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田中リク子さんと、20年目の再会

守られた命からの発信
ー 夢よ、はばたけ!

寄稿:天海幹子

20年も会っていなかった田中リク子さんを訪ねた。18歳で原爆にあった広島出身のリク子さんは現在94歳。キャピタルヒルの素敵な高齢者施設に住んでいる。最後に会ったのは、およそ20年前。2年に1度、日本から派遣された被爆者検診の医師団を、シアトル広島クラブ(県人会)でお世話している頃だった。

「何をしていいか、もうすることもないし、友だちも皆亡くなっているし、私も早く逝きたい」と、笑いながら話すリク子さん。耳は少し遠くなってしまったが、原爆が落ちた時のことはしっかり覚えている。

広島の病院の実習生だったリク子さんは、朝、寄宿舎の玄関に入ったところで原爆が落ち、倒れてきたゲタ箱と壁の間に挟まれ身動きができなくなった。何度も助けを呼ぶが次第に声がかすれ、「どのくらいたっただろう、やっと通りかかったおじいさんと(その)息子が救い出してくれた」。肩を圧迫されたが、奇跡的に直接の被爆はせず、軽傷で済んだ。それからは介護に回る。毎日毎日悲惨な状態の患者さんの介護で、「てんやわんやでした」と遠い眼でつぶやく。

原爆投下から1か月ほど経ち9月に入ったころ、父と叔母に寄宿舎の広間でばったり会い、「『生きとった、生きとった』と涙の対面! 父は私の死骸を持って帰るつもりで、探しに来たそうです」と、リク子さんは大喜びした当時を思い返す。反面、あの時助けてもらったおじいさんとその息子に感謝ができないことを悔しがる。

「名前を聞こうと思っても声が出ないの。もう生きていないだろうね」

その後何年か経って、アメリカから観光で来た、後のご主人と出会う。「主人のお姉さんが広島にいたので、日本人の男、7人でアメリカから来たんです。(お姉さんが)橋渡しをしてくれてね。(主人は)一度帰ったんですが又戻ってきて、『アメリカへ一緒に行こう!』って」。見染められちゃったリク子さん。その眼がキラキラ光って、笑みがこぼれる。

「知らない場所、英語もできないし」と、アメリカへの移住に初めは踏ん切りがつかなかったが、「ダメになったら、また帰って来ればいいから、いってらっしゃい」と、病院の友だちに励まされ、渡米して結婚し、そのまま今日に至る。

ご主人は領事館の運転手として、リク子さんはコミュニティ・カレッジの図書館で働きシアトルに落ち着いた。「セクレタリーをしていた義妹が世話をしてくれて、こんな英語も話せない私を長いこと、使ってくれてね。ナンバーをチェックして本を棚に並べるから、私でもできました」

現在の高齢者施設では絵のクラスに誘われた。「なにか描かされるので、しようがないから描いてみたら、たまたまうまくいって」と話すリク子さん。部屋に戻って、持って来てもらった作品は鳥の絵。夢の間から歩き出てきたようなエメラルドグリーンの、貫禄のある孔雀の表情。飛び立とうとしている鶴の命が感じられる絵は、原爆に負けずに救われた命の、力強い生命感と、内に秘めたリク子さんの思いがあふれている。若い時の夢、世界旅行へ飛び立とうとしているかのようだ。そして、二つの絵からはリク子さんの温かさが伝わってくる。

「また来るから、それまで元気でいてくださいよ」と掛けた声に、リク子さんは満面の笑顔でしっかり頷いた。

その姿に、励まされたのは私の方だったのかもしれない。

東京都出身。2000年から2004年までジェネラルマネージャー兼編集長。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。