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第14回 太平洋航路の復活〜初期『北米報知』から見るシアトル日系人の歴史

 初期『北米報知』から見る
  シアトル日系人の歴史

By 新舛育雄

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米報知』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から過去の記事を調査し、戦後のシアトル日系人コミュニティの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

第14回 太平洋航路の復活

前回は日系人が通った学校と日本からのアメリカ留学に関しての記事を紹介したが、今回は太平洋航路の復活に関する記事についてお伝えしたい。

戦前、戦中の日本の豪華船

「大戦の犠牲となった郵船と商船の豪華船」1946年11月13日号

「戦前欧米航路に配置され、世界海運界に覇を競った豪華船、日本郵船の浅間丸、鎌倉丸、龍田丸、平洋丸、諏訪丸、日枝丸、平安丸、香取丸、大阪商船ぶらじる丸、あるぜんちな丸、報国丸、愛国丸、護国丸等は何れも今次大戦の犠牲となって沈没したが、其後の確報によれば添付表の通りとなる。現存の豪華船で主なるものは、郵船の氷川丸(11,000トン)商船の高砂丸(9,300トン)蓬莱丸(9,100トン)の三隻のみで氷川丸と高砂丸は海軍病院船として使用されてゐた」

この一覧を見て驚くのは、多くの客船が軍事用輸送船に改造されたうえに、ことごとく撃沈されていることである。

サンフランシスコ、横浜定期航路の再開

「サンフランシスコ-横浜定期航路3月14日より再開、新客船は7月より就航」1947年2月5日号

「太平洋航路再開に一番名乗りを上げた米国プレジデント汽船会社は、来る3月14日から東洋向け定期船を出すことを発表したが、サンフランシスコを起点としてホノルル、横浜、上海、香港を経由、マニラへ向かふことゝなってゐる。目下就航決定の客船は、戦時中輸送船に改装されてゐたもので、定期出帆日は3月14、28日及び4月18日となってゐる。しかし6、7月頃には新客船2隻が就航することになるが、その頃になればロサンゼルスにも寄港することになると同汽船会社では発表してゐる。船賃は3等より待遇のよいエマゼンシイクラスで163ドル、これに15%の税金がついて187ドル45仙である」

日本商船隊の復活

「日本商船隊の復活近し、貿易の前途明るくなる」1949年11月9日号

「日本政府は貿易の伸展を目指し、商船隊の外国航路進出許可を総司令部に要請してきたが、さき頃のマーカット経済科学局長と青木経済安定本部長官の定例会議で、30億円程度の見返資金が支出されることに決定、これにより1万トン級の戦標船(戦時標準船)に船体、装備に大改造を加え外国航路用船舶として世界共通の資格を得ることになるが、これは日本の商船隊が航路の大拡張を近く許される前提と確信され、日本の貿易界に大きい希望を与へてゐる。既に49年度の新造船計画には7,000トン以上の大型貨物船の建造が許可され、その上更に大型、中型航洋貨物船と14,000トン以上の大型油槽船など50隻に達する船舶の建造と、見返り資金70億円の支出が決定してゐる。又聖川丸の改造は終了、有馬山、氷川、高栄、日昌丸等が順次修理中で海運業界でも南米、メキシコ方面へ出航命令があるのも間近いものと張り切っており、日本の貿易界に明るい見透しを与へてゐる」

米国船の返還

「米国船13隻日本より返還日本人船員が運転して来月10日頃シアトル着」1950年3月24日号

「終戦後、日本政府が復旧作業に使用するため米国から貸与されていた米国船が近く米国へ返還されることになった。第1回分として7隻が返還されるが、これは4月10日ごろ米国ワシントン州ビュゼット・サウンド湾において引渡され、第2回6隻は同月22日ごろ引渡される予定である。これらの船舶は日本人船員によって運転され、ビュゼット・サウンド湾まで配達されるが、この13隻は、オリンピア近海において繋留されることになっており、繋留けいりゅう作業もまたシアトル・ボート・オブ・エムバーケーション当局の指揮により、日本人船員によって行われる予定である。従ってその際日本人船員は返還船1隻であるジョン・ウイークス号を宿泊場所にして行うが、終了後は同号によって日本へ帰ることになっている。なお返還船には日本人船員4、50名ずつが乗ることになっている。日本人船員が返還船で渡米するのでよろしく頼むという安井東京都知事からの依頼状が本朝日系人会に到着したので、三原会長はデビン市長とも相談の上、出来るだけの便宜を計ることゝなったという」

「全員惜別に泣き、ウイークス号出帆今朝オリンピアへ」1950年4月25日号

「返還船第1船団7隻の乗組船員287名はウイークス号に搭乗、3日間のシアトル回航を終えて本日午前9時オリムピアに向けて出帆した。この3日間桟橋65埠頭に繋留されたウイークス号(7425トン)は海軍、税関等の各見張りも監視もなく、船員の自由上陸、在留民の自由訪問という特異な例をのこしたことが注目された。かくして3日間にわたる在留民の熱意こもる歓迎に名残を惜しみつゝ船員一同は感謝『有難う』を連発し、出帆直前の点呼に全員一同再び、ウイークス号の人となった。三原、沖山両氏はじめ多くの見送りの人がいた。4月23、24日仏教会で船員諸氏に夕食を出した際、奉仕された婦人は次の通りである。(氏名掲載)両日船員送迎のため自動車を提供した特志家は次の如くである。(氏名掲載)返還船船員約600名に贈る慰問袋を日系人会で募集中のところ、忽ち反響を呼び、昨日長老教会提供の自動車でシアトル市内約12カ所から集めた総計812個をウイークス号に送りとどけた」

横浜に帰航した返還船の吉川船長は、シアトルで経験した手厚い邦人の歓待かんたいに次のようにお礼を述べた。

「邦人に感謝、吉川船長語る」1950年6月5日号

「シアトルでは非常な歓迎をうけた。邦人諸氏の親身のお世話には全く何とお礼をいっていいかわからないほどでした。デビン市長は13名を午宴会に招いて『戦後日本の船がシアトルに来ないので寂しい。シアトルはサンフランシスコより200マイル日本に近い。早くシアトル航路を開くよう努力してもらいたい』と語っていた。またキャデイル社の社長さんが、3隻の船に一個づつ大きな菓子箱を贈ってくれた。シアトル日系人会も戦後こんなに多勢の日本人が来たことがないと沢山の慰問袋を届けてくれ、船員一同まるで子供のように喜んだ。デビン市長から横浜市長あての贈物も預ってきたが、中味はわからない」

日本船の米国寄港

「日本貨物船近く米国寄港、定期航路開始はまだ」 1950年8月15日号第1面

「米陸軍省、14日公表によれば、1941年以来アメリカ航路を途絶していた日本船が近く米国を訪問することになった。この措置は終戦後はじめて日本船の米国寄港を許可されたことであるが、これは最初は主に不定期船をもって貨物輸送を行うことになっているもので、定期航路の開始は目下のところ計画されていないと陸軍省当局は発表している」

「日南丸が北米へ原油積取、戦後初の就航」1950年8月15日号第3面

「東京の飯野海運公社と米ユニオンオイル会社との間にこのほど原油約20万バレルの積取契約が成立、来る9月上旬飯野海運所有の日南丸(7,091トン)が横浜を出帆、北米西岸ポータピラにむかうことになった。日本船舶による北米航路就航はこれが戦後はじめてで、ひきつづき1万トンの隆邦丸が配船される」

氷川丸への期待

「氷川丸の復活」 1947年3月19日号

「戦前、シアトル横浜間を往復してゐた日本郵船の豪華船氷川丸は戦争突発後、病院船に改装せられたが、今回日本近港航路に就くことゝなった。シアトル人にはお馴染深い氷川丸は、平安、日枝の姉妹船である」

1947年ごろ、氷川丸は日本近港航路の横浜−函館間を就航していた。

「高砂丸と氷川丸10月には米へも巡航」1949年8月19日号

「政府は通商の振興と海外事情の把握のため、外航船の活用増大に努めているが、このほど東亜海域諸港へのドル建定率運賃表を決定、実施するとゝもに、10月から氷川丸と高砂丸の両船を北中南米、東亜、アフリカの諸港に巡航せしめることゝなった。(中略)また氷川丸、高砂丸の米国その他への回航は目下具体策について関係方面と折衝中だが、10月に両船を見本市船に仕立て、約4,000トンの輸出商品見本と100名の貿易業者をのせ、3ケ月の予定で米国、東亜、アフリカ主要諸港を巡航、寄港地で商品展示会を開き日本商品の海外進出の基礎をつくろうとするもの」

「戦時中撃沈を免れた、豪華船氷川丸、シアトル航路へ再就役か」
1950年8月18日号

「待望の北米定期航路開設に必要なる日本船の米国港湾出入が米国政府によって許可された旨、総司令部民間運輸部長ミラー大佐は15日発表したが、日本では現在のところ定期航路の具体案はたてられていないが、日本郵船では戦時中撃沈を免れた大型客船氷川丸(11,600トン)を修理してシアトル航路へ起用する計画をたてゝおり、また三井船舶会社はニューヨーク航路開設を企画しているというから、遅くも本年末までには日本船によるアメリカ定期航路が開かれるだろうと大に期待されている」

太平洋航路の復活

「太平洋航路復活、10年振りでシアトルへ、沸き立つ海運界、続々と巨船」1950年8月19日号

「さきに日本船舶の米各港への出入が許可され、本格的外国航路進出の第一歩として日本の海運界はわきたっており、優秀な巨船を配置すべく準備をすゝめているが、許可後最初の日章旗をかかげた船は太平洋西岸にむかうことになり、シアトル港にも約10年ぶりでなつかしの日本船がその雄姿をあらわすのがもう真近かである。太平洋航路復活の朗報にかん喜する横浜港にはかつてのシアトル航路の豪華船であった氷川丸(1万トン級)が戦争で生のこりの最大の船としてマストに国旗をかかげる日をおそしとまっている。さし当たっては飯野海運の日南丸が9月はじめ、ついで新造船隆邦丸が10月はじめ、三井造船の有馬山丸(1万トン級)が氷川丸と相前後して10月に鋼材を満載太平洋岸にむかう。(中略)日本郵船では建造中の永禄、延慶、氷暦、ジャカルタ(何れも6,923トン)長崎ドックで新造中の平安丸(6,800トン)、平洋丸(同)、南米航路就航中の大阪丸(6,800トン)、大同海運高栄丸(同)も晴れて日の丸の国旗をはためかし、どっとアメリカにむかうことになる。(中略)昨日シアトルで発表された処によると川崎商船会社の貨物船聖川丸(9,000トン)は小麦積取のため近くシアトル港へ来航することゝなったが、日本船のシアトル航路に就航することは戦後初めてである」

「聖川丸9月5日シアトル着、第二船氷川丸29日横浜出港」
1950年8月29日号

「北米航路就航第一船聖川丸(9518トン)は去る20日に神戸港を出帆、小麦3600トンを積みこみのためシアトルにむかったが、シアトルに到着は9月5日の予定、同月下旬到着する第2船はかつての北米定期航路の氷川丸(11621トン)で来る29日横浜を出帆する。尚氷川丸にはデビンシアトル市長あての内山神奈川県知事、石河横浜市長、野村横浜市商工会議所会頭のメッセージたずさえる同船のシアトル着は9月17日、10月13日小麦8200トンをつみ横浜へむかう予定である」

この記事と同年の8月31日号で、氷川丸が29日に横浜を出帆しシアトルへ向かったと掲載された。しかし9月1日号にて、スケジュールが急に変更となり、理由は明らかにされていないが、シアトルには来ずポートランドへ向かった、という記事があった。ポートランドでは盛大な歓迎会が開催されたそうだ。

注目された北米航路再開

「航路再開で時の脚光、全日本が注視のシアトル、一二世の報道益々増加」(在京特信4日伊藤一男記)1950年9月5日号

「便船の関係でアメリカのニュース・ソースをハワイ、サンフランシスコ方面に多く求めていた日本の各新聞は、こんどの北米航路再開により、その取材の目を米北西部にむけてきたが、殊にシアトル市は断然の脚光を浴びるに至った。今後シアトル市はじめ西北部在住の邦人に関した報道はいよいよ増加するものと期待されるが、日本の五大新聞の一つ東京新聞(夕刊)はいち早く『親日深まるシアトル市』との四段抜き見出しで、デビン市長らが吉川忠蔵船長らを歓迎した写真の入っているシアトルタイムスのカットを入れ『氷川丸をどうむかえるだろうか?』とのかきだしが次の記事を上げている。『シアトル市と横浜市とは1923年関東大震災にシアトル市から多量の物資が送られてきた事から親交を深め、さくらとバラの交換に結ばれた市として全国に知られるほどだったが、戦争によってシアトル市民に植えつけられた日本人憎悪の感情は強く、一昨年戦後初の返還船でシアトル港に入った吉川船長は上陸はおろか、船中の行動は一切MPの監視つきだった。ところが去る1月デビン市長が来日、再び横浜市との親交が復活されていらい市民も次第に親日的感情を取戻すようになり、去る4月船団が入港した時は以前とうって変り検閲、税関の態度も親切になり、特に上陸を許してくれた。約7000名の同胞在留邦人は桟橋まで自家用車10台を揃えて迎えに来てくれ市中見物ののち、市内の仏教会館に1000名以上の一、二世が集り、大夕食会を開くといった歓迎ぶり、シアトル市では今や全市民をあげて、シアトル航路再開を待ちわびている』尚シアトルについてこの様に大々的に報道されたのはこれが初めてである」

「日本船聖川丸今朝8時シアトル港入港 各代表シアトル港へ出迎う」
1950年9月5日号

「北米航路の第一船として去る8月24日神戸を出帆した川崎汽船会社所属船聖川丸は本朝8時シアトルに入港、第25埠頭に繋留されたが、市側から市長代理デンウイード、商議会頭ペリー、商議外交課長ストリー、港務局長ローの諸氏、在外事務所長ト部、所員林両氏、日会側から三原、沖山両氏が出迎へ、橋本船長と感激の握手を交したと。同船は小麦を積載するため、明朝タコマへ回航、来る金曜日にシアトルへ再来航、土曜日朝日本に向って帰航の予定であるが、船員は仕事に差支へない限り、上陸を許され、外部からの船員訪問も自由であるという。尚同船々長橋本角次郎氏以下高級船員数名は来る7日午後6時まねき亭に於て開催の日会主催の歓迎晩餐会にタコマより来沙することになっているが、 乗組員人名と出身県は左の如くである。(氏名掲載)」

「日本船聖川丸11日出帆日本へ」1950年9月9日号

「本日シアトルを出帆、日本へ帰航の途に上るはずであった川崎汽船会社の聖川丸は予定のスケジュールを変更、来る11日出帆することゝなった。昨日タコマに於ける小麦積取りを終えて再来航した聖川丸の乗組員は同日午前と午後に上陸が許され、市内を観光したが、6時より船内で開かたスキヤキパーティーには市長、移民局長、港湾局長、商議会頭及び在外事務所のト部、日会の三原諸氏が出席した」

日本郵船浅尾社長談、「待たれる船舶への国旗掲揚」

「自立経済への道、早く船舶に国旗掲揚を、日本郵船社長浅尾新甫」1950年10月11日号

「日本の商船は戦前630万トンを有し、更に戦争中に300万トンを急造し、合計930万トンとなったが、開戦1年後からアメリカの潜水艦に撃沈されたり、飛行機に撃沈されたりして結局800万トンを喪い、終戦後僅かに130万トンを残すのみとなった。(中略)日本の経済は貿易中心で自立しなければならないが、それには自国の船舶で貿易しなければ到底自立はできない。だから早く日本に船を持たして貰いたいと要望していたが、漸次造船が許され、現在就航し得る船は合計170万トンとなった。しかしその約60%は未だに戦時標準型であり、30%は老朽船、新船は約10%である。(中略)去る8月15日にはアメリカの港湾には出入港が許された。これは日本の前途に大きな光明を投げ与えられたというべきであるが、然し日本の船舶はまだ日の丸の旗を掲げて行けない。占領軍の旗を掲げて行かなければならない。即ち国際社会の一員として認められていない。従ってすべての行動は一つ一つ総司令部の指示を乞いその指示の下に行わなければならない。(中略)今度こそは確実にそして急速に講和が成立するよう切望してやまないものである」

シアトル航路は戦前から、故国日本とのつながりを持つ、日系人社会で最も重要な航路だった。戦後その再開を待つ日系人の期待は大きなものであったことがうかがえる。文献によると横浜 −シアトル定期航路再開は1951年11月23日、平洋丸のシアトル到着からとなる。

次回は戦争花嫁の記事についてお伝えしたい。

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


参考文献
■『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国総領事館、2000年

『北米報知』について
1942年3月、突然の休刊を発表した『北米時事』。そして戦後の1946年6月、『タコマ時報』の記者であった生駒貞彦が『北米時事』の社長・有馬純雄を迎え、『北米時事』は、週刊紙『北米報知』として蘇った。タブロイド版8ページ、年間購読料4ドル50セント。週6日刊行した戦前の『北米時事』に比べるとささやかな再出発ではあったが、1948年に週3日、やがて1949年には週6日の日刊となった。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。