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永井荷風の足跡を辿って- 東京右半分9 ~葛飾柴又~

堀切からバスで15分ほどの新小岩の街は、葛飾区いちばんの繁華街である。だが、なんとなく「田舎」であった昔がそのまま今も息ずいているような雰囲気がある。そう遠くない過去には農業人口が多い地区だったから、その頃の地主なのだろう、広い庭を持つ大きな家がいくつかある。あとは、小さな新建材の庭なしの家々がごちゃごちゃと建っている。京成電鉄の立石駅あたりまで足を運ぶと、そこは戦災に会わなかったこともあって、「昔懐かしい」と表現したらいい雰囲気がある。それもあってか、駅周辺の居酒屋は都内でもよく知られており、わざわざやって来るファンもいる。

葛飾区のなかにある、新小岩以上に知名度の高い場所といえば、柴又帝釈天だろう。永井荷風はそこへも足を運んでいる。正確には帝釈天題教寺という日蓮宗の寺だが、その周辺地を柴又という。千葉県との境を流れる江戸川に沿った場所で、戦災の被害を受けなかった。そして、柴又といえば、「寅さん」でお馴染みの山田洋治監督作品「男はつらいよ」シリーズだろう。映画の舞台として帝釈天の参道わきの商店街が出てくるが、それが寅さんの生まれ故郷ということになっている。

旅先でいつももめ事を起こす寅さんが帰ってくる街が柴又。そこに住む妹とその家族、帝釈天門前町の住人は、あきられながらも温かく寅さんを迎える。これがシリーズの毎回の筋書きで、柴又には昔ながらの東京下町の情緒と人間関係が存在するという設定だ。帝釈天の住職は、子どもの頃の寅さんをよく知る人物ということになっている。寅さんを演じる渥美清はたしかに独特な魅力をもつ俳優で、シリーズは長期にわたって何本もつくられた。遠いワシントン大学のキャンパスで寅さん映画を見たことがあるが、ファンは日本人の他にもいるらしい。

葛飾区にある柴又帝釈天への参道

寅さん映画には柴又という土地柄が表現されているが、昔から観光と信仰とが一つになった場所だった。中心は帝釈天への参道で、今も昔もそこに並ぶ各種店舗は草餅や佃煮、その他のおみやげ物を求める観光客たちを迎えている。寅さん記念館や寅さんの銅像もあり、最近になって妹「さくら」の像も建てられた。

柴又へ人々が集まる理由は、荷風の時代も現在も、基本的に変わらないだろう。帝釈天を訪れた荷風は、その周囲の小道を歩き、川を眺め、川魚を提供する料理屋「川湛」に寄る。「川湛」は今も柴又にある。目の前の江戸川では、今でもいろいろな魚が釣れるそうだ。周囲の風景はだいぶ変わったにせよ、川湛からの眺めはどうだったろう。そう考えながら辺りを歩き、帝釈天から徒歩で5分ほどの所にある「山本亭」という屋敷に行ってみた。合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の住居として建てられ、大正12年の関東大震災を期に、浅草の小島町から現在地に移転したもので、葛飾区が登録有形文化財に指定している和洋折衷の建造物だ。葛飾区の管理でいろいろな催しに使われている。家の中は昭和初期によくあった住宅で、周囲には畑が広がっている。わたしが柴又帝釈天とその近辺へと足を運ぶのは、今の都心から消え失せた昭和がそこにはあるように思われるからだ。かつての半都市半農村の姿が、ここにはちらほら残っている。

「寅さん記念館」の脇から土手に上ると、江戸川が一望できる。堤防として作られた土手だから高く、車の交通はオフリミット。長いサイクリングロードが続いていて、川の脇は広々とした緑地地帯である。この自転車道を北へ向かえば埼玉県との県境へ、南へ行けば江戸川区の南端で海に接する場所まで行ける。

葛飾区には川がいくつもある。東の荒川、西の江戸川以外にも中川がある。これは自然の川で、曲がりくねって流れながら、区の中心部を離れるとしばらく荒川に並行して、それから綾瀬川へと流れこむ。かつて農家が作った野菜やコメを運搬する水路であり灌漑用水でもあった水路跡もあちこちに残る。今も小川を挟んで緑が多く「親水公園」と呼ばれている。このあたりが昔は一大農業地であったことを示している。

葛飾区の北端に「水元公園」と呼ばれる緑地帯があり、区内の水の元締めのような大きなな貯水池がある。東京にもこのような広大なオープン・スペースがあるのは驚きだ。都内で一番大きい公園だそう。ニューヨークにおけるセントラルパークに匹敵すると言ってもよい。バード・サンクチュアリーもある。そこに半日ほどもいると、高層建築に覆われた大都会にいることを忘れることができる。地元の人以外に訪れる人が少ないのは、交通の便が悪いからだろうが、だからこそ、水元公園は今の形を保っているのだろう。