北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(https://hokubeihochi.org/nikkei-newspaper-digital-archive/)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。
筆者: 新舛 育雄
第19回シアトル日系人社会のリーダー、奥田平次と伊東忠三郎
前回はコミュニティチェストとポトラッチ祭についてお伝えしたが、今回はシアトル日系人社会のリーダーとして活躍した奥田平次と伊東忠三郎の功績についてお伝えしたい。
奥田平次
文献によると奥田平次の略歴は次の通りである。
1867年1月2日 奈良県磯城郡安倍村に生まれる。
1890年 在東京の際田村某の女性と結婚したが、1899年に亡くなった。
1893年8月 渡米
1900年 パーキンス女史と結婚、シアトルで運送業開始
1901年 日本人会組織時、副会長
1906年 東洋運送会社社長
1913年 北米連絡日本人会の初代会長
1919年 奥田柴垣商会創立、日本品輸入貿易
1920年 北米日本人会会長
1924年 大北鉄道に邦人労働者供給を業とする東洋貿易会社社長
1925年 二度目の北米日本人会会長
1927年 米国西北部連絡日本人会長
1900年 シアトルで運送業開始した頃の様子を記した記事があった。
「メーン街盛衰記、中村赤蜻蛉」1939年1月1日号
「1900年1月初旬にバイキ街のさゝやかな教会で奥田平次氏がボストン出身のパーキンス女史と結婚した。第三街をメーン街の方へ歩いて帰ったそうであるが、新郎新婦がアーム・イン・アームで歩むには第三街の道は余りに狭く、路傍の草村からは前後左右に兎がピョンピョンと飛び出したものであったとのことである。奥田夫妻はメーン街と第五街の角、今の西岡デンティストのあるルームを当座のラブネストとし、下で今の運送業を開始した。メーン街にビジネスを始め、連綿として今に伝はってをり、今に生き残ってをる者は実に奥田氏一人である。奥田氏は間もなくメーン街507番に引越し、事務所のフロントでは細君が英語を教へた。故高橋徹夫氏、築野豊次郎氏などが足繁く習ひに来た」
また、1900年以降の奥田平次氏のビジネスの様子を回顧した記事があった。
「あの頃の一日分が現在の一ケ月分、運送業」1940年1月1日号
「何しろ団子汁を食った時が今から4、50年前、即ち半世紀も前の話で、世界大戦当時と云ふと四半世紀の25、6年前のことだから、そう一寸思いだせんナァと前置きして奥田平次氏は例によって眼をショボショボさせながら……開業以来同一場所で連綿として経営を続けてゐる東洋運送社内の横まった事務所で感慨に耽りつゝ……エキスプレス華やかなりし頃を追憶し乍ら次の如く断片的に語った。『その時分は自動車と云へばみんな2000㌦以上もしたが、トラック4台にドライバー4人がオールデイ走り廻るほどの忙しさだった。料金は今とは殆ど変わってゐないが、当時よく働いた一日分は現在の一ケ月分に相当するんだからね。戦争の末期には毎船300人位の日本人が来るし、日本郵船と大阪商船とが毎月2回で4回、その他外国船等もおり、藤井ホテルだけで一日のデリバリーが150㌦もあったことを覚えてゐるね。1908年の日米間の船賃は日本からは63円。米国からは43㌦50仙だったと思ふ。尤も為替相場は60㌦近くが100円に相当したんだからね。あの時分は大いに儲けた訳なんだがさっぱり残ってをらんよ』」
「実業観光団決定」1917年12月18 日号
「奥田平次主催シアトル母国実業視察団は愈々来年1月19日出帆の郵船伏見丸にて出発する事に決定。団費350㌦にて日本観光は10日の予定。往復総て一等賄い。定員15名なれば此際至急申込まるべし」
「伏見丸で帰国者」1918年1月17 日号
「奥田平次氏の一団には柴田商店の青木透、宮川万平夫妻、日本貿易社の副支配人伊東仙太郎、原清一、桐田の諸氏あり。シカゴ大学経済学士松本斎二郎。既報したる三根、鎌田、中村、春井の諸氏あり」
奥田平次氏の一団は本稿第5回でお伝えしたように、1月19日に佐藤大使と共に伏見丸に乗船し日本へ向かった。
奥田平次氏は帰国時に当時の日本の政治や経済の重要人物である、大隈重信、渋沢栄一と直接面談し、シアトル在留日本人の状況、問題点等を直訴した。
「奥田平次氏東京に在」1918年4月10日号
「帰朝中の奥田平次氏は目下東京にあり。昨日柴垣氏に達したる書状によれば、大隈侯を訪問せしに、 快く引見せられ例の如く快談、時の移るを知らざりしが、在留同胞の慰労法及模範的人物には何か表彰法を講せられ度しとの意見を述べたるに大ゐにに傾聴せられたりと。次に渋沢男を訪問したるは男は例により熱心に同胞の状態を質問せられ事業後継者、渡米緩和問題其他各種の陳情をなし、配慮を懇請して退出したりと。其他の運動を怠らずとあり」
大隈重信侯は奥田平次氏の訪問に答えるように1919年1月1日号に「在米同胞に告ぐ」としてシアトル在留日本人に「近来に到り排日の気焔衰え日米関係も益々親密となりつつあるは、在米同胞諸君の尽力に負ふ所大なりと信ずる」と激励のメッセージが掲載されていた。
「一日一人人いろいろ(11)、奥田平次君」1919年1月15日号
「昨日の総会で日本館会社の社長になった彼は、古への奈良の都の出身で10年1日の如くジッとしてはゐられぬ男である。原来健康体であるから能く働く。公共の事にもよく世話をしたが、通弁を業としてゐたので時々反対され批難の声もあったやうだが何も反対者の云ふやうに権謀術策のある腹黒い男ではないと信ずる。数年前、愛妻に先立たれて以来大分若返ったとの噂もある。仕事はテキパキと徹底的要領を得た所謂ヤリテである」
「奥田日会長は新市長に祝意を表す」1920年3月16日号
「岡島金弥氏辞任せるため奥田平次氏今回北米日本人会会長に選ばれたるが、過般の選挙にて当選せる新シアトル市長コールドウェル氏昨日事務引継ぎ昨日より就任せるに付き、奥田日会長は市在留同胞を代表し新市長を訪ひ其就任に対し祝意を述べたりと」
この記事は奥田平次が初めて北米日本人会会長になった時のものであり、日米親善に配慮していたことが伺える。
「日本産業協会で沿岸の三氏表彰、シアトルは奥田平次氏」1938年7月12日号
「日本産業協会では貿易の振興並びに国際親善に貢献された人々38名に対し、去る6月6日付け以て表彰を行ったが内10名は海外にある人で3名は太平洋沿岸在籍者である。シアトルは奥田平次、 ポートランド竹岡大一、ロサンゼルス森文五郎。奥田氏への伝達式は本日午後2時領事館にて行はれた。奥田氏は当地方の長老として既によく知られて居る。(中略)尚、奥田氏への表彰状はサンフランシスコ経由にて今朝領事館に到着したものである」
「息子さんを思ふ奥田老」1939年9月27 日号
「令息謙次君を日本に送った奥田平次老は大部寂し相だが『 息子も17になり大学に行く歳になったので、それ以前に日本に居られる叔父さんや叔母さんがどんな生活をして居られるか、日本の農民の生活はどんな風か、よく知らせてやり度い。そうすれば社会に出る様になってからでも役立つ事もあらうと思って一年ばかり私の故郷に送ってやりました。学問をさせるためではなく、生きた勉強をさせるためですよ』と語ってゐた」
『北米報知』1948年7月2日号によると長男謙次君はアメリカに帰国後、ハーバード大学を卒業し、26歳の若さでプエルトリコ大学の経済学教授となったことが記されている。
「読者からの回答」1940年1月1日号
当時のシアトルの著名人に次の二つの質問に答えてもらっている
①同胞社会でこうしたらいいと思ふ事
②今年自分でやって見度いと思ふ事
「奥田平次 ①過去に於てこうしたらいゝと思ってやったことも後には反対の結果を来したことが少なくなかったです。現在の同胞社会は各自が忠実に其の与へられた仕事に努力すること、民族発展の一員であることを強く自覚することが一番良いことだと思ひます。
②今更何をやって見度いなどゝの野心はありません。只人様に迷惑かけないよふにしたい。夫れだけです」
この回答は奥田平次が72歳の時のもので、自身の体験からにじみ出たメッセージに感じる。奥田平次は戦前の日系人社会の発展に多大な貢献を果たしたが、、戦後の『北米報知』創刊時に奥田遍理のペンネームで、自身が活躍した時代のエピソード等を二世、三世に伝授するため多くの投稿している。また、80歳の高齢で一世の帰化権獲得期成同志会の委員長を務めた。物事に積極的に取り組む人物で、それは晩年になっても衰えを知らない凄さがあった。
伊東忠三郎
文献によると伊東忠三郎の略歴は次の通りである。
1871年11月15日 山口県大島郡沖浦村に生まれる。
1893年 12月にシアトルへ上陸し理髪店を開業、同時にバス、洗濯業も兼業
1896年 日本食料品店を開業。
1900年 美術品店を開業さらに洋食店、和様グロサリー品のホールセンターを始めた。
1900年11月 富士桂庵を開始し在米日本人の経営の手助けを行った。
1903年 山口県人会創立、山口県人会会長
1907年 理髪業組合創立、理髪業組合長
1918年 シアトル国語学校維持会長
1921年 北米日本人会会長
1923年 米国西北部連絡日本人会会長
1928年 二度目の北米日本人会会長
1932年 二度目の米国西北部連絡日本人会会長
1934年 北米日本人会商業会議所会長
本稿第6回でお伝えしたように1918年頃、伊東忠三郎氏は理髪業において、白人同業者との協調を計った。理髪業組合新年会に白人組合幹部を招待し、挨拶も英語で行うなど日米協調を実行した。また白人側の理髪料の余りにも法外な値上げについて、伊東氏は白人側組合にかなり強硬に抵抗したが、白人社会との協調を計るため、やむを得ず苦渋の選択をし日本人側も値上げに踏み切った。この記事を読むと、伊東氏は直ぐに白人側の要求を受けるのではなく、日本人側の代表として白人組合に意見を主張できる優れたネゴシエイターであったことが伺える。
「一日一人人いろいろ(21)伊東忠三郎君」1919年1月30日号
「日本人理髪業組合長、北米日会議長たる彼は山口県人でシアトル同胞中の古参株である。1896年頃に当地で日本食料品店を創めた事もあると云ふ。理髪組合創立以来、組長となってよく世話をするので毎年推されている。公共の事にも熱心に努力するが彼には200人近い理髪業者と云ふバックがある。これが彼の勢力であって彼の事業中一番成功したものであらう」
伊東氏は山口県出身者を始め、多くの日本人に理髪業を授けた。筆者の祖父與右衛門 も伊東氏から理髪業を紹介され、成功を収める事ができた。
当時の北米時事社社長の有馬純清 氏が日本人会選挙について「 桜岳随筆」にて次のように述べている。
「桜岳随筆」1920年2月24日号
「山口県人の一派が結束して同県人を北米日本人会の役員に推薦しやうじゃないかと相談すると、温厚な伊東忠三郎君が、『そうはいかぬ。在沙同胞中多数を有する山口県人が団結して役員選挙をやるとなると非常な弊害が現れる。どうか其の事だけは伏して貰ひたい』と言ったので、其儘になったということだ。かくあってこそ真に同胞一般の福利と進歩とを擁護する者であるといふ事ができる」
日本人会選挙は時代が進むにつれ名誉職の争奪戦の様を呈していたが、伊東氏は自己の名誉ではなく、真にシアトル在留日本人のために尽くす仕事をしようと考えていたことが伺える。
「本社の質問に読者からの回答」1938年1月1日号
当時のシアトルの著名人に次のふたつの質問に答えてもらっている。
①今年私の実行したいと思ふこと
②事変に鑑み在米同胞は如何に生活の合理化を計るべきか
「伊東忠三郎 ①第一、金融機関の設立、第二世の将来の為の貯蓄を推奨し其機関の設立は急務中の最たるものなり。是非とも本年は其工作をなさねばならぬと思ふ。第二、公会堂の設立、会館の設立は十数年来の在留同胞の懸案なれば、事変終局後は是非とも具体的に出現する様努力し、運動機関の統制をなし、柔道、剣道の統一を計り、強固なる団体として第二世青少年の心身の鍛練を推奨したいと思ふ。②今回の大事変を一機会として真剣味に合理化する必要がある。冠婚葬祭に於ても、冗費を省き、不生産的な事は一切を止め、式典に重きを置く事とし、外見を飾らず華美を戒め贈答は其意志を表わす程度に於て止むる事とし、団体的にも個人的にも之を応用する事が生活の合理化の第一歩である」
「伊東、中河両氏帝国教育会より表彰」1939年10月13日、11月29日号
「シアトル国語学校維持会長伊東忠三郎、国校校長中川頼覚、タコマ国語学校長長崎正人三氏に今回帝国教育会より表彰状が授与された。17日に領事官邸にて祝賀の小宴開催。(中略)11月28日にはその祝賀会が日光楼にて国校維持会役員、学務財務委員により催された」
「日本産業協会から伊東忠三郎表彰状」1940年1月12日号
「伊東忠三郎氏は当地渡航以来、多年在留同胞の指導誘掖 に尽力し我国運の進展に貢献したる功績に因り、今般、日本産業協会総裁、伏見宮博恭王 殿下より表彰状を授与せられ、昨日領事館に於て其伝達式が行はれた。本年の受賞者は39名内10名が海外在留同胞であるが、在米邦人中其選に当ったのは伊東老のみであるのは特筆すべき名誉とせられて居る」
この伊東忠三郎氏の表彰について有馬純義氏が「北米春秋」にで次のように語っている。
「北米春秋、花園一郎」1940年1月15日号
「伊東忠三郎翁が今回日本産業協会から海外発展の功績者として表彰された。これは伊東翁個人の名誉のみでなく、シアトル同胞の名誉と考えへてよいと思ふ。何故なれば、今日までの同胞の奮闘がそれ丈け認められたと考へられるからである。(中略)伊東翁の多年の献身的奉仕に対して、我が社会はこれと云ふ感謝の意味も表して居らぬのに、日本からその功績が表彰されたと云ふのも本末転倒と言はずんば我が社会の自己認識の不足を暴露するものではないか。伊東翁は必らずしも、敏腕卓抜の見識を持って、同胞社会を指導したとは言えぬかも知れぬ。併し乍ら多年縁の下の力持ちとして奉仕を続け来れることは何人も異論なきところと思ふ。(中略)伊東翁は勿論同胞社会からどんな感謝、表彰をして貰ひたいなどとは考へて居らぬであらう。併し乍ら社会としてはこれを何等か適当に考慮すべきだと思ふ。それではどんな方法があるであらうか。それは伊東翁として隠居ではなく現役としてもっと活躍せしむることであると思ふ。これが恐らくは伊東翁の希望であり、又翁の晩年を完からしむる所以ではあるまいか。若し翁の健康がそれを許さぬなら止むを得ぬがまだまだ心身とも第一線に立って活躍するに不充分とは思へない。(中略)これが恐らくは同翁の表彰以上に喜ばれるところのものに他ならぬと思ふ」
1940年1月17、18日号において、伊東翁表彰祝賀会が関係諸団体により予定されるとの記事が掲載されたが結局、24日号日商主催で国語学校、山口県人会、仏教会、大日本武徳会米国シアトル支部、洗濯業組合、理髪業組合の関係諸団体すべてが参加して26日行われる記事が掲載された。
この連日の記事を見ると、伊東忠三郎氏は各界からの信頼、人気が非常に高い人物だったことが伺える。
「伊東忠三郎氏表彰祝賀会」1940年1月27 日号
「伊東忠三郎氏が今回日本産業協会より表彰されたので、昨晩7時よりマネキ亭に於て日商有志主催の祝賀会が開催されたが出席者116、7名の多数に上り盛大な祝賀会であった。先ず山口県人会会長近村改蔵氏が司会者として開会の挨拶を述べ、日商会長三原源治氏が『伊東氏が表彰された事は独り伊東氏の名誉のみでなく、西北部在留邦人の名誉である』と祝辞を述べた。連絡日会長沖山栄繁氏が伊東氏の長き社会奉仕の生活を語って祝意を表した。帝国領事佐藤由己氏が伊東氏の高潔なる人格を稍揚し一同乾杯の後、伊東氏が感激に溢れた答辞を述べ、会食後余興百出、歓を尽して散会した」
伊東忠三郎氏は1949年4月9日、奥田平次氏は1955年12月20日に亡くなった。この訃報記事を『北米報知』では「在米同胞のたから、伊東忠三郎氏逝去」「奥田翁、巨木遂に倒る」と掲載された。両氏とも戦前、戦後を通してのシアトル日系人社会の大先駆者だった。
次回は日米親善に努めたシアトル在留日系人についてお伝えしたい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。
参考文献
① 加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
②竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
③伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年
筆者紹介
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす
『北米時事』について
鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。