球に限らず、いろんな運動の技術を教えています。とても優秀なスタッフに恵まれ、みんな家族のような間柄です」。野球の技術指導では、子どもが自分の所属するチームに戻った時に結果が出ると評判。常に予約でいっぱいで、メソッドを取り入れたいという問い合わせも多く寄せられているという。

同年、いじめ撲滅プロジェクト「Be a Hero」も発足。いじめは科学でなくせるとし、学校でのいじめ以外にも、家庭での幼児虐待、スポーツでのパワハラをなくすべく、オフシーズンに講演活動をしながら日本全国を回っている。「子どものポテンシャルは先生や指導の仕方で違ってくる。スポーツをするにもまず、子どもたちの人格づくりにふさわしい教育の提供が必要。昔ながらの精神論を引きずる部活も、変わっていくべきです」

野球教室に参加する被災地の子どもたち。IWAアカデミーのスタッフと共に、岩隈投手も自ら指導を行う

地元紙やメディアでも、岩隈投手のこれまでの功績を評価している。その話になると、寡黙な男の顔に満面の笑みが広がった。次に登板する姿は、どこで見ることになるのだろうか。9月26日の始球式は、イチロー会長付特別補佐が捕手となるサプライズで幕を閉じた。大スクリーンで流れた2015年のノーヒットノーラン達成時の映像も花を添え、球場に駆け付けたファンが拍手で最後の投球を終えた岩隈投手を見送った。「感謝の気持ちでいっぱいです」。それはシアトルのファンも同じ気持ちだろう。

「僕が復活、成長することで、
野球をやらせてもらっている感謝を伝えたい」

イチロー会長付特別補佐らマリナーズのチームメート、家族、ファンに見守られながら最後の1球を投げ切った

岩隈久志■1981年4月12日生まれ。東京都出身。堀越高等学校-大阪近鉄バファローズ-オリックス・バファローズ-東北楽天ゴールデンイーグルス-シアトル・マリナーズ。日本では、数々のタイトルを受賞し、2009年WBC(ワールドベースボールクラシック)優勝の立役者。2012年よりMLB(メジャーリーグ)のシアトル・マリナーズに移籍。2015年8月には日本人2人目のノーヒットノーランを達成。2016年東京にオープンしたIWA アカデミーを監修し、子どもから大人までを対象にアスリートの経験・知見を提供している。

 

始球式を終えた岩隈投手の一問一答

 

Q マリナーズで最後のマウンドだが。
A すごく投げたい、このまま投げたい気持ち。マリナーズがこの日を用意してくれて、感謝の気持ちでいっぱい。その思いで1球投げさせていただいた。

Q 2012年にシアトルへ来て、どういう思い出が?
A メジャーでノーヒットノーランを達成できた。それは本当にファンの応援もあり、みんなの協力があっての記録。すごくうれしかったし、アメリカでの経験が自分の中で最高の財産になった。

Q メジャーでまだ投げられるのになぜ、という声もあるが。
A そこは仕方ないというか、言ってもらえるだけでありがたいと思う。

Q 捕手がイチロー、ちょっと驚いていたようだが。
A トニーさん、アントニーさんが「僕受けますよ」みたいに言ってくれていて。なかなかトニーさん出て来ないなと思って待っていたら、イチローさんだったので。イチローさんとは12年の時も一緒にやって、またここでやれたっていうのもうれしかった。イチローさんからは「お疲れさま」という言葉をいただいた。

Q 故障から復帰を目指す中で最後こういう形になって、その辺は
A 今シーズンに関しては精いっぱいやってきたし、最後は投げられる形で次につながるステップになったとは思う。今年は今年でいい勉強になった。

Q 中継ぎからスタートしたが、どんな7年間だったか。
A 先発しかしたことがなく、メジャーに来て最初に中継ぎで戸惑いもあった。チャレンジしていこうと、中継ぎから先発に這い上がる気持ちを持ちながらやってこられた。ローテーションをつかんでからは、「この5人の中からは落ちるわけにはいかない」と、強い気持ちで7年間取り組めたので、いい経験になったと思う。

Q これからオフシーズンの過ごし方は?
A 投げていきたい。ゲームでは投げられないが、毎年オフシーズンは年明けまで投げないので、それ
を今年はずっと投げていくという風にして状態をキープしたい。

Q シアトルを離れるのは寂しいか。
A 寂しい。まだまだできるなと思う。このまま試合投げたいな、と。でも本当に7年間、すごく貴重な経験ができたので、いい思い出になった。

 

ソイソース編集長。エディター、ライター、翻訳家として日米で18年の編集・執筆経験を持つ。『マガジンアルク』『日本経済新聞』『ESSE オンライン』など掲載媒体多数。2017年から現職。