By 佐々木 志峰
シアトルから東へ伸びるフリーウェイI—90。ワシントン州東部に入るあたりで標識の文字に目が留まる。「TOKIO」とある。
すぐに「TOKYO(トーキョー)」と連想した。少し調べてみると、ノーザン・パシフィック鉄道の停車駅だったとある。20世紀初頭に日本から渡ってきた鉄道労働者たちの貢献から駅名が改称されたとの記載がある。
「東京」の名称は歴史として日が浅い。江戸から改称されたのは1868年。20世紀初めであれば、まだ数十年に過ぎない。「江戸」時代に生まれた日系移民もいただろう。
この「TOKIO」は米国各地の小さなコミュニティーで名付けられたようだ。1906年から08年あたりだそうで、テキサス州西部のコミュニティーは、東京を由来にして名が付いたとある。ノースダコタ州北東部では、グレート・ノーザン鉄道の停車駅に付けられたが、こちらの由来ははっきりと分からなかった。
日系移民史については、全米日系人博物館が運営する「ディスカバー・ニッケイ」に出ている記事が詳しい。その中では、ノースダコタ州へも鉄道労働者が移住してきたとの記載がある。グレート・ノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道の2線が走り、同州内でも日本人のコミュニティーがあったという。だが、TOKIOからはやや離れていたようだ。
年代的に見ると、日本と米国は政治、外交面で動きがあった。1904年から05年にかけて日露戦争が勃発。終戦講和は米国が関わり、ポーツマス条約へとつながった。新聞が有力な情報源だっただろう当時。どのように伝聞されたか現代社会からは想像がつかないが、日本が認知されることもあっただろうか。
カリフォルニア州では反日運動が高まりを見せ始める。日本から米国への移民労働者を制限する紳士協定は1908年に交わされ、いわゆる写真花嫁の時代となり、やがて市民権を持たない外国人の土地所有を禁止する法律も施行されるなど、日系移民にとって暗い時期を迎えるようになる。
ふと目に入ったTOKIOから、いろいろな物語が見えた気がした。



