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私の東京案内 3

日本橋界隈 その1

東京探索の初日はホテル(前述のホテル、あるいは地下鉄の人形町駅)を出発点として日本橋界隈を歩き、東京駅八重洲口まで行く。帰途はホテルまで歩いて戻っても40分ほどだが、疲れていればタクシーがいい。東京のタクシーは安くないが、電車は乗り換えの必要があるので、この場合は勧められない。

「日本橋」の名のつく界隈は中央区の約半分を占めていてかなり広い。北には神田川(その北は台東区)が流れ東側には隅田川が海に向かって南下している。広域だから下に特定の場所名が加わる。例えば「日本橋人形町」のようになる。まずこの人形町を探訪、大通りは「人形町通り」だ。そこにある地下鉄駅を中心に歩くが、その北東にある「浜町」と南へ下った「水天宮」の二駅、およびその脇を走る高速6号線(高架)に囲まれた小地域である。

隅田川と日本橋川に挟まれた地域の一部となる人形町は、奇跡的に先の大戦で焼けなかった。古いものが比較的残っている、都心では数少ない場所である。江戸時代の17世紀、ここに芝居小屋(幕府公認三座のうち二座)があったからその名がついたのだが、加えて繰り人形芝居の小屋もあった。それに見世物や曲芸の小屋も加わった人形町は一大歓楽地であり、周辺には芝居関係の者たちが住んでいた。そしてこの芝居の街は、浅草に移転させられるまで、200年ものあいだ賑わい続けた。人形町通りを歩くときには、その頃の人形劇の舞台の模型が飾ってあるので見逃さないように。実物の舞台や人形は江戸東京博物館(最寄り駅JR/地下鉄「両国」)で見ることができる。

芝居と歓楽の延長として、街の東はずれには遊郭があった。その頃、あたりは葦の茂る湿地帯だったので「葭原」といったが、遊郭ができたのは1618年だ。江戸幕府はずいぶん手早い対処をしたことになる。それが40年近く続いた後、浅草に移された。跡地には武家屋敷が建った。明治維新のときにふたたび変わって、この辺(人形町2、3丁目)は、は再び繁華街となるのだが、「よし町の芸者」は「柳橋の芸者」とともに東京では一流と言われた。300人近くもいたという(今は16人とのこと)が、人形町が粋な下町情緒の街となり、それが今もかすかに残っている裏にはこういう経緯があった。

東京のどまん中に位置しているにしては静かである。ほど遠くない所に、街を切り取るかたちで高速道路があり、(1964年の東京五輪のときにできた)高層のオフィスビル群もすぐ近くあるにもかかわらず、ここに来ると心が休まる気がする。古き時代の記憶を心に持ちながら生活する人たちが今もいて、その息づかいが感じられるからだろうか。

老舗の小商店がいくつかある。わずかだが木々の緑のある小さな神社もある。もしかすると古きよき時代の日本の都会の「原点」がここにはあるのかもしれない。「ユートピアのようだ」と言った人がいる(川本三郎『私の東京町歩き』)が、散策にはもってこいの場である。

歩くのに最適なの甘酒横丁で、人形町交差点から5本ばかり南西に入った道だ。両側に並ぶ店は食べ物を扱う店舗が多いが、昔風の店先に手製の雑貨や竹製品を置いた店に、おばあさんが店番していたりする。人形町通りにある「うぶけや」は刃物専門店だが、明治維新の頃からここにあるという(最初は大阪にあったとかで創業は1782年頃)。小さい店舗ながら風格のある店構えで、こういう古い店は入って見るだけでも価値がある。今は見ることもまれになった「火のし」や「和バサミ」が置いてある。伝統の技でも見事なつづらを作って売る「岩井」や三味線の専門店もある。これらの古い店がこの街には健在(数は少なくなっているが)だし、なによりもここには、東京の中心からはすっかり姿を消した「路地」がまだある。

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「ビーフかつ」や「オムライス」などはいわゆる「洋食」の定番だが、それを食べさせる店がある。和風洋食とでも言ったらいいか、西洋料理を日本流にアレンジしたものが「洋食」だが、Western Dish」とは微妙に違う。ここ人形町では(他所にもあるが)この「洋食」を戦前の昔懐かしい店内で食べることができる(人形町は戦災に会わなかったから)。「来福亭」は創業が明治27年だそうだ。「小川軒」というのもある。その名称からして今風ではないし、店構えもおそらく味も、わたしが子供のころ(昭和2030年代)と同じだろう。通りを一本入った場所にある「玉ひで」は、今も家庭でよく作る「親子丼」(しゃも鶏を使っているという)の一点ばり、江戸時代から続いている。長い歴史のゆえか、昔めいた雰囲気が楽しいのか、昼時になると開店を待つ客が道に並ぶ。わたしも食べてみたが、値段に見合うものではなかったから勧められない。他方、「志乃田寿司」(甘酒横丁通り)のいなりずし(握り以外の他の寿司も何種類かある)は、昔ながらの味付けでおいしい。人形焼を作って売る「重盛永信堂」(人形町通り)の小さな店頭には、いつ見ても若い観光客が順番を待つている。

人形町の東に横たわる隅田川へ向って歩くと途中に小さな緑地帯がある。その先が水天宮(今は仮の場所、修理中の本宮はそれより東方)で、出産と安産祈願に訪れる母娘や夫婦などで今も賑わう。もともと人形町はこの宮の門前町として発展したというが、建礼門院を祀る場所だったとか。『平家物語』に語られるる悲劇の女性(平家一門が西海の水に沈んだとき一人残り出家した)と安産がどういう関係かはわからないが、毎月5日の縁日は特に人出が多い。「明治座」がその左手前にあり新劇(歌舞伎など伝統演芸でも西欧からの輸入ものでもない演劇)を上演する。ここまでくれば隅田川は眼と鼻の先である。

(田中 幸子)

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