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第七回 日本人ホテル業の発展について〜シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業 発展の歴史

シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業
発展の歴史

By 新舛しんます 育雄いくお

初めに 

1900年の初め頃、多くの日本人が一稼ぎするために海を渡りシアトルへ向った。シアトルという地で日本人が挑戦し、大成功を収めたビジネスの中に理髪業とホテル業があった。
日本人によるこの二つのビジネスの水準はいずれも白人社会を驚嘆させる、非常に優れたものだった。 日本人経営の理髪店は夫婦共稼ぎの仕組みが多く、中流階級の白人たちに大変な好評を得ることができた。また日本人が経営したホテル業はシアトルの大型ホテルを次々と手中にし、白人経営のホテルを圧倒した。
本連載は、日本人が大成功を収めた理髪業とホテル業の歴史についての概要を題材とする。また、この二つのビジネスに挑戦した一人である筆者の祖父の新舛與右衛門についても取り上げる。 本連載を通して当時日本人がアメリカという異国の地で、どのようにして理髪業やホテル業を成功させたのかをさまざまな角度からお伝えしたい。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を基に、北米報知での連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」と「『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史」を参考に作成を試みたものである。

第七回 日本人ホテル業の発展について

日本人ホテル業の始まり

シアトルにおけるホテル業は1869年森田万次郎によるものが始まりであった。1900年より以前に日本人が経営していたのは、旅館と称するものが3軒、寄宿舎が3軒であった。1900年以降は続々と日本人経営のホテルが誕生していった。この大きな要因はハワイから米本土への転航禁止により、直接日本からアメリカ本土へ来るものが激増し、加えて1909年のアラスカ・ユーコン太平洋博覧会の開催も重なり、シアトルの人口が増加したためである。

1905、6年頃までホテルは日本人を相手にしたいわゆる「旅館」で、室数も少なく、家具類もあまり上等なものを置かない施設が多かった。

シアトルの初期のホテル業の状況について『ワシントン州に於ける日系人の歴史』に次の説明がある(下画像参照)。

「日本人によるシアトルのホテル業は、農業や製材所の仕事のなくなる冬季に町に舞い戻って来る者のための木賃宿きちんやど*1といった形で始まった。ビルの地下室を借り受け、かいこ棚式にベッドを50から100並べたという簡易旅館が、1900年前にすでに6軒存在している。これらは一泊10セント*2の、いわゆる10セント・ベッドだった。その後、日本からの渡米者が次第に多くなり、また好況のシアトル目指して米国内から働きに来る者が増えると、ホテルやアパート経営に乗り出す日本人が増えた。このホテルは長期滞在者用で1910年当時で一泊50セント*3から1ドル。客が仕事に出かけている間に経営者が夫婦でベッド・メーキングをして回るなど家族で運営し、100室を超えるホテルでもメイドを二人雇う位のもので、あとは身を粉にして働く毎日だったという。多くは、製材所、鉄道などで働いて貯めた資金を元手にしての開業だった」

*1 木賃宿とは安価で粗末な宿泊施設のこと。

*2 10セントは当時の日本円の約20仙で現在に換算すると約200円。

*3 50セントは当時の日本円の約1円で現在に換算すると約1000円。

『ワシントン州に於ける日系人の歴史』より

日本人ホテル業の繁栄

1910年頃からシアトル日本人町に、新中央館、ロンドンホテル、レッキスホテル、パナマホテルなどの大型ホテルが開業し、さらに、アルプスホテル、東郷ホテル、ジャクソンホテルと続いた。これらの大型ホテルは室数が少なくとも80以上、多いホテルでは150以上もあった。家具類も立派なものを置き、価格に見積もると、5千〜6千ドルで、中には1万ドル以上の大資本を掛けるホテルもあった。イエスラー通りより南側にあるホテルのほとんどは日本人により経営されていた。

『北米日本人総覧』には次の記載がある。

「旅館:此市に於ける日本人旅館の営業者は、主に白人相手の営業にして、食事なくして一室を貸付し。一泊1ドル乃至50セントとす。此種の営業は比較的他の事業より利益多くして、一般に着実なる営業とみなすものの如し。一ヶ月の借家料100ドル乃至300ドルにして40から100余の室を有す。其家屋の壮麗にして、室内の整頓せること太平洋沿岸の諸州に於ける日本人間には、多く其比を見ず。営業者の数は凡そ60軒あり。其主なるものを挙げれば、次のごとし。キヤマホテル、タコマホテル、イングアナホテル、コースホテル、広栄旅館、藤井ホテル、ハンソンホテル、ハーマン・ハウス、パーレースホテル、パリスホテル、アルプスホテル、パインシチーホテル、日米旅館、日光旅館、日本旅館、ミルウォーキーホテル、ニューヨークホテル、防長旅館、ニューシャートルホテル、アルカイホテル、東郷旅館、新中央館、帝国ホテル、ロンドンホテル、パナマホテル、レニア—旅館」(以下「シアトル日本人経営ホテル所在地」参照)

1917年以降の日本人ホテルが大繁盛した様子を、『大北日報』『北米時事』の記事中に見ることができた。

『大北日報』「シアトルの誇りたるシアトル同胞経営の旅館業」1917年4月27日号

「シアトルに於ける日本人の誇りたるべき事業の一つは旅館業である。シアトル同胞の旅館業は太平洋沿岸の各都市のそれに比して最も発達しその根底の強固にして事業の確実なる而して益々発展の余地のあるは其の比類なく、他の営業に比しても、更に遜色がない。現在の旅館数は62軒、室数は総計4651で投資価格は実に25万5300ドル(当時の日本円で約50万円、現在価格に換算すると約5億円)に達しておる」(シアトル日本人ホテルで室数100以上のホテルは以下グラフを参照)

『北米時事』「ホテル業大繁昌」1917年12月26日号

「降年祭(クリスマス)前より市内各ホテルは大繫昌にて 何れも空室なく、地方よりの出市者は野宿せざるを得なくなる事態。各ホテル廻りをして漸くベッドに身を横たへたり」

『北米時事』「日本人のホテル」1918年8月22日号

「シアトルにおけるホテル業は日本人の誇りである。米国何処に行ってもシアトルほど日本人のホテル業の発展している処はあるまい。現在組合に属するホテル数は140軒、その他に小さなのが15、6軒ある。其内エスラー街以北に在るのが25軒で何れも高級ホテル。合計の投資額は約100万ドルに達するであろう」

シアトルの日本人ホテルは、白人経営のホテルを圧倒する発展をしていた。

『北米時事』1919年1月1日号「シアトル同胞ホテル業の将来」に日本人経営のホテル業の凄まじい発展について次の記事が掲載されている。

「1914年開始された欧州大戦争は米国が、軍器船舶製造と食品の供給国となった結果、国家的経済好調の影響がシアトル市にも及び、造船の注文が来り。東洋貿易、繁雑を極め、多くの労働者、資本家がシアトルへやって来、恰あたかも蟻の甘きに集るが如く、どこのホテルも満員という好況になった。

特に1917年アメリカが参戦してより、シアトルは米国屈指の造船地となり、政府の大注文が櫛の歯を引くが如くなり、白人の労働者が各都市より殺到した。(中略)この時ホテル業界は空前の好景気となった。従来一室10ドルにて売買されたホテルも50ドル、200ドルとなった。朝に1万ドルのホテルが夕には1万2000ドルに羽が生えて飛ぶという暴騰がおこり、ホテル成金が雨後うごの筍たけのこ* の如くできた。

1918年2、3月までは日本人ホテルはエスラー以北に発展したが、今や市端より隅にいたるまで同胞ホテル業者を見ないところがない程、盛況である。(中略)今や日本人によるホテル経営が200有余軒になり、一軒あたり5000ドルの投資とすると、合計投資額は100万ドルを超える。その迅速な発展は停止する処を知らない」

*「雨後の筍」とは、ある出来事をきっかけに同種の物事が次々と現れることをいう。

シアトルでの日本人によるホテル業の繁栄につき『大北日報』1919年1月1日号に「ホテルの激増」と題して次の記事が掲載されている。

「4、5年前から当地にホテルの増加した事は非常なもので、昨年迄は旅館組合が80軒計りであったのに本年は160軒以上となり投資も1万ドル2万ドルと云う大金をドシドシ出す事となりました。白人側でも随分不思議と思う位で或は日本の政府筋から金を出して居るのではないかと迄噂立てられると云う事も新聞記載の通りでありました。かかる発達は誠に悦ばしい事であるがこれに伴う弊害も仲々少なくありませぬ、誠に最近ホテル発達は経験の浅い方々をも増加せしむる事となり従って無理な商売をなさる方もないとは云えぬ」

当初日本人の経営するホテルは渡航した日本人のためのものであったが、その後白人を相手にしたものへと変貌を遂げる。

シアトルホテル業の客層の変化に関して、『北米年鑑』1928年版に次の記載がある。

「ホテル業、レストラン業、ダイウオーク業、理髪業等はその大部分の顧客を白人に持つ有様である。……殊にホテル業の如きは約二百に近き営業者があり、その営業振も堂々白人の同業者を厭し米国何れの日本人社会」に見られざる発達をなしている」

このように急速に発展したホテル業を、多くのシアトル日本人が手掛けた。この繁栄の大きな要因は、シアトルが日本、アメリカ本土を最短でつなぐ国際港であり、また大陸横断鉄道とヨーロッパへも通じる世界の交通の要所であったことが挙げられる。

『北米時事』、『北米百年桜』等の文献に記載されている戦前のシアトルにおける日本人経営のホテルを地図上に記載すると、次の通りである。(添付地図上にある「パナマホテル」は国宝建造物として現存する。青く囲まれた「藤井旅館」「ビューゼッドサウンドホテル」の詳細は、今後の号に掲載予定の「ホテル業組合」にて。

※記事からの抜粋は旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

◼『ワシントン州に於ける日系人の歴史』在シアトル日本国領事館2000年

◼『北米年鑑』北米時事社、1928年版

◼伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門—祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」、2023年9月から2025年2月まで「初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史」、2025年3月から2026年2月まで、「二世新舛與の生涯」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。