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シアトル航路の貢献〜『北米時事』から見る シアトル日系移民の歴史 第5回

北米報知財団とワシントン大学による共同プロジェクトで行われた『北米時事』オンライン・アーカイブ(www.hokubeihochi.org/digital-archive)から古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を辿ります。毎月第4金曜発行号で連載。

筆者:新舛 育雄

第5回 シアトル航路の貢献

前回は1918年以降にシアトルで活躍した人達と領事に対する期待に関する記事について紹介した。今回はシアトルの発展と在留日本人の往来に貢献したシアトル航路について、お伝えしたい。

シアトル航路開設

シアトルと横浜をつなぐ日本郵船のシアトル航路は、1896年に開始。これを機に、シアトルの日系移民が急増していった。

『北米時事』1919 年1 月1 日号、日本郵船株式会社からの年賀広告。1面掲載の広告には、伏見丸の外観と一等食堂の写真が載っている

「沙市(シアトル市)と郵船会社」1920年1月1日号

日本郵船シアトル出張所副長の中瀬精一氏がシアトル航路開設につき、当時の様子を次のように語っている。

「今から約二十年ばかり以前、鉄道王のゼームス・ヒル氏が大北線をこのシアトルまで延長するに当たり、当地の有力な実業家ゼームス・グリフィ氏が建言するに、『将来は日本の海運界と提携する必要がある』を以て、遂に氏が親しく渡日して調査することになった。その当時郵船会社が米国航路を何れの地に選ぶかという考査中であった。氏の意見と将来の日米貿易事業などの関係からこのシアトルを採ることになった。1896年三池丸というわずか三千トンに過ぎない船が初めてこの地への航路を開いた」

シアトル航路開設によって、シアトルと大陸横断鉄道がつながり、シアトル発展の大きな原動力となった。

シアトル航路と大陸横断鉄道

1918年頃、シアトル航路を運航した船として伏見丸、諏訪丸、香取丸、鹿島丸、熱田丸、賀茂丸の6隻。これらの船が約3週間ごとに定期的にシアトル、横浜間を運航した。1918年1月に「佐藤大使、伏見丸にて帰朝」と題して、1916年から1918年まで駐米大使だった佐藤愛麿氏がニューヨークから大陸横断鉄道に乗り、シアトルで伏見丸に乗り、帰国の途に就くまでのエピソードが掲載されている。

「佐藤大使雪に降籠(ふりこ)めらる」1月14日号

「佐藤大使の乗車したシカゴ・ミルウォーキー線の汽車は途中、オハイオ州附近において降雪に囲まれ進むことできず。汽車は既に20時間遅れた。(中略)日本郵船シカゴ出張所からの入電によると、佐藤大使は14日夕刻にシカゴを出発し、汽車に故障がなければ、17日夜にシアトルに到着予定だが、数日来ロッキー以東において、大風雪あり。目下西行汽車不通の状態なので定期の着車は予期できない。何れにしても伏見丸が17日出帆では間に合わないが19日迄延期の返電はまだ来ていない」

『北米時事』1918年1月18日号「佐藤大使漸く着沙せらる」

「佐藤大使通過」(スポケン支社発)1月18日号

「佐藤大使の汽車は17日の午後5時にスポ—ケンに定刻より遅れて漸く到着。しばらく停車後、深夜当地を出発し、シアトルに向かわれた。当地在留者は大使の到着を知らなかったため、夜8時まで大使は車中に居られた」

「佐藤大使漸く着沙せらる」1月18日号

「佐藤大使が搭乗した汽車は数時間遅れ漸く18日朝9時シアトルに到着した。松永領事、竹内書記生、高橋、奥田両日本人会長、中瀬郵船、中村実業倶楽部書記、鈴木東北人会、中島日会書記の諸氏が停車場に出迎えた。佐藤大使は従者を従えて徐ろに下車。一同と握手を交換して、『わざわざ出迎えをしてもらい有難い』と謝辞があった。『汽車が遅れて、困った今は迚も時間があてにならぬので』と大使もやっと安堵の色あり。それより導かれてホテルワシントンに投宿した。

大使がホテルについてヤレ安心と休息せられた処を失敬すると温厚の紳士は快く記者に向いて談られる。

『始めて斯る馬鹿な経験を得たよ。途中で既に48時間遅れてしまった。伏見丸は17日に繰り上げたと聞いたから、気が気でないが、雪に囲まれたのだから如何ともすることができなかった。車中に盛んにヒートを造ってくれたから寒気を凌げた。また皆さんが自分の為に大変親切にしてくれた』」

「午宴会」1月18日号

「18日正午、ワシントンホテルで松永領事主催の午餐会が開かれ、佐藤大使を主賓として、同胞側は高橋、奥田、石田、中瀬の諸氏、白人側から商業会議所会頭ローズ氏、ローマン氏その他23名知名の士が招かれた。(中略)午後6時半からは実業倶楽部において、多数の在留同胞有志との晩餐会に大使は出席した」

シアトルには、佐藤大使のように当時の日本の要人が頻繁に訪れた。その度に在留日本人は歓迎会を開き、手厚く迎えていたのだ。

「伏見丸出航す」1月19日号

「伏見丸は19日午後2時に遅れて日本に向け帰港した。佐藤大使は従者を従え、9時過ぎに乗船した。波止場は例の如く、取締りを厳重にして、乗客以外は入れず、僅かに松永領事のみ入船を許された。佐藤大使は領事を通じて当地在留同胞が親愛なる歓迎会を深く謝すと伝言があった。一等船客は約30名、二等・三等合わせて二百数十名となり、奥田平次氏の母国実業視察団一行、ポートランドの伴商店支配人の中谷保氏等も乗船した」

佐藤大使が伏見丸にもし乗れなければ、次は2月7日の鹿島丸まで待たなくてはならなかった。

最短の世界航路

「日米航路と欧州航路」1919年3月8日号

「日本ではやれ視察、やれ漫遊と休戦後の欧米旅行が大流行である。(中略)横浜からパリに行くにはシアトル航路と欧州航路の二つがある。

シアトル航路地図(『米国旅行案内』1927 年掲載の地図を基に筆者作成
『北米時事』1919年3月8日「シアトル航路によるパリまでの所要日数と料金」

シアトル航路、大陸横断鉄道経由の一等で乗り継いでパリまで行くと途中のお弁当代、宿泊料を含んで、927円、(現在金額にすると約90万円位)二等で乗り継いでいくと合計582円、(現在金額にすると約60万円位)。一方、インド洋経由の欧州航路でパリまで行くと、一等で合計710円、二等490円となる。シアトル航路、大陸横断鉄道を使えば合計27日で行けるが、欧州航路は52日かかる」

「将来の世界航路は太平洋の日米航路」1920年1月17日号

同記事には、シアトル航路が最短の世界航路であることが記述されている。

『北米時事』1920年1月17日 「将来の世界航路は太平洋の日米航路」

「日本郵船シアトル出張所は支店に昇格した。これに伴い新支店長に横浜支店副長の渡部氏が1月下旬に支店長として赴任することとなった。このため北米時事記者が横浜支店を訪問し引見した。(中略)渡部氏によるとシアトル航路は南方航路に比して、約1000マイル近い。大陸横断鉄道も北方線の方が近い。世界旅行者にとって最も便利」

日本郵船シアトル出張所が支店になった経緯について、1920年1月1月号の「シアトル市と郵船会社」でシアトル出張所副長の中瀬精一氏が次のように語っていた。

「1896年にシアトル航路が開設されてからは、日本郵船はシアトルでの一切の業務を大北鉄道に委託していた。しかし、シアトルが貿易港として発展していく中で1911年に出張所を設け、初代所長が大北鉄道のスタッドレー氏だった。そして更に発展するシアトルがニューヨーク、シンガポールと同じく、1919年11月の総会で支店に昇格され、支店長は日本人を以て任ずるということになって横浜支店副長の渡部水太郎氏が赴任することになった。それと同時に自分はニューヨーク支店副長となった」

日枝丸、氷川丸の活躍

1930年以降、シアトル航路は氷川丸、日枝丸、平安丸3隻が主力船となった。

「太平洋横断100回満願高橋船長」1934年11月30日号

「日枝丸高橋船長の今度の航海が100回太平洋横断となった。先般山口船長の100回航海のお祝いがあったのに次ぐ。 高橋船長は自宅でつつましやかなお祝いをした。口でこそ100回だが、普通太平洋を渡るには二週間かかるこの頃では1年に7航海になって、1年の内、家にいるのは21日、来る日も来る日も空と海の碧一色という次第だから、この記録は誠に貴い。

『僕のように感じの鈍いもんでないと船乗りは出来ん。昔からすこしぼんやりしていたが、それがよかったのだろう』と言った船長には奥ゆかしい。(中略)太平洋のレコードは1909年練習船で横断して以後まるっきりこの海が故郷になってしまった。1910年に東京商船を出て北野丸を振り出しに安芸丸、加賀丸、三島丸と行ったり来たり、今まで数を勘定したことはないのだが、ふと数えてみると、もう100回目だ。(中略)日枝丸だけでも26回目だ。時化けるのが当たり前のような北太平洋で、想い出もなきや、冒険もない」

「太平洋上の荒れを潜って氷川丸は明朝入港予定」1934年12月26日号

「日本郵船の氷川丸は明朝当地に入港するが、昨今の太平洋の空は荒れ模様、20日頃の無線では、洋上は大暴風雨の模様で、シアトルから1700マイル洋上で英国船ベンローソー号が破船し操縦機は破壊され、救命艇は波のために航行不能の状態に陥っている模様で船員40名の安否が気遣われている。

明27日入港予定の氷川丸は当時巧みに暴風圏外を走っていたが、昨日夕刻、あの荒れにストレートの入口で最後の埠頭をめがけて本朝ビクトリア前を航行したということであるが、明日の入港には差し支えはない模様。氷川丸は今年日本から入る便船としては最後のものである」

「郵船氷川丸本朝シアトル入港」12月27日号

『北米時事』1934年12月27日号、「郵船氷川丸本朝シアトルa入港」

「今年シアトルに入る最終船として郵船の氷川丸が本朝当地に入港した。船長は金子文太郎。船客は△一等(船客名)△二等(船客名)△三等(船客名)」

また、同日号の同頁の下の方に「名士来沙」として次のように掲載されていた。

「今朝入港した氷川丸に王子製紙会社大塚良教氏、呉海軍少佐高原久衛氏、三井物産、山田雄治氏等来沙」

『北米時事』は日本からの船がシアトルに到着する度に、上陸船客名をすべて克明に伝えていた。

筆者の父、與は、1914年シアトルに生まれた二世だが、父親、與右衛門の死で1929年帰国した。1936年シアトルへ再渡航、1941年日本へ帰国時に、平安丸に乗船した。その時の様子を次のように語っていた。

「二週間の船旅で、必ずどこかの日に海は大荒れになり、船は激しく揺れた。10メートルにも及ぶ大波が船を襲ったが、船は横波を巧みに避け、波に向って巧みな操行をした。横波をまともに受けると船が転覆する危険性があった。この大きな揺れのために、ほとんどの人が船酔いし寝こんでしまっていた。自分は平気だったので、夕食時間に食堂へ行くといつもは満員のお客であふれているのに、誰一人おらずガランとしていた」

シアトル航路を操行した氷川丸、平安丸は、暴風雨の荒波にも耐える、非常に優秀な船だった。シアトル航路はシアトルの発展を支え、日系人にとって、懐かしい故郷、日本と結ぶ非常にかけがえのない存在だったのだ。

次回はシアトル在留日本人の理髪業の発展の様子についての記事を紹介したい。


*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。

参考文献

①海外旅行案内社『米国旅行案内』1927年。②竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。③日本郵船株式会社編『日本郵船五十年史』1935年。

筆者紹介

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙で「新舛與右衛門— 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

『北米時事』について

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3 月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

新舛 育雄
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現日本エア・リキード合同会社) に入社し、2 0 1 5 年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を本紙「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」として連載、更に2021年5月から2023年3月まで「『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史」を連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。