Home 食・旅・カルチャー 私の東京案内 東京右半分6 「江東区」

東京右半分6 「江東区」

墨田区の真南に位置する江東区は、その南端で東京湾に面している。川や運河など水が多い。江東区の一部の深川、その中心である門前仲町についてはすでに書いた。東京駅から門前仲町までは、東京駅を発して永代通りを走る都バスで行くのがおすすめ。地下鉄でも行けるが、街並みや地理のぐあいがわからない。

バスは江東区にはいると細い川をいくつもまたぐ。その一つが横十間川。現在の墨田区と江東区との境界はこの川(運河)にそって引かれたのではないかと思う。北十間川から分かれてまっすぐ流れるこの水路は、小名木川を越えて仙台堀川まで南下していく。「仙台堀川」という古めかしい名は、そこに仙台藩の蔵が並び、傍を流れる水路が米の運搬に使われていたことから来ている。

東京の「右半分」には、千葉県との境界である江戸川に至るまで、運河がいくつもあった。多くの川や運河が埋め立てられてしまった東京の「左半分」にくらべ、このあたりにはその頃の面影が少し残っている。木々が植えられた岸辺は今は公園になっていることが多い。そんな風景を見るには、地下鉄東西線で門前仲町から一つ隣の木場駅がいい。

今はたいへん賑わう木場駅の周辺は、江戸時代には材木置き場があった。この一帯は、埋め立てが行われる以前は海だったのだ。今も小さい運河が何本かあり、使われてはいないものの、あたりに「水の街」の感を与えている。散歩にいい。駅から北にむかうと大きな木場公園、それを西に見ながら歩いて公園の北端にある東京都現代美術館をのぞくのもお勧めだ。

荷風は、この辺の散策中に思いがけず「元八幡(もとはちまん)」を発見し、感激したことが「深川の唄」にある。私もある早春の午後、その辺りを歩くことにした。おそらく荷風がしたように、東の方角から始め、つまり荒川を葛西橋で越えて、西へに向かった。わたしの出発点は定宿のある新小岩駅付近だから、まず新小岩駅前から西葛西行きのバスに乗り、30分ほどで葛西橋の袂まで行った。

バスを降りて橋を渡り、途中、荷風が見たであろう景色を想像しようとするがうまくいかない。変わり具合が決定的なのだ。荷風の頃にはなかった橋が海の方向にひとつあるし、海岸の埋め立ても進んだ。だから、荷風には見えた海は、今は葛西橋の上からは見えない。加えて、川の真ん中を高架の自動車路が走っている。目に入るのは、まずコンクリートの柱、それにひっきりなしに動く車ばかり。荷風の記述を基にその頃の風景を想像するのはほぼ不可能だった。

変われば変わったものだと思うが、この葛西橋のあるあたり(西葛西)は、今はインド人が多く住むことで知られている。2000年に結ばれた「日印グローバル・パートナーシップ」によって大挙してやってきたIT業界で働く人たちとその家族だそうで、その子供たちのための学校には、一時は800人も生徒がいたという。食品店に行けば、多種多様なレトルトカレーをはじめマサラやナンが手に入るというし、料理店だけでなくボリウッド映画が上映されたり、ヨガのスタジオもあると聞く。毎年秋にはデイワリフェスタがあって多くの住民が参加するらしい。

葛西橋を渡ってすぐの道(西詰め)を左にとって歩くとまもなく、元八幡通りがある。商店街がその先にあるらしく、その表示があるが、ぽつぽつとある店舗には「八幡」の入ったものが多い。ただし、ここにあった八幡宮は門前仲町の場所へと移転された。だからここに残っているのは、元々あった八幡ということで「元八幡」と呼ばれるので。ただし、ここの八幡宮が建ったのは749年とずいぶん古い。そして、広重の描いた「江戸百
景」の一つであることからもわかるように、その頃は景勝地だった。境内も今よりずっと大きく、松と桜の木が3万本も植えられていたという。あたりは海辺だったから、境内からの眺めはすばらしかったはすだ。それも想像するのは今は困難なのだが。

その「元八幡」を探すのには通りを歩いている人に訊いたのだが、知らない人もいた。荷風でさえ、近くにある仙気稲荷を訪れた折に偶然に見つけたのだから。それほど小さく、ひっそりと住宅地の中にあったが、見捨てられたかのように時の流れを見つずけてきたといえる。この八幡を訪れる人はほとんどいないようだ。この辺りは今は南砂7丁目と呼ばれ、荒川からはごく近いが、今では海からはかなり遠い。

元八幡を後にし、今度は地下鉄東陽町駅のある永代通りのすぐ南を探訪することにする。元八幡通りからバスに乗って東陽町界隈へと向かうと、1分足らずでかつては「洲崎(すさき)」といったそのあたりへ着く。現在
の地名は東陽町1丁目。荷風も頻繁に足を運んだ地だが、彼は舟で通ったらしい。「料理屋の二階から芸者の唄が聞こえ、新内流しが通ってゆく」と書いている。

昭和の小説家、芝木好子(しばきよしこ)はこの辺りを舞台にして「洲崎パラダイス」という小品を書いている。水商売の女が川の端で商売を営む様子が描かれているが、たしかにそれらしい小さな運河がある。橋の袂から川端へ出ようとすると鉄の門があってカギがかかっていた。ここ洲崎は、前出「根津」の項に述べたように、東京大学に近い根津の遊郭が移ってきた地である。昭和も後期になると、自主独立で売春をする女性たちが集まって来て、「カッフェ」とよばれた売春の場が220 軒、働く女は2000を下らなかったという。

大き目な通りをふたつ南へ歩くと汐浜運河(しおはまうんが)へ出た。この運河はすぐ東で海に流れ込んでいるが、それに沿って15分ほど行くと須崎神社の脇に出る。木場駅から歩くなら永代通り(駅のすぐ南)を一本入ったところなのだが、見つけにくいかもしれない。駅との間に流れる細流があるが、それははまっすぐ北上して仙台堀川のある公園のなかへと流れている。

江戸の昔は、須崎神社のある場所も海辺だった。この神社は「元弁天」とも呼ばれたらしく、春先にここで船遊びをする人が多かったという。「船上で芸妓の奏でる音曲に耳をかたむけ酒を楽しんだ」と境内の案内板に書いてある。海がすぐだから、高潮による被害が出ることが多かった。それで建った「波よけの碑」もある。見捨てられたような元八幡とは違って、この神社をお参りする人は少なくないようだ。社寺の支援者たちもしっかりとあるようで、小ぶりながら立派できれいな境内である。

洲崎神社のすぐ南にひろがる一帯は、交通が激しい。賑やかだがあまり品のよくない下町の風景を呈している。神社はそのなかにあってなんとか品格をたもっているが、周囲の風景とはかけ離れた感じを与える。お参りしたあと静かな境内にしばしたたずみ、それから一休みした。そのあと木場駅の脇を走る三つ目通りでバスをひろう。バスは木場公園を右(東)に見てまっすぐ北上したが、20分ほどで終点のスカイツリーに着いた。

(田中幸子)