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米国で生きる日本人の選択 3

米国と日本の間で生きる日本人に、永住権取得や日本への引き揚げなど、人生の選択についてインタビュー。3回シリーズ最後になる今回は、日本へ引き揚げた人々、引き揚げなかった人々を紹介する。

筆者:福田 恵子

アメリカを終の住処とせず日本に引き揚げる人たちの理由

在米48年後、夫婦で日本へ

私の周囲で日本に引き揚げる人が増えている。私自身も節目を迎えつつある。日本で働く長男が私の両親と住んでいるので安心ではあるが、彼らの介護が必要になってくると一人っ子の私が日本に引き揚げて親の面倒をみなければならない。新一世の中にはアメリカを終の住処とせず、私のように「日本に残してきた親の面倒をみるために引き揚げる」という人もいれば、「医療費が高いアメリカでは老後は過ごしづらいから日本へ」という人もいる。そこで、遠からずその日を迎えようとしている自分自身の予習の意味も込めて、長年住んだアメリカから日本に引き揚げた人の話を聞かせてもらった。

今年の2月にロサンゼルスから九州北部に引き揚げたRさんは現在70代。渡米してきたのは1972年だというから、アメリカ生活は実に48年にも及んだ。アメリカで日本人の配偶者と一緒になり、共に生涯、アメリカで暮らしていくと考えていた。

「退職したのは63歳でした。その頃には、アメリカという国の良さ、懐の深さがだんだん薄れていくように感じていました。また、西海岸は車の運転をしなければ動けません。老後の準備をしなければならないと感じ始めましたが、子も孫もいないので、伴侶が先に逝ってしまった場合、私一人で、アメリカで亡くなってしまったら、姉妹は頼りにならないし、甥や姪が始末に来てくれるとはとても考えられませんでした。周りに迷惑をかけない生き方をしなければと帰国を考え始めました」

若い頃、Rさんは、「年齢、性別、国籍関係なく働く職場がある」アメリカを素晴らしいと実感し、一生住み続けようと思っていたと振り返る。ロサンゼルスにかつてあった日系引退者のための施設、敬老にも20年間ボランティアとして貢献した。シニアコンドにしばらく住んだ後の住居として敬老を検討していたのかもしれない。しかし、「人に迷惑をかけない生き方」を実践するためにRさんは、九州の妹に相談した上で夫と二人で日本への永住帰国を果たした。それまで住んだトーランスのシニアコンドの処分では、壁にカビが発生してその工事に多少手間取ったそうだが、無事に売却することができた。グリーンカードは更新作業をしなければ効力を失うだけなので、そのままにしているそうだ。彼女は48年もアメリカに住みながらグリーンカードのままで、市民権を取得することはなかった。その点を質問し忘れてしまったが、いつか日本に引き揚げることを心の奥で覚悟していたのかもしれない。

さて、これから日本に引き揚げる人にアドバイスをと頼むと、彼女は次のように話してくれた。「まず、永住帰国は80歳まで。40歳、50歳代で日本に戻ると必然的に仕事をせねばならず、アメリカとは大きく異なる日本の仕事の環境に慣れず、再びアメリカに戻ってくる人は多いです。また80歳を超えると体力的に(引き揚げることは)難しいと思います。次に思い切って断捨離してから帰国すること。再出発するなら物がない方が良いでしょう。そして、日本では身寄りがいる地域に住むこと。私は妹と姪の住む場所の近くに決めた。事前に生活費などの情報を聞いて下準備をすることもできました」

安全、清潔、便利な一方で

次に話を聞いたMさんは、私が仕事でお世話になった元クライアントだ。15年以上前、彼がロサンゼルスで勤務していた日系企業の宣伝活動のために私が文章を書いていた。ところが、まさに15年前、Mさんは突如会社を辞め、妻とまだ幼かった息子と日本に帰ってしまった。そして昨年、SNSで交流が再開した。彼は妻と共にヨガスタジオを九州北部に開設し、700名の生徒を抱えるまでになっていた。帰国して15年、大成功を収めたと言っていいだろう。

帰国した時、Mさんは55歳だった。その少し前に体調を崩し、日本で手術を受けたものの健康状態に不安を感じていた時に、妻に勧められてヨガを習い始めたのだと言う。夫婦でヨガインストラクターのライセンスを取得して、帰国後はスポーツクラブや市民センターで教え始めた。その後、アメリカンスタイルのヨガの流行に乗り、教える場所も増え、生徒も増えていった。「今では石を投げればヨガの先生に当たると言うほどですが、私たちは本当にタイミングが良かったと思います」と話す。

もともとサーファーだったMさんは、ハワイからアメリカ、メキシコ、さらにアメリカと18年間を海外で過ごした。「私が日本を離れている間、さぞかしグローバル化が進み、日本人もオープンな生活を楽しんでいるのだろうと想像していました。ところがいざ住んでみると、グローバル化など全く見当たらないことにショックを覚えました。とても小さな社会で生きている人が多いのが実態です」

Mさんには日本の良い点も挙げてもらった。「とにかく治安が良い。犯罪に巻き込まれる可能性が本当に低いことです。また、街が清潔で綺麗であること。さらに生活がしやすい。なんでも簡単に手に入ります。外食でも安くて美味しいものが食べられる一方で、お金を出せば一流のものが揃います。まさにピンキリです」

Mさんにもこれから日本への帰国を考えている人へのアドバイスを求めた。「日本人が必要とする専門職のライセンスを取得することをお勧めします。日本の一般的な職業に就くとアメリカに慣れている人にはその窮屈さが耐えられない可能性が高いからです。また、身寄りがまだ存命のうちに彼らがいる土地に住むこと。私の知り合いはハワイに40年間住んだ後、夫婦で帰国してきましたが、なぜもっと早く帰国しなかったのだろうと後悔しています。なぜなら身寄りがもう亡くなっているため、保証人になってくれる人がいないのです。高齢になると家を貸してくれないし、保証人が必ず必要だからです」。

前出のRさんが80歳までに帰国を、しかし早すぎると仕事で苦労すると話していた。その点、Mさんは自身が証明しているように手に職を付けて独立して働いていく自信があれば早い時期に帰国した方がいいということを強調していた。さらにMさんは「もし、日本に身寄りがいない場合でも、過疎化を阻止するために移住を推進している地方に引き揚げれば、住居だけでなく仕事探しまでサポートしてくれる制度があります。そういう制度を活用すると、特に子供がいる人は自然の中で育児ができて理想的な田舎暮らしができるのではないでしょうか」というアイデアも教えてくれた。

自身の引き揚げの予習という意味では、RさんとMさんの経験談は共に大いに参考になった。快く取材に応じてくれた両名に心からお礼を申し上げたい。そして、電話の向こうからMさんが「恵子さんも帰っておいで」と何度も呼びかけてくれた言葉が、今も耳の奥に残っている。

アメリカに残る人々が日本に引き揚げない理由

子どもの存在、医療、言葉

移住したアメリカから日本に引き揚げた人々に話を聞き、さらに一度は日本に帰国したが改めてアメリカに戻ってきた人の回に続き、アメリカを終の住処と決めた人々にも彼らの決断について聞かせてもらった。

在米50年になる70代男性Tさん。アメリカで語学を勉強し、日本に戻ったら映画評論家になろうと思っていたと話す。しかし、渡米3年目、父親が亡くなった。「母親はすでに私がアメリカに渡る前に亡くなっていたので、親がいない日本にもう戻る理由はないという気持ちになりました。そこで勤め先にスポンサーをしてもらいグリーンカードを取得し、結婚をして、子どもが3人生まれました。若い頃は日本に帰りたいだとか深く考えることはなかったですね。それよりも子どもたちの教育にとって、日本がいいのか、それともアメリカがいいのかと考えたら、それはもう受験一辺倒の日本ではなく、自由なアメリカがいいという結論に至りました」

年齢を重ねた後も、日本に帰ろうという気持ちが一度もよぎることはなかったのだろうか。「日本人がアメリカから日本に引き揚げるどうかを決める際の要因は3つあります。1つは子どもがいるかどうか。2つ目は医療や保険の問題。3つ目は言葉です。子どもに関しては、私たちの場合、子どもたち自身もアメリカでの生活を選択しました。医療の面では、私たちは65歳以上になってメディケア(政府による医療保険制度)と、サプリメンタルの保険に加入しているおかげで自己負担額を抑えることができています。医療費が高いと言っているのは、おそらく安価な日本の費用と比較しているか、もしくは薬を継続的に服用する必要がある人だと思います。薬はほとんど保険でカバーされませんから。次に言葉の問題に関しては、アメリカ生活が長くても、ドクターに細かい症状を英語で説明することは難しいです。それでも最近はほとんどの医療施設で通訳サービスを受けられるので助かっています」

つまり、Tさんの場合、アメリカで老後を過ごすには特に大きな障害はないということだ。「ただ、家内がもし先に死んでしまったらどうなるだろうと考えることはあります。子どもたちの世話になるわけにはいかないので、日本に帰るかも? いや、その時は私の兄弟も皆いなくなっているだろうから、やはり日本に帰らないだろうな、と思います」

続いてTさんの妻のSさんにも話を聞いた。彼女の考えはさらに明快だった。「日本への未練は一切ありません。日本に住みたいとも思わない。私は50年前にアメリカに来ました。その時に自由なアメリカの良さにすぐに魅せられました。こういう素晴らしい場所があったんだと感動しました。私は日本の地方の出身なので、子どもの頃からいつも隣近所の人に見られているという窮屈さを感じていましたから。また、母親の違う弟がいて、彼が家のことを面倒を見るという約束で渡米したので、日本に帰らなければいけないということもありませんでした。今では、ここでの暮らしが当たり前になりました。ただ、アメリカ生活で困ることと言えば、アメリカ人と同じようには英語を話せないということです。それでも文化サークルに通ってお仲間と交流したりすることで、少しは自分も輪の中に入っていると実感できます」

夫妻は20年前にアメリカの市民権も取得した。その時に心の中で大きな区切りが付いたのだとSさんは振り返った。

望郷の念に勝るもの

今次に「アメリカに残る理由」を聞かせてくれたのは25年の付き合いのある専門職の女性、Aさん。Aさんが語学留学を目的にアメリカにやってきたのは1973年。「英語を勉強したら日本に帰ろうと思っていましたが、ここでアメリカ人男性と結婚して、子どもも2人生まれました。でも、数年後、今から40年前に離婚したんです。その時、子どもたちを連れて帰国するということになりませんでした。まず、夫とは別れたけれど、近くに住む彼の家族にとても良くしてもらっていたこと、日本に子連れで帰っても、当時の日本ではきっと仕事も見つからないだろうと思ったからです。子どもたちは最初、日本語学校にも通わせましたが、シングルマザーで仕事が忙しく、彼らを土曜の朝に学校に連れて行く体力と気力が私自身になくて、結局、日本語は習得できませんでした。今になって思えば母親としての努力が足りなかったのだと反省しています」

日本の母親が存命中は、子どもたちの手が離れたこともあり、帰国しようと思ったとも話す。「でも、私一人で母の世話をすることは難しいと躊躇してしまい、帰国に至りませんでした。母は6年前に91歳で亡くなりました。母が元気な時は一緒に旅行を楽しんだりしたのに、母が助けを必要とした時に自分本位な考えをしてしまったことが、今となっては悔やまれます。また、日本帰国の計画を同じ年代の友人に話すと、言われたのは『なぜ子どもたちが近くにいるのに日本に帰る必要があるの? 日本に帰ったら一人ぼっちになってしまうじゃない』という言葉でした。私は子どもたちと近所に住んでいて、足を怪我した時も彼らの世話になりました。友人は、そういう恵まれた環境なのに一人で帰国するのはおかしい、と」

帰国を迷っていた時、子どもたちに話したこともあったそうだが、彼らは本気にはしていなかったようだとAさん。「息子と娘は、私にとってベストフレンドです。一緒にショッピングに行ったり、お料理をしたり、食事をしたりすることが私の一番の幸せなんです」

前出のTさんは、アメリカ残留か日本帰国かを決める要因を3つ挙げた。メディケアの受給で医療費の心配はなく、専門職として英語も日本語同様に使い、さらに子どもたちと過ごす時間が一番の幸せと話すAさんに、日本帰国の理由は見当たらないようだ。ただ、最後に日本で恋しいものについての質問に、次のように答えた。

「古き良き日本が忘れられません。田んぼ、季節の花々、雨、よもぎ餅を作るためにヨモギの葉を摘みに行ったり、干し柿を吊るしたり、掘り立ての筍をいただいたり。こんな細かいことが懐かしくてたまりません」。それでも日本への望郷の念は、子どもたちと過ごす時間には代えられないのだ。

*記事は、全米日系人博物館が運営するディスカバー・ニッケイ(discovernikkei.org)に2020年11月に掲載された記事を転載したものです。

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。