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第12回 日本人の渡米とアメリカからの訪日〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第12回  日本人の渡米とアメリカからの訪日

前回は日系人の日米往来についてお伝えしたが、今回は日本人の渡米とアメリカからの訪日の記事についてお伝えしたい。

日本人の渡米

日本の復興をさらに進めるため、アメリカから学ぶべく、国会議員を初めとした多くの日本の各界指導者層が、アメリカを訪問することになった。そのことを伝える記事を紹介したい。

激化する渡米熱

「各界から150 名米政府が招く。来年5 月迄に渡米」1949 年11 月8 日号

「各界の専門家約150名が来年5月までに米国政府に招かれて渡米する。総司令部人事交渉委員会4日の発表によると日本の教育家、国会議員、法律家、ジャーナリスト、その他各界の専門家約150名が今度7カ月の期間中に米国政府に招かれて渡米、日本再建に寄与する為、各地を視察し、又助言を求める事になった。これらの専門家の渡米は連合国最高司令官の要請に基き米国議会の予算承認によって実施をみたものである。渡航者は個人として又は小団体で旅行し、米国に45日及至90日間滞在する。多くはワシントンに滞在して米国政府の専門家と連絡するが、全国各地の各種機関や団体に行く者もあり、一部の者はその為、特に準備された講習会に出席する事になってゐる」

「渡米議員決定、衆参両議長も招待」1949年11月16日号

「渡米議員団が本極りとなった―総司令部ウイリアムス国会対策課長はホイットニー民政局長の代理として12日午後、幣原、松平衆参両院議長を訪れ、さきに予定されていた渡米議員団一行15名は12月15日から来年1月末までの予定で従来の一班、二班を同時に米国に向け出発することになったと告げた。同時にウイリアムス課長は米国政府及び総司令部は幣原、松平両議長も渡米議員団一行と共に米国へ招待したい旨を知らせてきた。(渡米議員団一行の氏名掲載)

「国務省の機構運営調査のため大野政務局長らが渡米」1949年12月5日号

「外務省政務局長大野勝巳氏等は今回マッカーサー元帥総司令部の特別の計らいで来る12月中旬より3ケ月間ワシントンに於けるアメリカ国務省の機構、運営全般にわたる実態を調査研究するため渡米することゝなったが、一行はワシントン滞在中もし許されゝばシアトルを訪問、同胞の故国救済に対する御礼の言葉を述べるとともに、最近の故国事情について報告したいとのこと、同行者、総司令部連絡官外務事務官 土屋隼、外務省調査局第二課長竹内春海、外務省政務局情報部事務官 奈良靖彦」

「続々渡米する各界指導者、外交官第二陣近く出発」1949年12月28日号

「ワシントンからの外電は米国政府は日本の外交官の再教育を行うことになり、その第一陣がシアトルに到着の旨伝へてきたが、外務省官吏第二陣の次の6氏は近く日本を出発アメリカにむかう。連絡局長 木村四郎、管理局長 倭島英二、在外邦人課長 後宮虎郎、情報部報道課長 藤崎万里、政務局経済課長 守山厚、同政務課長 斎藤鎭男しずお

「悲鳴を挙げた外務省、申込は日に百名以上、ますます激しくなる渡航熱」1950年2月11日号

外務省では1月20日渡航課を新設、渡航申込を受付けているが、毎日100余名が押しかけており、悲鳴を挙げた同課では、新設一週間で早くも3倍に増員したというが、同課の調べでは1月に渡米議員団をはじめ、52名が出発したが2月には各界の代表者60名、その他鮎沢巌氏らユネスコ関係4名、造船技師視察者6名、出版代表3名らが渡米するという。さらに3月以降予定の渡航も数多くある」

元シアトル在住者笠井重治氏の渡米

シアトルを訪れた笠井重治かさいじゅうじ氏はワシントン大学卒で戦前シアトルに在住。美以(メソジスト)教会の創立者で、奥田平次氏や築野豊次郎氏等と懇意にしていた。

「笠井重治氏大講演マッカーサー元帥の手腕賞讃、日米親善を強調」1950年1月11日号

「笠井重治氏は昨夜午後8時より創立者の一人として由緒深い美似教会において、三原日系人会長の司会で講演を行った。40余年前在シアトル時代を回顧して、日米開戦前後の日本の動きをツッ込んで語り、終戦後の状態、マッカーサー元帥の顕著なる手腕を賞讃、日米親善を強調して多大の感銘を聴衆に与えたのち、質問応答があった。なお氏は同胞の用事なら何でもできるだけのことは無料でするから利用してくださいといわれていた」

「笠井重治氏歓迎会」1950年1月11日号

「笠井重治氏歓迎会は昨夜午後6時よりまねき亭において行われ、出席者50名、日系人会副会長沖山栄吉氏司会し、笠井氏紹介、日米親善を強調されると共に、特に優秀なる二世を教育された元ベリゲザート校長メーハン女史(後述)に感謝の意を表した。食事後メーハン女史、奥田平治、築野豊次郎両氏よりそれぞれ歓迎の言葉があって、記念撮影後散会した。ポートランド市よりは央州日報社長小山巌氏が空路出席されていた」

池田蔵相の渡米

後の総理大臣で当時大蔵大臣だった池田勇人氏は、大臣級で初めての渡米が注目された。

「対日援助の答礼使節、池田蔵相四月に渡米」1950年3月29日号

「日本政府の見解によると池田蔵相は吉田首相の意をうけて、対日援助の答礼使節として25年度予算成立後、最大3週間ぐらいの予定で渡米、ロッジ氏はじめアメリカの高官と会見して意見の交換をすることになっている模様で、関係方面でも原則的にこれを承認しているので、政府では正式手続きをとるものとみられている。現職蔵相の訪米は戦後はもちろん、戦前を通じても初めてのことである。渡米の時期は予算はじめ諸法案の審議が事実上終了し、国会が自然休会に入る4月半ばとみられる」

子どもの渡米

「ヨイコも渡米、子どもの暮らしを見学に」1950年3月28日号

「日米児童文化の交歓をめざして、13才から15、6才までの日本のヨイコ12名が6月上旬神戸を出発、アメリカに向うことゝなった。アメリカ滞在期間は約40日の予定で、あちらの家庭を訪問して、アメリカ児童文化の長所をみっちり見学する。これは兵庫県阪神児童文化サークルの発案で、会員22万人のうちから12名を選び、井上会長ほか、看護婦2名、医師1名、父兄8名が付添い、一行約25名で行くものだが、すでに旅費1200万円の目安もついたほか、渡航許可もあり、お土産には羽子板や振りそで人形などが取り揃えられているという。井上会長談、『子供がこんな風にアメリカへ渡るのは終戦後初めてで、大に勉強しようとはりきっています』

美空ひばりの渡米

このころ、多くの芸能人が渡米した。その中でも少女時代の美空ひばりの渡米は絶大なる人気を博した。

「ライフ紙の紹介で歌の豆女王渡米」1949年12月5日号

「最近の米国誌ライフをごらんになった方は御存知の日本のブギの豆女王、美空ひばりさん(12)にこのほどアメリカから招待状が届いた。これはライフ誌に掲載の彼女の舞台姿をみた在米邦人が彼女をアメリカで教育して本格的な歌手に育てようという厚意が実を結んだものである。来春小学校卒業後お母さんの希美枝さん(37)と一緒に約3ケ月間の予定で渡米するが、当の豆女王は大喜びで大はしゃぎである」

「ブギ、ブギの天才、美空ひばり一行、28日来シアトル実演」1950年6月24日号

「天才ベビー・スターの美空ひばりちゃん(本名加藤和枝13才)とお母さんの加藤キミエ夫人、喜劇王川田晴久君ら一行3名は去る21日ハワイより空路サンフランシスコに到着、同地に於てテレビジョンに出演、邦人学園児童などとも対面、非常な人気を呼んでいるというが、一行は来る30日と1日の両夜午後8時よりシアトル市仏教会ホールで『実演と映画の夕』を開催することゝなった。美空ひばりちゃんは横浜の生れで、同地の劇場にデビュー、忽ち世人に認められ一躍演芸会のトップスターとなったものであるが、それからというものは、映画に実演にと引張りだこの人気、映画出演7回、レコードは既に十数曲を吹込んでいる。目下新宿精華学園の女学部一年生で、一番好きな唄は『美しき口笛』だという。(中略)ひばりちゃんの唄う流行歌は、『港シャンソン』『ヘイヘイブキ』『悲しき口笛』『銀座カンカン娘』『かっぱブキ』などで映画は『悲しき口笛』であるが、これは美空ひばりの主演物で今年のヒットもの」

6月29日号に「実演と映画の夕」写真入り広告掲載同年7月5日号によると、シアトル公演後に美空ひばり一行は平林静養院を訪問している。

広島県知事広島市長の渡米

「楠瀬広島県知事、浜井広島市長両氏歓迎会盛大」1950年8月11日号

「昨日空路シアトルに来た楠瀬広島県知事および浜井広島市長の両氏はオリムピック・ホテル投宿、デビン市長訪問など多忙な日程をおえて午後6時まねきにおける広島県人会の歓迎晩餐会にのぞんだ。陪賓としてデビン市長夫妻、ストーリィ商議、外国貿易課長夫妻その他秘書夫妻4名も出席した。主客合わせて約80名盛会であった。尾形牛三氏司会し、主客陪賓を照会後、楠瀬知事、デビン市長、広島県人会代表細田節吾氏からそれぞれ簡単な挨拶があった。また昨夏ヒロシマの家建設のため、シュモー博士一行と渡日したアンドリュー浸礼教会牧師よりも歓迎の言葉、桝本幸枝嬢の独唱があって食事に移った。なお広島県人会より楠瀬、浜井両氏に記念品を贈呈した。続いて楠瀬、浜井両氏は仏教会会館における講演会にのぞみ、細川氏司会で楠瀬知事より

一、200万県民を代表し在米同胞、米人方面よりの援助に感謝
二、国土は灰になっても、国民は灰にならず復興を急いでいる。
三、在米同胞は日米親善のカケ橋として努力されたい。

との言葉あり。引続き浜井市長より講演があった。桝本幸枝嬢の独唱があって、持参の『原爆のヒロシマ』の映画が上映されたが、その悲惨な状態に観衆の涙をかった。最後にアメリカ映画の上映もあった」

ミス日本の渡米  

1950年4月25日号によると、689名の応募者の中から京都市出身の山本富士子嬢が「ミス日本」に選ばれた。

「ミス日本、山本富士子嬢近く渡米か」1950年10月17日号

「読売新聞が募集したミス日本に当選した山本富士子嬢は、感謝使節として近く渡米するが、ハワイ、シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン州を歴訪し、米国の占領政策、対日援助に対して感謝することゝなったが、一行は山本嬢の外に準ミス日本の田村俊子、三田村啓子両嬢に深水読売企画部長が同伴することになっている」

アメリカからの訪日

シアトル商工会議所、デビンシアトル市長が、今後の両国の経済交流のために復興途上の日本へ訪問。また、アメリカから多くの観光客も日本を訪れた。

シアトル市長、シアトル実業団の日本訪問

「シアトル市経済視察団14日空路日本へ」1950年1月5日号

「今回シアトル商工会議所の主催で経済視察団が組織せられ海外諸国を訪問旅行することゝなったが、シアトル市長デビン氏を初め西北部有力実業家19名よりなる第一班は来る1月14日シアトル市より空路日本、朝鮮、フィリピン、ハワイを訪れ各方面の要人と懇談するはずである」

「新春の日本を訪れる人々、沙市視察団も来る」1950年1月5日号

「民間輸入の実現、東洋船の建造計画と新春の朗報は相つぐ日本にタロア旅行団はじめ続々と観光団がやってくる。まず正月4日にはグアム島から50名のタロア旅行団が三日間の予定で1950年の観光団の第一陣として空路訪日、5日にはパンアメリカン機で一般観光客2名が一週間の予定で入京、同日海路エー・ビー・エル汽船で近親者訪問30名、8日にはタロア第二陣、16日にはシアトル商業会議所会員21名の経済視察団がノースウエスト機で入京する。視察団は28日まで日本に滞在、滞日要人と懇談をおえてのち鎌倉、箱根、熱海、京都、大阪、名古屋を視察し28日には空路京城に向う予定である。案内に当る日本交通公社外国部ではお正月抜きで接待準備に忙殺されてゐる」

「シアトル市実業団の訪日、天ぷらで歓迎」1950年1月23日号

「シアトル市実業団の一行19名は天候不良のため予定よりおくれて17日午後1時15分無事羽田空港に到着、総司令部からマッカ―ト経済科学局長ら、東京商業会議所、東京都代表など多数出迎え、一行は直ちに宿舎目黒雅叙園がじょえん観光ホテルに服装をとき、休む間もなく午後4時から東京会議所主催の歓迎会にのぞんだ。米国の実業家が団体として訪日したのはこれがはじめてなので、羽田の到着時間はもとより歓迎会にも新聞記者やカメラマンが追ひかけまわし、特に歓迎会には青木経済安定本部長官(国務大臣)も出席、一行は日本商品のサンプルや日本娘の茶の湯、生花を観賞したのち、夕刻から紅白の幕をはり、緋毛せんを敷きつめた純日本風の模擬店に首をつっこみ、天ぷらに一同舌つづみをうち和式カクテル・パーティーは盛大であった。デヴィン・シアトル市長は一行を代表して歓迎会の席上次のように語った。『今度の来日はシアトル市民と日本国民との親善を深め、また米日間の貿易を促進するためである。滞日期間は約12日間でしかも京都や大阪へゆかねばならぬので非常に忙しいが、なるべく多数の日本実業家に会ひたいと思ってゐる。また政府の代表者にもあって警察、消防、公衆衛生などについても話し合ひたい』

日本を訪れる多くの観光客

「観光客の使った1口78万ドル」1950年4月17日号

「今在米同胞の観光団が続々と故国の土をふんでいるが、一体終戦直後からやってきた観光客はどの位になるだろうか、運輸省でまとまった昨年末現在の統計は次の通り、もの語っている。外来客はアメリカがほとんどで22,142名日本で消費したドルは1,078万ドルに達している。22年度(1947)549名、63万4212ドル、23年度(1948) 6,310名、344万4649ドル、24年度(1949) 15283名、770万8513ドル。これらのうちには在米同胞の故国訪問分がふくまれているが、同胞の帰省地は中国地方45%九州18%関東15%となっている」

シアトル小学校校長メーハン女史の日本訪問

鶏鳴けいめい録、鳥飼太郎、吾等の母」1948年5月7日号

「1921年は暮近い日、篠突く雨を犯してメイン街小学校の教師と生徒は、列を整へてジャクソン街を上へ、12街の新築の新校舎へ引越した。(中略)一同大講堂に着席し、メーハン校長の訓辞を聴く。校長は『子供達よ、この新校舎はあなたがたの学校です。汚してはなりません』(中略)迫力豊かな、しかも厳格な、家庭的温情のこもった校長の言葉は、要領よく全生徒の頭に入り、美しい愛校心にとなって現はれる、クドクドと長い訓辞よりどの位効果的であるか図り難い。真に『吾等の母』の態度であった。メーハン女史は日系児童の慈母じぼであったのみでなく、また日系人の弁護者であった。嘗てメソニック会堂に各国人大会の席上、堂々と日系人の教育上の熱意、児童の優秀を説き、八百人余の会衆を啓発したのは女史だった。女史は30余年に亘る日系児童教育を目出度完遂し、職を辞しシアトル市西フロンチナク街4641の邸宅に、静に老を養ってゐる。毎年母の日を迎える時、思いだすのは女史の人類愛に充ちた真卒そのものゝ教育家態度である。日系人にとって『吾等の母』に健在を祈り、深く感謝を表する」

「メーハン女史教え子の歓迎を受く」1950年8月22日号

「元シアトル・ベリゲザート小学校校長メーハン女史は東京進駐軍ロバート・グラント氏夫妻と共に去る7月29日来阪されたので、翌30日大阪、京都、奈良地方に住むシアトル人や教を受けた人々が集まって歓迎会を開いたが、嘗てシアトルに住んでいた人で、今は奈良県五條警察署の通訳をしている池田小梅夫人の案内で8月1日から奈良、京都を見物して3日東京へ帰られたが、メーハン女史が渡日前から希望していられた広島、福岡、長崎行きは朝鮮動乱のため、外国人の中国、九州行きは禁止されているので中止された。尚歓迎会の当夜出席したシアトル関係者はメーハン女史が1、2年前に来阪されたときと変らぬ元気さに驚いていた」

日本の復興を果たすため、各界から日本の要人が先進国アメリカを訪問し、多くのことを学んだことが伺える。この際シアトルへもたくさんの人が立ち寄り、シアトル在留日系人と懇親を深めた。日系人と関係の深い人達が訪日し、日米親善を計っているという内容の記事も多数見られた。

次回は日系人の進学した学校と日本からのアメリカ留学についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。