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INTERVIEW:アイ・ラブ寿司グループ・オーナー社長 横山義久さん

取材・文:室橋美佐
写真提供:I love Sushi

ベルビューで初の寿司専門店を

老舗寿司屋として、日本人からも地元アメリカ人からも長年の人気を誇るアイ・ラブ寿司。ベルビューで最初の寿司専門店として1986年に創業した。「ワシントン湖を渡って美しいベルビューを見た瞬間に、ここだと思った。『俺はこの町でやる』という身震いするほどの直感だった」と話すのは、オーナー社長の横山義久さん。会って話をすれば、すぐにその非凡で、かつ人の心を一瞬でつかむような個性的な人柄が強烈に伝わってくる。

 

料理人の技が光るアイ・ラブ寿司の会席料理が寿司と並び人気を博している。写真はアイ・ラブ寿司会席 ($45)

 

「当時のベルビュー市長のキャリー・ボーズマンさんのオフィスにアポなしで行ってね。15分間という条件で会ってくれました。『I love your city. What can I do for this city? (あなたの市が大好きです。この市のために何ができますか?)』と尋ねたら、『Why donʼt you open a Japanese restaurant? We do not have one yet.( 日本食レストランをオープンしたらどうかい? まだないから)』と返ってきた。『Yes, Sir. I will do it』と言って、すぐに銀行へ資金調達の交渉に行きました」。1981年夏、横山さんはまだ35歳。「開店資金はない」「レストラン経験はない」「仲間もいない」「信用もない」の「ないないずくめ」だった。それでも、当時の東京銀行シアトル支店がなんと10万ドルを貸し付けてくれた。「思い立ったらすぐの性分。奇跡的にお金も工面できて本当に感謝しています」

同年11月には、ベルビュー初の日本食レストランである将軍レストランをMain St.にオープンした。その頃シアトル側では、武士ガーデン、日光レストラン、帝レストランなどの日本食レストランが成功していた。「ベルビューには(日本食レストランへ来るような)客はいないよ」と多くの人から言われたが、オープンできたことはうれしく、悩んでいる暇などなかったと横山さんは当時を振り返る。ロサンゼルスから友人シェフたちを呼び寄せ、試行錯誤の中で挑戦した。

転機は3年後にやって来た。23歳の日本人寿司職人が将軍レストランに入ってくれたのだ。彼が握る寿司は瞬く間に大人気になった。現在はKIKU寿司のオーナー・シェフである佐藤 忠(ただし)さんのことだ。間もなく、ベルビュー初の寿司専門店のオープンに至る。「佐藤さんは何よりも寿司を愛する職人。それでアイ・ラブ寿司。ほとんどの日本人にはそんな名前はおかしいと言われたけれど、アメリカ人は気に入ってくれたよ」と、横山さん。新規開業のために、将軍レストランは売却した。「すき焼き、天ぷらも出さない寿司専門店であればベルビュー市内に店をオープンしてもかまわないと、将軍レストランの新オーナーに許可をもらいました。おそらく当時、寿司専門店が成功するとは思ってなかったんだろうね。でも、僕は、これからは絶対に寿司の時代だってわかってました」

強い思いを実現してきた半生

横山さんは現在、アイ・ラブ寿司のほかに、シアトルの名店であるしろう寿司、サンフランシスコの高級寿司会席専門店のKUSAKABEを経営する。レストラン以外にも教育や医療機器分野で成功を収めている。横山さんのそのエネルギーは、どこから生まれているのだろうか。

親族は医者ばかりという環境に育ち、子どもの頃は自分も立派な医者になろうと懸命に勉強をしたと話す横山さん。「だけど高校生の頃から急に成績が落ち始めてね。ストレスだよ。神経性大腸炎で食も細くなって医者に通う毎日。ある日、医者からもらった大量の薬を『もう嫌だ!』って、小金井病院の近くの川に投げ捨てたわけ。それで町を徘徊していたら、ある和尚さんに救われた」

憔悴し切った気持ちで通りかかった国分寺にある寺の住職に「どうしたの?」と話しかけられ、いろいろと気持ちを打ち明けているうちに、すーっと気が楽になった。寺へ招き入れられた横山さんは、他の修行僧と一緒に境内の掃除や畑仕事などをした。「一汁三菜の精進料理をご馳走になって、昼間はよく体を動かして。そうしたら、寺へ来てから2日目の朝、目を覚ますと、ものすごいエネルギーが体の中から自然に湧いていたんだよ。今まで経験したことがなかった強くて快いエネルギーでね」。横山さんは、「家へ帰ります」と住職に伝えて帰宅。両親の前で、「私は医者にはなりません。自分の道を行きます」と宣言した。

その後の横山さんの人生は、その湧き出るエネルギーに押されるように大きく動いていく。原動力は「この人に会いたい」という「人」に対する興味だ。戦後初の国産旅客機YS-11製造の中心的役割をした木村秀政教授の本に感動し、同教授が教壇に立つ日本大学理工学部機械工学科航空専修コースに入学した。卒業前の1968年に学生紛争が燃え盛り、大学へ行けない期間、石油ビジネスで大富豪になったジャン・ポール・ゲティの本を読んで感銘を受け、ゲティ・オイルカンパニーと提携していた三菱石油(本社)に乗り込む。「三菱石油で働けばゲティに会えると思った。とはいえ、採用は超一流大学からばかりの企業。虎ノ門にあった同社本社ビルへ通い詰めて、4日目にやっと潤滑油部門部長の目に留まった。熱意を思うがままに伝えたら一発採用だったよ」

入社後はセールス・エンジニアとして、愉快に、楽しく、思い切って頑張った。しかし、入社から5年後に退社して単身アメリカへ渡ることになる。当時、よく遊びに行っていた神戸の六甲山ホテルのラウンジで出会ったギリシア船の船長から「君は海外へ出たほうがいい」と投げかけられた言葉がきっかけだった。同僚や上司、得意先の社長、仕事外で世話になった事業主など大勢の協力者から当時ではビックリの約250万円のカンパを受けてロサンゼルスへ渡った。1973年、横山さん27歳の旅立ちだった。

ロサンゼルスでは英語学校へ通い、そこでもまたドラマが起きる。「授業料は当時で月120ドルと、すごく高かった。ところが、英語教師が生徒に新聞を読ませ、自分は授業中に居眠りしてるんだよ。僕はその先生をたたき起こした」。文句を言う横山さんへ、その英語教師から意外な答えが返ってきた。「ポケットから100ドルのチェックを取り出して、『自分は2週間でこれだけしかもらってない。だから3つも仕事を掛け持ちしていて疲れてるんだ』って逆に不満をぶつけられた」。先生は横山さんより3歳年上のユダヤ系アメリカ人。授業後に英語学校の前のバーへ飲みに行き、「一緒に英語学校をつくろう」と全く金もないふたりで意気投合した。

それから横山さんはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)近くのビジネス専門学校、ソーヤー・スクール内で留学生向けの英語塾を始める。3年後の1976年には、日本へ帰国して米国情報協力センターを創業した。開校資金を借り入れようと、日本政財界の重鎮へも直談判しに行った。そのうちのひとりはなんと、パナソニック創業者の松下幸之助氏。「幸之助さんだけは(他の実業家とは)違っていた。僕がこんな調子で話すのをじっと聞いて、その最後に『私は若い人の話を聞くのが大好きです。いつも学ばせていただいています。ありがとうございました』と丁寧にお礼を言われてしまった。魂を吸い取られたような感じで、資金を出して欲しいと言い出せなくなっちゃったね」

さまざまなエピソードからは、「こうしたい」と思うことを是が非でも実現するために走り続けてきた横山さんの半生が浮かび上がる。「思いは実現する。まずは、思わないといけない。人間だけに与えられた、素晴らしい想像力と意志があるんだから」と語る横山さんの言葉は、ずっしりと説得力を持つ。

「日本人ここにあり」精神を若い世代へ伝えたい

「世界に関心を持ち、大きな志と素直な心で、伸び伸び生きる、日本の若者を育てる」。これは米国情報協力センターを前身とするエディクム社のミッションで、横山さんが常に心に思っていることのひとつだという。横山さんが1989年に知り合ってから師匠として敬う『人生を成功させる7つの秘訣』著者で経営コンサルタントのスティーヴン・コーヴィー博士の言葉を借りて、「多くの若い人に世界のあらゆる場所で『Transition Person(流れを変える人)』になって欲しい」と話す横山さん。「先人が積み上げてきたものを引き継ぐことも大事。でも、そこから改善点を探して変化を起こさないといけない。それは勇気がいることです。私の体験からして、その勇気は時として自分よがりになったり、相手を落胆させたり、怒らせたり、相互に痛みを伴うことも多々ありました。だけど、その痛みも乗り越えて、変革を起こさないといけない」

川崎さん(左)と横山さん(右)の出会いは、ハワイにあるタイムシェア・ホテルのメンバー・ラウンジだった。横山さんが、川崎さんと9歳になる娘さんの会話をそばで聞いていて、

その愛情と信頼にあふれる内容に感動をして声をかけたそう

アイ・ラブ寿司は今年5月に新副社長を日本から迎えた。兵庫県に7店舗の調剤薬局と北海道札幌市に2店舗の日本食レストランを経営する川崎博之さんだ。今年48歳の川崎さんは、横山さんの24歳年下で、同じ戌年。上品な関西弁を話す落ち着いた雰囲気の川崎さんを、「僕とは正反対のエネルギーの種類と出し方を持つ人物。だけど、価値観で一致している」と横山さんは紹介する。その価値観とは、人との相乗効果(シナジー)を大事にする点だという。夫婦、家族、ビジネスチーム、あらゆる人間関係で「相乗効果をいかに発揮するか」を人生のテーマとする横山さんが、川崎さんを後継者として迎えた理由でもある。川崎さんもまた、「社長(横山さん)の『日本人ここにあり』の精神を引き継ぎながら、新しいものを取り入れて、ここからさらに100年続いていく会社にしていきたい」と意気込む。今後のアイ・ラブ寿司グループの展開が期待される。

毎日午後5時から6時半まで15食限定で販売している一汁三菜料理($30、要前日予約)。

体にやさしいメニューとして、健康と美容を意識するシニアにおすすめ(写真:Nelson Lau)

「私は思いが強い人間です。その思いに従って動く。だから周りの人たちは大変ですよね。苦労もかけました」と語る横山さん。話の随所で、かつて世話になった人物、一緒に働いた人物の名前を思い出しながら、「あの人には大変世話になった」「あの料理人は本当に素晴らしかった」と回想する。実に、シアトルのレストランでオーナー・シェフやヘッド・シェフとして活躍する日本人の多くがアイ・ラブ寿司で働いた経験を持つ。「日本には資源がないと言われるけれど、日本料理と日本人料理人こそが世界が欲しがる日本の資源。おいしいものを食べることは幸せの原点。素晴らしい日本の食文化を通して、たくさんの日本人が世界で活躍していける場を作りたい」と語る横山さんの思いは、世代を超えてシアトル日系コミュニティーにも根を下ろしていきそうだ。

アイ・ラブ寿司では、熱意と誠意をもって日本料理を世界へ届ける仕事に関わりたい人材を募集している。
「挑戦者はアイ・ラブ寿司の扉を叩いて欲しい」と横山さん。

横山義久(よこやまよしひさ)■1946年に仙台で医者の三男として生まれ、中学から東京府中市で育つ。日本大学理工学部卒業後、大手石油会社に勤務。1973年から1976 年までロサンゼルスに滞在後、その経験を生かして1976年に東京で留学サポート会社、米国情報協力センター(現・エディクム)を創設する。1981年、妻の恵子さんとシア トルに移住。同年11月に「将軍レストラン」を、1986年に「アイ・ラブ寿司」をオープンする。1989年には、カリフォルニア州アーバインを拠点に東洋医療機器を販売する NIKKEN INC.の社外ビジネス・パートナーとしてグローバル販売ネットワークを構築する。有名寿司シェフである加柴司郎(かしばしろう)氏が1994年に創業した「しろう寿 司」の経営を2007年から担う。2014年、サンフランシスコに寿司会席専門店「KUSAKABE」もオープン。

I Love Sushi on Lake Bellevue
23 Lake Bellevue Dr., Bellevue, WA 98005
営業時間:11:30am ~ 2pm、5pm ~ 9:30pm(金土10pm 閉店)
☎ 425-455-9090
ウェブサイト
北米報知社ゼネラル・マネジャー兼北米報知編集長。上智大学経済学部卒業後、ハイテク関連企業の国際マーケティング職を経て2005年からシアトル在住。2016年にワシントン大学都市計画修士を取得し、2017年から現職。シアトルの都市問題や日系・アジア系アメリカ人コミュニティーの話題を中心に執筆。