シアトル移民日本人による 理髪業とホテル業
発展の歴史
By 新舛 育雄
初めに
1900年の初め頃、多くの日本人が一稼ぎするために海を渡りシアトルへ向った。シアトルという地で日本人が挑戦し、大成功を収めたビジネスの中に理髪業とホテル業があった。
日本人によるこの二つのビジネスの水準はいずれも白人社会を驚嘆させる、非常に優れたものだった。 日本人経営の理髪店は夫婦共稼ぎの仕組みが多く、中流階級の白人たちに大変な好評を得ることができた。また日本人が経営したホテル業はシアトルの大型ホテルを次々と手中にし、白人経営のホテルを圧倒した。
本連載は、日本人が大成功を収めた理髪業とホテル業の歴史についての概要を題材とする。また、この二つのビジネスに挑戦した一人である筆者の祖父の新舛與右衛門についても取り上げる。 本連載を通して当時日本人がアメリカという異国の地で、どのようにして理髪業やホテル業を成功させたのかをさまざまな角度からお伝えしたい。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を基に、北米報知での連載「新舛與右衛門―シアトルに生きた祖父―」と「『北米時事』から見るシアトル日系人の歴史」を参考に作成を試みたものである。
第六回 日本人社会のリーダー、伊東忠三郎
伊東忠三郎の功績

伊東忠三郎(冒頭写真)は1872年に山口県大島郡沖浦村に生まれた。大島郡に住んでいたときは小学校の校長を勤めていた。1893年12月にシアトルへ上陸し理髪店を開業、同時にバス、洗濯業も兼業した。さらに1896年には日本食料品店を開業、1900年には美術品店にとどまらず、洋食店、和様グロサリー品のホールセンターと事業を広げていった。また同年11月には富士桂庵を開始した。これらのビジネスの概要が外務省資料に以下の添付画像の通り掲載されている。
伊東忠三郎は公的な役職を次のように歴任している。
1903年 山口県人会創立、山口県人会会長
1907年 理髪業組合創立、理髪業組合長
1918年 シアトル国語学校維持会長
1921年 北米日本人会会長
1923年 米国西北部連絡日本人会会長
1928年 二度目の北米日本人会会長
1932年 二度目の米国西北部連絡日本人会会長
1934年 北米日本人会商業会議所会長
伊東は公共事業につくし、シアトル日本人コミュニティをリードしていった中心的人物であった。北米日本人会会長を1921〜23、28、34年度計5期、また北米連絡日本人会会長を1923〜26年、32〜33年度計6期歴任した。約10年間日本人会のトップとしてその活動のために奔走した。

このように多彩な経歴を持つ伊東について『米国西北部日本移民史』に次の紹介文が掲載されている。
「伊東忠三郎 山口県大島郡仲浦村1872年11月15日生 209 5th Ave. So. Seattle, Wash
氏は1872年、山口県に生る。氏は学を卒へて*1後暫く小学校の校長を勤めていたが、大局に着眼し、内地では到底名を成す事の難きを知って、遂に渡米の志を立つるに至った。
1893年6月、バンクーバー市に上陸し、約4ヵ月滞在。同年12月、シアトルに移り、同市に理髪店を開業し、又バス及び洗濯業等をも兼業して、只管業務の発展を計り、遂日*2好成績を挙げて、今日では同胞中有数の成功者と目されている。
1896年に至って伊東商店を新たに開業し、日本雑貨及び食料品の貿易を営む。1900年には伊東兄弟商会と改名し、実弟伊東寅太郎氏を支配人として専ら同商会に係る桂庵*3の必要を感じ、富士桂庵を開業した。即ち是在留同胞の同業経営の嚆矢*4となす。
尚今北米日本人会の会長の要職にあって、日本人会の為に尽される所少からず。また山口県海外協会支部長として同県海外協会の為に奔走している。又防長信用組合長、日本人理髪業組合長、シアトル国語学校後援会長、シアトル小児園監督、ワシントン大学日本人学生倶楽部後援会長、西北部連絡日本人会会計等の公職に在り、老ひて益々壮なる氏の身心を以て東奔西走、公務の為席の温まる暇もない。実に氏の壮者も凌ぐ精力と意気には何人も感嘆描く能はざるものがある」
*1「学を卒へて」とは学業を終えるという意味
*2「遂日」とはある期間を通して成し遂げること
*3「桂庵」とは仕事の仲介を業務とする人のこと
*4「嚆矢」とは物事の始まりを意味する
『北米時事』1919年1月13日号の「一日一人人いろいろ」に次のように掲載されている。
「日本人理髪業組合長、北米日会議長たる彼は山口県人でシアトル同胞中の古参株である。1896年頃に当地で日本食料品店を創めた事もあると云ふ。理髪組合創立以来、組長となってよく世話をするので毎年推されている。公共の事にも熱心に努力するが彼には200人近い理髪業者と云ふバックがある。これが彼の勢力であって彼の事業中一番成功したものであらう」

『北米時事』1919年1月13日号「一日一人人いろいろ」
1928年に二度目の北米日本人会会長就任後、『大北日報』に伊東は次のメッセージを書いている。
「北米日本人会は同胞奉仕の機関−どうか仕事をさして下さいと−伊東会長のステートメント:日本人会の仕事につき伊東会長は語る。一致協力してやりさえすれば日本人会も隆盛になります。今までのように内輪もめが続いては一般同胞の信頼を受けることは出来ません。日本人会の為すべき仕事は沢山あり、又仕事をすればするほど、同胞社会の信用も増してきますから私は不才を省ずウンとやる覚悟で御座います。申すまでもなく日会は同胞奉仕の機関でドシドシ仕事を持ち込んで公共業をさせてもらいたのであります。社会部でも教育部でも労働部でもそれぞれ部署を定めて同胞の御奉公をするやうになっていますから問題は日会を利用し且つ鞭撻して仕事を命じて頂きたい。日会の執務振り関して不行届の点があれば遠慮なく役員に注意を願ひたい。そして同胞の力によりて日会を真の公共機関として活動したいのであります。この際同胞の援助を忠信から願ひたいのであります」
伊東の公共活動の原点にあったの
は、初めて渡米した日本人の擁護、救済であった。伊東はシアトル日本人コミュニティーのリーダーとして、日本人住民のために尽くす、滅私奉公な人物であった。
以上のような多大なる功績を残した伊東は、1928年に勲四等瑞宝章を受賞している。また、1940年には日本産業協会から海外発展の功労者として表彰された。(下画像参照)

『北米時事』1940年1月12日 伊東忠三郎日本産業協会表彰
伊東忠三郎と新舛與右衛門の関係
筆者の祖父與右衛門に関する史料の中に、「伊東忠三郎」の名前が繰り返し出てくる。

與右衛門の結婚証明書
1911年8月に與右衛門は同郷の宮崎アキと写真結婚をした。シアトル市に届け出た英文の結婚記録が、ファミリーサーチ(www.familysearch.org/ja/home/portal)で検索すると二枚見つかる。與右衛門27歳、宮崎アキ18歳の時である。一枚の右上に”C. Ito”のサインがされている。(上画像「與右衛門の結婚証明書」参照)これは伊東のサインと見られ、伊東がこの結婚の推薦者、仲人となっていたことがわかる。
與右衛門の小さな手帳の中に1916年8月15日付で、数名分の住所録が自筆にて書かれている。その中に伊東のものと見られる、「Mr. C. Ito 124, 2nd Ave 8」という住所が記されている。(下画像「與右衛門手帳住所録」参照)

與右衛門手帳住所録
1918年に與右衛門は一時帰国しており、そのときの再渡航手続きの書類が残されている。この書類は英文で発行され、日本語の訳文が貼付されている。その訳文の中に以前のアメリカでの住所、職業として「北米ワシントン州シアトル市ワシントン街一六三 理髪業」とある。出航予定日と出航船については「1918年11月29日 横浜港船名加茂丸」とある。そして照会先として「合衆国内ニアル者 伊東忠三郎北米ワシントン州シアトル市ワシントン街230」とある。伊東が與右衛門のアメリカでの保証人となっていた。
以上の史料から見ると、與右衛門は当時シアトル日本人社会のトップであった伊東と非常に深い関係にあり、與右衛門の仕事、生活は伊東に大きく支えられていたことがわかる。理髪業の成功は、まさにこの伊東との関係が大きく寄与したと考えられる。
サヱ子叔母のインタビューでは、「與右衛門は大島に大変親切な人がいて、理髪業を助けてくれた」と言っていた。この「親切な人」とは伊東忠三郎をさしていると思われる。
與右衛門が死亡した1928年12月3日に伊東は一時帰国している最中であった。このため伊東は與右衛門の葬儀には列席できず、日本人会副会長の沖山栄繁
が代理で列席した。葬儀には沖山のほか、星出惣吉、岡村正一などシアトル市日本人会を代表する人物が列席しており、與右衛門は伊東を中心とした日本人会と繫がりを持っていたことがよくわかる。
與右衛門が伊東とこのような強固な関係になれた主な理由は次のようなことが推測される。
① 出身地が同じ山口県で、かつ伊東の出身地大島郡仲浦村と與右衛門の出身地熊毛郡上関村は海を隔ててお互い対岸の村だった。同郷であることが親近感をより増長させた。
② 與右衛門は大勢の流れに沿って生きていくタイプであった。蒲井村でアメリカ移民が始まるとその流れに乗ってアメリカに渡った。またハワイからアメリカ本土へ転航する時も、この時期、転航が大きな移民の流れになっていたため、與右衛門もそれに従った。シアトルで多くの人が理髪業を経営しているのを見て、伊東を頼り理髪業を始めることができた。
③ 與右衛門は物事に正面から立ち向かう非常に真面目な性格であった。伊東はシアトルでは実業家であったが、元小学校校長を経験した教育家であり、真面目な人間を非常に重視した。與右衛門の仕事への前向きな姿勢、情熱に対して、伊東の厚い信頼を得たと推測される。
以上のように與右衛門は公私ともに伊東の信頼と強力なバックアップを受け、理髪業経営に成功し、次のステップのホテル業に向っていけたものと考えられる。
本稿は筆者が卒業した日本大学通信教育部史学専攻での卒業論文「シアトル移民研究—新舛與右衛門の理髪業成功についての考察—」を基に、筆者の連載「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」第19回「日本人社会のリーダー奥田平治と伊東忠三郎(https://napost.com/ja/nikkeiimin_history_0224)」を一部参考にして作成したものです。
※記事からの抜粋は旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
◼竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年







