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マイノリティー初のNBA選手 ワタル・ミサカ氏逝く

NBA(National Basketball Association)の前身であるバスケットボール・アソシエーション・アメリカで、初の非白人系マイノリティー選手としてプレーした日系アメリカ人のワタル・ミサカ氏が、ユタ州ソルトレイクシティーで11月20日に95歳で亡くなった。

身長174センチメートルとバスケットボール選手としては低身長のミサカ氏は、チーム司令塔の役割を担うポイント・ガードとしてニューヨーク・キックスで1947年に3試合出場。これは、ジャッキー・ロビンソン選手がアフリカ系アメリカ人として初めて近代メジャーリーグでプレーしたのと同年で、NBAでアフリカ系アメリカ人選手が登場したのはその後の1950年。マイノリティーとして初めてNBAの舞台に立ったことについて、ミサカ氏は後年の『ソルトレイク・シティー・トリビューン』紙からの取材に対して「誰も気にもしなかった」と述べ、当時は大きな話題にならなかったことを伝えた。

ミサカ氏はバスケットボールを中断して米陸軍での兵役も経験しているが、その前後のユタ大学在学時、1944年と1947年には大学バスケットボールリーグでユタ大学を全国優勝に導き、プロ選手への道を開いた。アメリカの大学バスケットボール全国リーグには、National Collegiate Athletic Association(NCAA)とNational Invitational Tournament(NIT)があり、現在はNCAAが主流だが、当時はNITがより盛んだった。ミサカ氏率いるユタ大学はNITの1944年大会では優勝を逃すも、NCAAで優勝。1947年にはNITで優勝を成し遂げた。強固なディフェンス選手として知られていたミサカ氏はこの決勝戦で、ダートマス大学のスター選手だったラルフ・ブレッド選手を無得点で抑えた。「NIT決勝戦が行われたマディソン・スクエア・ガーデンは、大学バスケットボールのメッカ。そこで全国的スター選手を無得点で抑えるなんて、誰も想像できなかった。ディフェンス・プレーとしては大学リーグ史上最高の快挙」と、ミサカ氏の当時のチームメートであり、現在ユタ大学でアスレチック・ディレクターを務めるアーニー・フェリン氏はミサカ氏の訃報を受けてコメントを出している。

(ブルース・ラトリッジ 翻訳:室橋美佐)

Bruce Rutledge worked as a journalist in Japan for 15 years before moving to Seattle to found Chin Music Press, an independent book publisher located in Seattle's historic Pike Place Market.